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 洗濯物は太陽光で干すのが一番早いしエネルギー使わないし人として当たり前の姿だから、というのが理由らしい。ウルフウッドは山と盛られた洗いたての衣類を入れたカゴを片手で一つずつ抱え、ジェシカに案内してもらいながらサンルームを目指した。
 シップ内の仕事は当番制で洗濯は男女別に行っているという。下着の扱いを考えれば妥当だろう。家族単位ではなく住居ブロックごとで洗っているのは、エネルギーや水の消費が少なくて済むからだそうだ。どうしても個人で洗いたいものは手洗いをして自室に干せとのことだ。これもまぁ、妥当なのだろう。
 シップで使われている洗濯機はウルフウッドの背丈よりも高かった。横幅も同じぐらいある。銀行で扱っている金庫だと言われたら多くの人間が騙されるかもしれない。そこに大量の洗濯物と大量の洗剤を放り込んでスイッチを押した。もし洗濯機が意思を持って人類に反抗してきたらナインライブズよりも手強いかもしれない。そう考えるほどの轟音にウルフウッドは目を剥いて毛を逆撫でた。
 洗濯機が大人しくなるとその口を開け、絡まり合って容易には解けない布の塊を力づくで引きずり出す。それをカゴに収め、これから干しに行くところだった。
 サンルームはシップのてっぺんにあった。排水処理の関係で洗濯機の位置を動かすことはできないという。離れているのは不便だったが、効率よく日光を取り入れるには仕方ないのだろう。カゴを両手で抱えたジェシカがサンルームのドアを開けた。強い光が二人の顔を射す。
 部屋は大きなテーブルが二台とそれに合わせた椅子が据えられただけの広々とした白い空間だった。その約半分を前の当番が洗った衣類が占めていた。壁には絵画どころか時計も飾られておらず、洗濯用のロープを引っ掛けるためのフックがあるきりだ。ロープもフックも白かった。床は白に灰色が混ざった斑な石畳が敷かれている。石と石の境目の溝はあるが表面に凹凸はなくつるりとしている。この部屋すべての石がそうだ。ここまで几帳面な人工物は精密機械でなければあまり見ない。ここでもシップと自分の常識との違いをささやかだが感じた。石ならはひんやりとしているのだろうと一歩踏み出したが、直射日光が長時間当たっているから熱いのかもしれない。どちらにしろ靴を履いているので判らなか
った。ここなら裸足で生活しても中途半端に打った釘などを足を引っ掛ける心配はなさそうだったがまだ試したことはない。ジェシカの後を忠実に歩く。
 壁の三方は真っ白で凹凸がない作りだったが、一方だけは全面ガラスでできていた。そこから見える光景は蟻地獄の砂の崖だ。絶え間なく砂が下へ下へと崩れていく。まるでシップも沈んでいるのでないかと錯覚するが、重力プラントはしっかりと機能している。その証拠に、宙を舞う細かい砂はこちらに近づいてきても窓にぶつかりはしなかった。いつまでも眺めていたら酔いそうだとウルフウッドは眼を逸らす。音は一切しなかった。よほど分厚いガラスを使用したのだろう。この部屋だけ切り取られたように不自然だった。
 窓と対面している壁のすみずみにまで太陽は光を落として眩しいほどだった。天井まで明るいが、構造的にありえない。ここを隠れ里にすると決めてから外壁になんらかの手を加えたのだろう。
 ジェシカはカゴを床に置くと、干してある洗濯物を外しにかかった。背が低いため一生懸命腕を伸ばし、壁にかかっているロープをつかむ。ジャンプをするようにしてフックから外した。ウルフウッドも二本目のロープを手にしてジェシカに倣う。乾いた洗濯物を床に落としていく。カサカサと音がした。
「ここに干せばすぐに乾くわ。洗濯当番は洗った洗濯物を干して、前の洗濯物をたたんで回収所に並べるまでがお仕事。あたし達が干したのは最初のグループの人がたたんでくれるわ」
「洗濯物が多いと大変やなぁ」
「アウターみたいに各家庭に洗濯機を一つ用意、なんて贅沢できないもの」
 ジェシカはロープの端にぶら下がっているBと書かれた札を取るとエプロンのポケットにしまい、代わりにCと書かれた札を下げた。住居ブロックの名称だ。ウルフウッドもBの札を取り、ジェシカに投げて渡すとCを同じように受け取ってぶら下げた。足元の洗濯物を抱えてテーブルの上に適当に置き、自分達が持ってきた洗濯物をロープに吊るしていく。
 干している洗濯物が一度なくなったことで視界が広くなり、初めて窓際に花があることに気づいた。大きな白いトレーの上に古い木箱が二つ並べられており、そこで咲いている。そこだけ色があり異質だ。ウルフウッドは当然その花の名を知らない。ジオプラントと離れているがどうして育っているのだろうか。
「野菜とかの捨てちゃうところを土に混ぜると植物の栄養になるんですって。それを専門に研究している人達がいるんだけれど、それは研究とは別に趣味で育ててる人がいるのよ。土はここで作った人工のもの。近くで見てもいいわよ」
「別にええよ」
 そう応えるが視線は外せなかった。土というのは砂とは少し違うことは知っている。しかし何がどう違うのかまでは知らない。黒っぽいという印象しかないが、そんなに異なるものなのだろうか。
 熱心に観察を続ける姿にジェシカが呆れる。
「そんなに警戒しなくてもお花は噛み付いたりしないわよ」
「ワイのことなんやと思っとるん」
 片目を眇めると干す作業に戻った。
 背が低いジェシカの方が作業しにくいのもあるだろうが、どう考えたって男性物の方が洗濯物は少ない。ウルフウッドは男物を干し終えるとテーブルに行き、白い椅子に座って乾いた衣類をたたみ始める。自分の服はたたまないから苦手な作業だ。ハンガーから直接取って着た方が効率的だと思うのだが、一般的にはだらしがないと評価されるらしい。まだ干している途中のジェシカが追いつくまでわざと遅く手を動かす。靴下をまとめ、ハンカチを折り、タオルをまとめる。シャツを手にしたところで作業を止めた。
「なぁ、針と糸あるか?」
「あるけど、どうしたの」
「ボタン取れそうなんや」
 白いシャツの上から三番目のボタンがだらしなく垂れていた。誰のものかは知らないが大人数の衣類と一緒にするのだ、とれてどこかに紛れたら見つからないだろう。どうせ暇なのだ、このぐらいならやってやらないこともない。
 ジェシカはいま干したばかりの洗濯物のシワを広げると、ふぅん? と不思議そうに首を傾げて部屋を出て行った。しばらくすると小箱を抱いて戻ってくる。
「はい、どうぞ」
 洗濯物を腕でどかしスペースを作る。そこで女性らしいチェックの小箱を開けると、おもちゃみたいな裁縫道具が行儀よく詰まっていた。ウルフウッドが触れれば容易に壊れてしまいそうだが、裁縫道具というのは得てしてこんなものだろう。シャツと同じ白い糸を取り出し、短い針をつまむ。ジェシカが興味深そうに手元を覗いてきた。
「自分の仕事せぇ」
「いいじゃない、少しぐらい」
 少女のことは一瞥もせず針穴へ糸を向けた。一度で通ると歓声があがったが、無視をして針から抜けないように玉結びをした。外れかかっているボタンを手でむしる。
「それは乱暴じゃない? 生地が傷むわ」
「これが一番速いやん」
 古い糸を指先で全部引き抜き、ボタンを生地に当て直す。針と糸で縫い止め、根本に糸を巻き付けて生地の裏側で玉止めし、針に繋がっている糸をピンと張った。シャツに顔を近づけ犬歯に糸を引っ掛ける。プツリ、と呆気無く切れた。針を針山へ戻す。シャツを広げ直し出来を確認したところで、ジェシカが目を丸くしていることに気づいた。
「なんや」
「前々から思ってたけど、あなたってオオカミみたいね」
「オーカミ? 見たことあるんか」
「さすがにそれはないけれど……でも、犬を凶暴にした感じなんでしょ」
 そんな認識の動物に喩えられるのは不満だったが、子供の言うことだと追及しないことにした。その代わりにボタン付けしたシャツの身頃を整えながら問う。
「前々っていつや」
「食事しているのを見たときよ。お肉をすんごい顔して噛みちぎってるんだもの! びっくりしちゃった」
 ウルフウッドがもう一つのテーブルを指差すとジェシカはそれに従い、白い椅子に腰掛けて女性物の衣類をたたみ始めた。女性物特有のややこしいデザイン服が多いが手慣れた様子で整頓していく。手を動かした程度では舌は止まりそうにない。
 獣じみた形相で噛み付いた記憶はなかったが、傍からはそう見えるのならばそうなのだろう。ここの食事は慎ましいが、最低限の質は約束されている。どうして営業できているのか理解できないほどおんぼろな店で出される、靴のゴム底みたいな肉とは根本的に違うのだ。あっけないほど簡単に噛みちぎれたものだから驚いた。気の毒そうにナイフを差し出すヴァッシュのことは無視をした。
 ボタン付けよりは食事の態度の方が確かにオオカミらしい説得力はある。飯ぐらい好きに食わせてくれというのが一番の願いではあるが。
「あなたって犬歯鋭いわよね。アウターの人ってみんなそうなの?」
「言うほど鋭くないやろ」
 名前のせいか犬歯について指摘されたのは初めてではないが、他人と比べて別段目立つほどでもない。好奇心の眼差しで口内を覗き込もうとするジェシカに溜め息をつく。
「ワイの歯はここの住人らと同じぐらいやし、上の連中もみんなそうや」
「あなたのご両親も?」
 ウルフウッドの手が止まった。正面を見遣ると、口の中を窺う様子はそのままに、幼い手はリズムよく洗濯物を片付けて続けている。ウルフウッドも作業を再開した。
「見たことあらへんから知らんよ」
「ご両親よ。自分の親」
 ジェシカは純粋な眼をぱちくりとさせた。本当に判らないのだろう。
 この感覚を、ウルフウッドはおぞましいと思う。善人すぎて地上へ出たらすぐにカモにされ搾り尽くされるだろう。ヴァッシュはあの体と地上での生活が長いせいか多少の心得ぐらいは持っているようだが、ここには外を知らない連中も多いと聞いた。地球への希望を繋ぐだけの技術力はあるが処世術はさっぱりだ。
 だがここを理想郷とするならば少しは話が違ってくる、のだろうきっと。と考える程度にはウルフウッドも歩み寄りを示し始めた。ウルフウッドの世代では無理だろうが、二つ三つ先になればあるいは。この砂の星が、図書室で見せられた地球のように緑豊かになる光景は想像できないが、ジオプラントが入手できれば不可能ではない。希望はある。地球やこのシップにだって諍いぐらいはあるだろうが、充分な資源があれば争いの種はだいぶ減る。その頃には、こんなとぼけた質問も当たり前になるのだろうか。
「ワイは孤児や」
「コジ?」
「孤児、みなしご、捨て子」
「あっ、ごめんなさい」
 ジェシカは口に手をあてた。ここでは孤児は憐れむべき存在らしい。ウルフウッドは珍しく唇を柔らかくする。
「別に。上にはそんなんぎょうさんおるで。むしろここではどうなっとるん」
 小さな体は居住まいを正すと、手元の乾いた洗濯物を真摯に凝視する。
「もちろん病気とかで両親がいない子もいるわ。そういう子供はどこか別の家族の一員になるの。じゃないと、その子は生活できないでしょ」
「さよか。孤児院はないんか」
「コジイン?」
「知らんならええ」
 そこで会話を切り上げた。
 ジェシカは悪いと思ったのかしばらくは喋らなかった。無言の時間が続いたが、しばらくするとぼんやりと独りごちる。
「でもアウターには一回ぐらい行ってみたいわ。子供は危ないから一人で行っちゃダメなんだって。そんなに危ない所だったらとっくに滅んでるはずなのに、ヘンよね」
 完全に拗ねている子供の口調だ。危ない場所は子供にとって魅力的で、禁じられるのは納得できないという姿勢はここでも変わらないらしい。ウルフウッドはそんな弟妹を何度も相手にしてきた。からかうような意地の悪い笑みを刻む。
「嬢ちゃんみたいのが上に行ったら、それこそ牙の鋭いオーカミさんが一口でペロリや。やめときやめとき」
「それってどういう意味?」
「やめときやめとき」
 ウルフウッドは楽しそうにタオルをたたむ。ジェシカは唇を尖らせた。
 しばらくは無言で仕事をしていたが、ふいにジェシカが椅子から降りた。見遣るとウルフウッドのテーブルへ近づき裁縫道具を手にする。向こうでもほつれた衣類があったのだろう。靴下を丸めながら眺める。幼い手は針穴へ糸を通そうと試みるが失敗続きでちっとも次の作業に進めない。ウルフウッドは靴下を置き、手を差し出す。ジェシカはそっぽを向いた。
「このぐらい一人でできるもの! ほら、ヴァッシュって案外抜けてるところがあるでしょ。だからいつでも縫えるように練習したのよ」
「さよか。なら何も言わんでおくわ」
 ズボンを三本丁寧にたたみ終えた頃、ジェシカは小さな歓声を上げた。針と糸と糸切りばさみを持ってテーブルに戻る。はさみより犬歯の方が早いに決まっているが、よく手間を惜しまないものだ。ウルフウッドはワイシャツを手にし、カフスボタンが取れそうなことに気づいて引きちぎった。手の平に転がす。黒い石が付いている。随分と洒落たデザインだ。
 先程ボタンを留めた糸は長くとったため、もう一つぐらいなら充分に縫えそうだった。玉結びをし、慣れた手つきで針を刺す。
「ウルフウッドさんってお裁縫しなさそうなのに上手よね」
 糸を長く引いたところで正面を見遣ると、どういう縫い方をしたのか絡まった糸をほどこうと格闘している姿があった。鼻から呆れの溜め息を長く吐くが、手を差し伸べるとやはり怒るのだろう。眺めるだけに留める。
「さすがにシャツはガムテで留めるわけにはいかへんからなぁ。買うより縫った方が安いやん」
「それもそうね。そうそう取れるものでもないけれど」
 パニッシャーどころか拳銃すら持たない生活ならそうだろうと、胸中だけで意見する。ここでは殴り合いのケンカもあまりないらしい。
「サイボーグて見たことあるか」
「ヴァッシュの腕ならあるわよ。ロステクじゃない義足を使ってる人もここにはいるけれど」
 そう答えながら小さく首を傾げた。ここはこの程度なのだ。
 結局糸はどうにもならなかったようで、ほどくことを諦めたジェシカは潔くはさみで切った。注意深く玉結びをし直す。ウルフウッドは針と袖を持ったまま肘をつき、手の甲に顎を乗せた。
「あいつのはガムテで留めた方がよさそうやな」
「そんなみっともないこと私がさせないわ!」
 風船のように頬を膨らませる姿はまだまだ子供だ。ウルフウッドは笑う。
「せやったらもっと練習せなアカンな」
 顎を上げ、糸を切ろうと誰かの袖に顔を近づけたときドアが開いた。ヴァッシュだ。笑顔だったが一瞬できょとんとしたものに変わり、ウルフウッドに眼をしばたかせる。ウルフウッドは糸に歯を掛ける直前のポーズで停止した。
「キミ、洋服食べるの?」
「アホやろ」
 くだらないと大きな溜め息をつき、糸をぷつりと切った。その動作にヴァッシュが小さな歓声を上げる。そんなに珍しい行動だろうか。
「どうしたのヴァッシュ!」
 想い人がどれだけ阿呆な思考回路を顕現させても喜ぶのは、恋は盲目というやつなのだろうか。ジェシカは針と服を置き、ヴァッシュの元へ駆ける。おさげ髪がぴょんぴょんと跳ねた。あれは犬の尻尾のように感情を表す器官なのかもしれない。ヴァッシュは抱きとめると頭を撫でる。まるっきり子供扱いだ。
「キミ達がここで仕事中って聞いたから。ついでに読書でもしようと思って」
 そう言ってヴァッシュは持っていたハードカバーの本を軽く掲げる。ここでは当たり前の光景ではあるが、読書とは優雅なものだ。
 ここは洗濯以外の用事でも入室可能なのかと窓の方へ目をやる。部屋の半分は濡れた洗濯物で埋まっており、窓のほとんどを遮っている。空調は入っているが直射日光が容赦なく刺さってくるせいで息苦しい。椅子もテーブルに備え付けのこれしかなく、娯楽もないのだから人気がないのは当然だろう。どちらの身をどのように案じて来たのだろうか。ジェシカはいまにもジャンプしそうな勢いで喜んでいる。
「そうだ、たたむついでに繕い物もしてたのよ。ヴァッシュもなにかない? 一緒にやっちゃうわ」
「ん? そうだなぁ」
 ヴァッシュは少し上を向いて考える素振りをした。ジェシカは恋人気分で楽しいのか、腕に腕を絡め、目を輝かせて待っている。ウルフウッドは作業を中断し、頬杖をついて傍観することに決めた。小さく唸っていたヴァッシュは、やがてあっとひらめいた顔をした。
「コートのボタン! 取れそうだったんだよね。だからそれお願いしたいなぁ。あ、でも普通の針じゃ刺さらないかな。それは誰かに訊かないと」
 ヴァッシュの言葉は途中で打ち切られた。トンッと小さな手に胸を押されたのだ。よろめくほど細い体ではない。先程までここに差し込んでくる陽射しと変わらないくらいの笑顔を向けていた少女は、怒りで頬をむくれさせた。目尻には涙が浮かんでいる。
「知らない。ガムテープで留めればいいのよ」
「えぇっ」
 ツンッと顔をそっぽに向けたジェシカは足音荒く部屋を出て行った。雑音を立てるもののない室内にドアが閉じる音が大きく響く。ヴァッシュはその白い扉をぽかんと見つめた。
「フラれてもうたな」
 ケケケと意地悪く笑うとが、ヴァッシュはあっさりと肩を竦めた。ジェシカが座っていた方のテーブルに近づき、ブラウスを手に取る。
「仕方ないよ。僕じゃ彼女には釣り合わない」
 なんや気付いとったんか。という言葉は飲み込んだ。間の抜けたガキのような男だが、ウルフウッドよりは長く生きているのだ。具体的な年齢は訊いていないが、子供の感情ぐらいは勝手に悟れるだろう。
「悪いやっちゃなぁ。人畜無害なツラして、オンドレみたいのが一番タチが悪いわ」
「酷いなぁ。スマートだって言ってよ。彼女も大切な家族なんだから」
 ジェシカからすれば酷薄な態度に映るかもしれないが、この男なりの優しさなのだろう。それを好ましいと思うか否かは個人の価値観による。ウルフウッドは当然の態度だと受けとめるが、過去にもこうやって幾多の女性を泣かせてきたのだろうと想像すると、善人だとは決して評価できない。可哀想な少女達はさっさとこの男の本性に気付くべきだ。
 羊のツラした男はブラウスも肌着も下着もタイツも隔て無くたたんでいく。他の男がやったらクレームになりそうだが、この男だけは例外なのだろう。異性ではなく家族なのだ、おそらく。
 ジェシカが途中で放り投げたボタン付けの針を見つけると、男のくせに細い指はするすると縫い留めた。パチン、と糸の根本をはさみで切る。この男も迷うことなくはさみを使った。柔和な顔の牙では肉を裂けず、糸すらも切れなさそうだ。確かに自分の牙はこことは違うのかもしれない。いや、ここの住人がヴァッシュ寄りなのか。
「ワイの犬歯な、オーカミみたいなんやて。オーカミ言うたらなんでも食い殺してまう獣なんやろ?」
「あんまり知らないけど、そう聞いたことあるね」
「でもな、ワイの牙は糸も切れるし、袋も開けられるし、結構便利やと思わへん?」
 ヴァッシュはふと手を止め視線だけでウルフウッドを窺った。本気とも冗談ともとれる真っ白な表情だ。口は閉じているが獣と同じ名を持つこの男の唇の向こうには、獣じみた二本の犬歯が存在するのだ。
 黙って観察していたヴァッシュは、やがていつものようににっこりと微笑んだ。
「うん、そうだね。でもはさみっていう便利なものがあるし、それを使うことは悪くないよ。キミは扱えるんだから。それに」
「あ?」
「歯ブラシは噛まないで使った方がいいと思うよ、子供じゃないんだから。キミすぐダメにしちゃうでしょ」
「喧しいわ」
 ウルフウッドは誰のものか知らないトランクスを、適当に丸めてヴァッシュの顔に投げつけた。
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・SFパロ台牧
・2013年ぐらいに書いてたっぽい
・あと1万字ぐらい書けば完結したはずなんだけど、途中で休憩しちゃって、今の実力と差がついちゃって、続きを書けなくなったので供養上げ。結末まではストーリーちゃんと考えてた
・推敲してないので文章恥ずかしいことになっている

以上の注意に納得された方のみ続きからどうぞ
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 今日、あたしの兄は出て行ってしまう。これは最後の準備だ。
 兄の部屋は使っていた家具はそのままなのに、その中身だけがすっぽりとなくなっている。中身はすべてダンボール箱の中に移してしまったからだ。
 本やDVDなどは先に新居に送ってある。今日は残りの服をつめるだけ。『楓』と兄の名前がかかれたダンボール箱に荷物をつめる手伝いをしながら、あたしは寂しさをこらえていた。
 兄がこの家に戻ってくる頻度は、きっと少ない。

「美咲、手伝ってくれてありがとう」
「うん」
 別の箱に別の荷物をつめている兄を見ないようにしながらあたしは頷いた。
 本当は出て行って欲しくない。でも、兄がこの家に住み続けることを選んだら、それはそれであたしはツライ気持ちになるはず。
 だからせめて気持よく送り出せるように、あたしは一つずつ大切に荷物をしまう。
 荷物と一緒に、新居でも幸せに暮らせるように願いを込めて。

「美咲は、おれが結婚することにまだ怒ってる?」
 唐突な言葉に驚いて顔をあげた。兄は、あたしに背を向けたまま梱包作業を進めている。
 兄が結婚報告をした日のことが再生される。刹那、胸がきゅっと締めつけられた。でも、あたしはすぐに笑顔になれた。
 恋した相手が結婚すると聞いて、悲しくないはずがない。でも自分の恋が実ることより、恋した相手が幸せになれる方が、あたしにとっては大事なことだ。
「はじめから怒ってないよ」
 喪失感とともに甦る。木洩れ日のように美しい思い出。
[newpage]
「はじめまして。透子と申します」

 兄が初めて恋人を家に呼んだ日は、どんな日だったかハッキリと覚えていない。でも、その人がまるで絵画のように美しいと感じたことだけは確かだ。
 品良くお辞儀をした兄の恋人の長い髪は、ウェーブがかかっていて艶やかだった。透明感のある肌は名前に相応しいし、声だって女性的。兄には不釣合いなほど美しい女性だ。
 でもあたしは、透子さんに関心は持てなかった。兄の恋人は、あたしにはあまり関係のない存在だと思っていたから。

 小さなころから人見知りの激しかったあたしは、初対面の人からいつも逃げていた。だから透子さんからも逃げようとした。
 でも透子さんの方は違っていて、あたしにたくさんの質問をしてきた。
 あたしが中学三年生であること、今年の夏でバスケ部の活動が終わってしまうこと、好きなテレビ番組、恋愛やおしゃれについて。
 たくさんの質問をされたからその時は正直困っていたのだけれど、兄はなぜかあたしたちを放置して親としゃべっていた。
 透子さんは姉妹がいないからあたしの存在が妹のようで嬉しいのだと言っていた。あたしも姉はいないけれど、あたしは透子さんを姉のようには思えなかった。そもそも姉が欲しいという願望がなかったのだ。だから少し透子さんのことが苦手だった。

 その日は透子さんが初めて来た日にも関わらず、透子さんも一緒に夕食をかこむことになった。
 あたしと兄と父は一緒にテレビを見ていたけれど、透子さんは夕食を作る母の手伝いをしていた。料理がへたなあたしとは違い、透子さんは料理が得意だったらしい。母はやたらと透子さんのことを褒め、一日で気に入ってしまった。普段は料理の感想など漏らさない父も、一言「おいしい」と呟いた。
 透子さんは透き通るようにはにかみ笑んだ。
 あたしが透子さんに抱いた最初の印象はこれだけ。あたしは透子さん自身よりも、放ったらかしにしていた無責任な兄の方に腹が立った。だから彼女が帰ったあとに兄を責めた。あたしのことを放ったらかしにしないでと。

 でも兄は、
「透子なら大丈夫だと思ったから」
 と、全幅の信頼を彼女に寄せていた。兄が妹よりも恋人のことを優先したように感じられて、あたしは静かに怒り続けた。

 だから別の日に、兄としっかりと話し合おうと、兄がお風呂から上がった後に部屋に入った。兄の部屋に入るのは久しぶりだ。
 あたしが小さな頃から兄の部屋は大人っぽい印象があったけれど、今はそれに無機質という雰囲気がプラスされている。兄が大学に入ったあたりから、あたしへの関心が薄くなったように思う。
 十も歳が離れているから、兄が高校生ぐらいのときまではよく可愛がってくれた。でも今はあたしのことをどう思っているのだろう。
 あたしは家具から兄へと視線を移し、力強く眼を見つめた。

「お兄ちゃん、透子さんがあたしに構ってくるのをやめさせてくれないかな?」
「なんで?」
 兄はちっとも動揺した素振りを見せずにタオルを動かしている。その反応がつまらなくて、あたしはわざとぶっきらぼうに言葉を出した。
「あたしが人見知りしやすいの知ってるでしょ」
「なら、それを直すいい機会じゃないか」
 あたしはそれ以上抗議の言葉が思い浮かばなくて、仕方なく兄の部屋を出て行った。
 兄は家族より恋人をとったようで、それが少し悔しかった。

 それからも透子さんは何度か我が家に遊びにきた。透子さんはいつもあたしに構ってくるから、人見知りの激しいあたしはその前に自室に逃げるようにした。
 今になって思えば、そのときのあたしは愚かだ。
 透子さんの印象が一変したのは、透子さんが家に遊びに来るのが当たり前になってきてから。
[newpage]
 その日は両親がそろって出かけていた。だから家にはあたしと兄と透子さんの三人だけ。
 あたしは自室に逃げたかったけれど、事前に兄に止められていた。あたしと透子さんが、不仲とまではいかないけれど、あたしが避けていることが気がかりらしい。兄はどうしてもあたしと透子さんに仲良しになって欲しかったようだ。

 あたしはなるべく関わらないで済むように友達から借りた少女マンガを読んで距離を置く。兄はそんなあたしを少し意識しているみたいだ。兄の声がいつもより大きい。
「ねぇ透子、前に言ってたドーナッツ作ってよ」
「そうね。お台所かりてもいい?」
「美咲、手伝ってやれよ」
 唐突な言葉にあたしは兄を睨みつけた。あたしがお菓子もへたなのは兄も知っているはずだ。
 だけど、兄の言葉よりも柔らかく微笑んでいる透子さんの笑顔に負けてあたしはマンガを閉じた。お菓子作りも苦手なあたしは、自信がないまま透子さんと並んでキッチンに立つ。

「なにをすればいいの?」
「まずは小麦粉か、ホットケーキミックスのある場所を教えて」
 普段から料理の手伝いをしないあたしには、言われた物がどこにあるのかわからなかった。素直にそれを告げると、透子さんは柔らかく笑んで「じゃあ一緒にさがしましょう」と言ってくれた。

 狭いキッチンだから、棚やカゴを調べているとすぐに両方とも見つかった。透子さんの判断でホットケーキミックスを使うことになった。
「じゃぁ、粉と卵と牛乳をボールの中で混ぜて」
 透子さんはあたしに指示をだしながら、ヘアゴムで長い髪を一つにまとめた。白い首筋があらわになる。血管が透けて見えそうなほど白い首筋は、同性のあたしですら見惚れてしまった。

 そして、白い首には似つかわしくない痣を見つけた。
 髪を下ろしているときには見つからない箇所に隠れていた痣は、さっきまで読んでいた少女マンガに出てくる『所有印』というものだろうか。だとしたらそれをつけたのは兄に相違いなく、身近な人から淫靡な香りを感じとってしまい、あたしは顔をそらした。でも透子さんに対して嫌悪感はなかった。

 あたしは指示された通りに、卵や牛乳をボールの中で混ぜあわせた。それを輪っかにしたりお団子にしたりする。
 正直、自分で作るよりも駅前のドーナッツ屋さんで買ってきたほうが、簡単だし美味しい気がした。でも自分で一から作ると少し、女の子らしくなれた気がする。いつも見た目は男の子のようだと言われるからそれは嬉しいことだった。

 あたしがドーナッツの形を作っている間、透子さんは鍋に油を満たして熱していた。
「最初にすこしだけ種を入れて、温度を調べるのよ」
 透子さんはあたしに説明をしながら、種を少しだけ、熱した油の中に落とした。それはすぐに浮かんで小さな泡をまわりに作った。
「こういう反応をしたら種を入れて大丈夫よ。美咲ちゃん、好きなのを入れて」
「うん」

 あたしは自分で輪っかにした種を鍋の中に落とした。
 無造作に入れたせいで熱くなった油がはね、あたしの手にいくつも散った。

「あっつ」
「大丈夫っ?」
 火傷を負ったあたし以上に、透子さんの方が動揺した。あたしの手首をつかむと水道の蛇口を開けて流水を出した。そこにあたしの手を入れる。
「ごめんなさいね。ちゃんとわたしが注意しなかったから」
 透子さんが謝りながらあたしの手を冷やしてくれたけれど、その言葉はちっともあたしの頭の中に入らなかった。
 そのことよりも、透子さんの指に見蕩れていた。


 透子さんの細くて長い指が、とても美しかった。


 まるで植物の蔦のようにしなかやで柔らかな指だった。その蔦があたしの指に絡まってくれていることが、息もできないくらい嬉しかった。嬉しすぎて涙が出そうになる。
 なぜ今までこの指に気がつかなかったのだろう。指輪もはめておらず、マニキュアも塗っていない指は、おしゃれに着飾っている女性たちよりも美しかった。

 その美しい蔦で指先に触れられ、身体が甘く痺れた。
「──ッぁ」
「ごめんね、痛い?」
 それは痛みではなく欲望だった。透子さんの声がもっと聴きたい。もっと触って欲しい。その美しい指で。
 身体の芯がこらえがたいほどの熱を帯びてくる。

 でもその熱は、急速に冷まされた。
「どうかした?」
「わたしの不注意で、美咲ちゃんに火傷させちゃって」
「どれ?」
 騒がしくなったキッチンに気づいて、兄が様子を見に来たのだ。兄の介入により透子さんが離れてしまった。熱かった指先が水道水で冷えてゆく。
 透子さんの代わりに触れた兄の指は、男らしく骨ばっていた。この指も嫌いではないけれど、それ以上の感慨はなかった。

「ちょっと赤いけど、大したことなさそうだな。氷で冷やせば充分だろ」
「……うん」
 名残惜しい時間が終わってしまい、あたしはとても残念だった。兄に渡された氷で赤くなった皮膚を冷やす。
 指先を眺めているあたしに、透子さんは眉尻をさげて心配そうに声をかけてくれた。
「美咲ちゃんは休憩していた方がいいわね」
「いえっ、あたしも作りたいです。ドーナッツ」

 透子さんは気を使ってくれたけれど、あたしは火傷の痛みよりも、もっと一緒にいたい気持ちの方が勝った。迷惑だろうかと不安になったけれど、透子さんの微笑はやっぱり柔らかくて安心した。
「じゃぁ一緒に続きを作りましょう」
 続きはなぜか兄も混ざって三人でドーナッツを揚げることになった。兄が混ざったこと残念だったけれど、できあがったドーナッツの味は駅前のドーナッツ屋さんよりも美味しかった。

 不器用なあたしは、透子さんともっと話しがしたくなったのに、なかなか話しかけられずにいた。そのうち母が帰ってきて、母の勧めで透子さんは泊まることになった。たくさん透子さんを見られることが嬉しかった。
 何度も透子さんと食事をともにしたけれど、今日の夕食は特別だった。箸を持つ指、大きく開かれた唇、耳にかけた髪のどれもがあたしを恍惚とさせた。お風呂上りの姿は、羞恥心で見られなかった。
[newpage]
 夜が更け、自室のベッドに寝転がってからもあたしの胸は甘くつまった。いままで男の子に恋をしたことは何度かあったけれど、こんなにも狂おしくなったことはない。
 あたしは友達に借りた少女マンガのことを思い出し続きを開いた。昨日までは憧れだった主人公の気持ちが、今は自分と重ね合わせることができる。
 透子さんのことを思うと、息もできない。

 マンガを読み進めていると、すすり泣きだろうか。隣室から声が聞こえてきた。隣室は兄の部屋だ。透子さんも同じ部屋で寝る予定だ。
 口論している声は聞こえなかったけれど、もしかしたら静かにケンカをしたのかもしれない。あたしは耳を澄ませて会話を聞き取ろうとする。
「──アァッ」
 その声は、すすり泣きではなかった。

 兄と透子さんは恋人同士で、同じ部屋にいる。
 それならば、この声の正体は。

 マンガの中でしか知らない行為。見えないはずの透子さんの肢体が、あたしの瞼の裏に映る。
 瞼の裏の透子さんは、裸体であたしの身体をまたいで見下ろしていた。蔦のように美しい指先が、あたしの皮膚を撫でる。その跡を追うように、あたしも自分の身体に指を這わせた。
 隣の部屋の透子さんの苦しそうな声がずっとあたしの耳をくすぐる。

 自分が求められているような錯覚を受けて、火傷を負ったときのように身体の芯が熱を帯びた。
 ──透子さん、もっと。もっとその美しい指であたしに触れて。
 瞼の裏の透子さんの指は胸からへそ下まで移動して、さらに移動を続ける。そして美しい指先は、一番敏感な箇所を引っ掻いた。

 足先にまで甘い痺れが貫く。
「んっ」
 自分でも触ったところのない場所だけれど、不思議と怖さはなかった。むしろ瞼の裏の透子さんにもっと触れて欲しいと願った。
 透子さんの美しい指と、白い首筋が鮮明に瞼の裏に映る。

「かえで……」
 隣の部屋の透子さんが兄の名を呼んだ。
 その瞬間、あたしの眼から大きな涙があふれた。
 本物の透子さんに触れられている兄が、本物の透子さんに求められている兄が羨ましかった。
 その美しい指先で兄のどこに触れているの? 白い首筋にはまた兄が痕を残しているの?

 瞼の裏の透子さんの指先とあたしの指が、餓えたように何度も敏感な箇所を引っ掻く。透子さんを求めるたびにその指は濡れ、束の間満たされる。
「と……こ、さん」
 あたしも、透子さんに触れられたい。
[newpage]
 指に火傷を負ったように、その日からあたしの胸も火傷をしたように熱をはらみ、ヒリヒリと痛かった。この痛みを取りのぞく氷は持っていない。

 痛みが増すにつれ、透子さんが遊びに来る日がとても待ち遠しくなった。
 いつ遊びに来るかわからないけれど、兄との会話の断片を聞いて透子さんが好きだというお菓子を常備するように気をつけた。お菓子作りを教えてもらうことも、兄が席を立った瞬間を狙ってお願いした。
 透子さんにとっては些細なことのはずなのに、あたしがしたことすべてに喜んでくれた。あたしにとってそれは、とても幸福なことだった。

「美咲ちゃんは、お菓子作りがとっても上手になったわね」
「本当?」
 それは一緒にシフォンケーキを作っていたときのことだ。写真みたいにふんわりとケーキが焼けてとても嬉しかった。でもそれよりも、透子さんに褒められたことの方が嬉しかったし、少しくすぐったかった。
「今度、美咲ちゃんと、美咲ちゃんのお母さんと、わたしの三人で一緒に料理を作りましょう。きっと楽しいわ」
「うんっ」
 料理に誘ってくれたことが、誰かに自慢したくなった。
 ふとソファの方を見ると、兄はどうやら透子さんと積極的にコミュニケーションをとろうとするあたしに安心してくれたようで、あたしたち二人を笑顔で見守っていた。

 そして約束通り三人で料理をしたときは、母があたしのことを褒めてくれた。
 透子さんが泊まると決まった日は、あたしは期待してしまった。あの日のように声が聞こえてくるのではないかと思うと、それだけで身体の芯が熱をはらんだ。
 隣室から声が聞こえてくると、瞼の裏に映る美しい指があたしの熱に応えて濡れそぼつ。翌朝透子さんの顔を見るのはとても恥ずかしくてできないけれど、夜のできごとがあっても透子さんの透明度はちっとも下がらなかった。
 透子さんのようになりたいかと問われたら、よくわからないと答えていただろう。その気持は今も変わらない。透子さんはいつもあたしを受け入れてくれたから、あたしは自分に劣等感を抱かなかった。こんなにも美しい人が隣にいるのに心地よく過ごせることができたのは、透子さんの魅力の一つだったのだろう。

 でも透子さんの美しさと透明感には、高嶺に生えている一輪の花のように憧れていた。それは、眺めるだけで充分に幸福になれる魔法のようだった。
 あたしのそんな憧れはささやかに降る雪のように、静かだけれどしっかりと積もっていった。もしそれが本当の雪だったら、くっきりと足跡を残せただろう。
 兄から報告があったのは、そのぐらいのときだった。

「みんな、話があるんだ」
 両親とあたしとがそろっているとき、兄は透子さんと手をつないで家族を呼んだ。兄は真面目な顔をしており、母は呼ばれた理由がわかっているのか、なにかを期待しているように眼を輝かせていた。父はいつもと変わらない。
 あたしは呼ばれた理由がわからなかった。
 呼ばれた三人はいつも食事をしている席に座らされたけれど、兄と透子さんは立ったままだ。
 兄は透子さんの手を強く握り、透子さんに微笑んだ。透子さんも優しく微笑み返した。このときの透子さんの笑顔は、いつもより輝いているように感じた。
 そして兄はゆっくりと、だけどしっかりと声を出した。


「僕たち、結婚することに決めました」

 
 兄の言葉が弾丸となって、あたしの胸を貫いた。
 あまりにも強い衝撃でなにもできない。母の歓声だけが遠くに聞こえる。
 透子さんの恥ずかしそうな笑顔が眩しい。
 火傷の痛さより、弾丸の痛さの方が勝る。

 痛みから逃れたくて、あたしは心の中で何度も透子さんの名前を呼んだ。
 透子さんと目が合った。とても嬉しそうな顔をしていた。あたしは、堪えることができなかった。

 不自然さを繕うことができないまま、二階の自室へと走って逃げ込んだ。ドアを閉めたとたん、立っていることができなくなって、ドアに背を当てたままずるずるとくずおれた。
 眼の奥が熱い。弾丸が貫通した穴から血が噴き出す代わりに、眼から涙が溢れ出た。
 透子さんと兄が結婚することは意外でもなんでもなかった。なのになぜかあたしは、このままの関係がずっと続くと信じて疑わなかった。

 自分の気持を伝えたいと思ったことは一度もない。触って欲しいと願い続けるだけで、このままでいてくれればそれで充分だった。
 ただ、兄と透子さんは今の平穏を確実にしただけのこと。それはわかっているのに涙が止まらない。

「美咲ちゃん」
 ドアが優しくノックされ、心配そうな声が届いた。あたしの胸がきゅっと締めつけられる。
「美咲ちゃんは、あたしと楓さんが結婚するのに反対?」
 声が出ないあたしは代わりに首を左右に振って答えた。でももちろん、ドアの向こうにいる透子さんには伝わらない。

 透子さんの声は、とっても悲しそうで、それが弾丸と火傷と両方の傷の痛みを強くする。痛みを堪えるために、胸元の服を強く握った。
「美咲ちゃんにとっては、お兄さんをわたしに取られるようで嫌かもしれないけれど、でも、わたしなりに楓さんのことを、幸せにしたいの。それはわかって」

 違う。違うんです。
 透子さんのことを困らせたいわけじゃないのに、どうしてもその一言が出ない。
「でもね、わたしは美咲ちゃんのことも好きだから、美咲ちゃんに結婚していいって許可が欲しいの。だから、それまで待っているわ」

 あたしは震える脚に力を入れて立ち上がった。透子さんが立ち去ってしまう前に伝えないと、絶対に後悔をする。
 涙で汚れた顔のままドアを開けた。その先では、いつも笑顔しか見たことのない透子さんの表情が悲しそうにゆがんでいた。あたしがこんな表情にさせてしまったのだと思うと、罪悪感で苦しくなる。

「違うんです」
 掠れた声でそれを伝えるのがやっとだった。涙で喉が押しつぶされてそれ以上の声がでない。両手で自分の顔を覆い隠した。

 そんなどうしようもあたしを、透子さんは優しく抱きしめてくれた。
 息が止まる。

「わたしは美咲ちゃんのことも楓さんのことも、同じぐらい大好きよ」
 熱い涙があふれた。
 透子さんが抱き締めらてくれた。それだけでもう充分だった。これ以上なにかを望んだら、きっと罰が当たってしまう。
 透子さんの胸の中で泣きながら、胸に空いた弾丸の跡も火傷の痛みも、癒えてゆくのを自覚した。
[newpage]
 しばらく泣いたら落ち着いて、ちゃんと喋られるようになってから、二人におめでとうの言葉を伝えた。兄は苦笑していたけれど、透子さんはふんわりと微笑んでくれた。
「でも一つだけ、お願いがあるんです」
 あたしの申し出に二人は首をかしげた。あたしは自分の組んだ指に力と勇気を込める。
「透子さんのこと、お姉ちゃんじゃなくて今までと同じように名前で呼びたいんです。だめですか?」
 二人が結婚したら、透子さんとの関係は義姉と義妹になってしまう。それは今より距離が空いてしまうような気がして嫌だった。あたしの願いは意味がないかもしれないけれど、あたしの気持ちを整理するには、これが一番の解決方法だったのだ。
 このお願いにも透子さんは笑顔で快諾してくれた。
「ええ、もちろんよ」

 ただ兄の方は不安が残っていたらしく、その日の夜にあたしの部屋にやってきた。兄は少し怒っているように見える真面目な顔で問いかけてきた。
「美咲は本当に、俺たちが結婚していいと思ってる?」
「うん。だからおめでとうって言ったんだよ」
 あたしは兄を安心させるために笑顔を浮かべたけれど、兄は怖い顔を崩さなかった。
「美咲は、俺のことどう思ってる?」
「どうって……」

 兄はどこまで気がついているのだろう。
 透子さんへの憧れは強かったけれど、兄をライバルだと思ったことはなかった。羨ましい存在ではあったけれど、あたしがその位置に収まりたいと願わなかったからだろう。
 あたしにとって兄とは。
 考えるために視線を巡らせる。そしてピタリと、兄の目へ行き着いた。

「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだよ」
 あたしにとって兄とは、大切な家族だった。だから、この結婚で幸せになって欲しい。
 二人の結婚が確定してからも透子さんは何度も遊びに来てくれた。ときには一緒に結婚情報誌を眺めて、透子さんが着るであろうウェディングドレスに夢をはせた。透子さんは兄にするように、あたしのことも大切にしてくれた。
 両家顔合わせの食事会で初めて透子さんの両親に会った。透子さんはお母さん似のようだ。
 すべての時がきらきらと煌きながら甦る、大切な思い出。
[newpage]
 あたしは兄の最後の荷物を段ボール箱につめ終えると、ガムテープでしっかりと封をした。
 今日兄は家を出て行く。新居はこの家から片道三時間。日帰りできない距離ではないけれど、兄が透子さんを連れてこの家に遊びにくるのは難しい。
 もうきっと、年に数回しか会えない。寂しいけれど、でもそれが透子さんにとって良い選択なのだ。
 まだ作業をしている兄の背中を見つめる。透子さんが選んだ、世界で一番幸せな人。

「お兄ちゃん、ちゃんと透子さんのことを幸せにしてあげてよ」
「当たり前じゃないか。お前に心配されるまでもないよ」
 兄が約束をしてくれたから大丈夫。二人は幸せに暮らせるはず。
 あたしはもう使われる予定のないベッドへ顔を向けた。そこで寝ていた透子さんはきっと幸せそうな寝顔を浮かべていたのだろう。兄だけが見られる、特別な顔。

 ピンポーン。
 間延びしたチャイムが聞こえ顔をあげた。部屋の時計を確認するともう約束の時間だ。
「あたしが出る」
 兄に先をこされないよう慌てて立ち上がる。
 次に会うのはきっと結婚式。そのときの花嫁さんは一番美しい人。
 あたしは玄関のドアを勢いよく開けた。眩しい光とともに、優しい笑顔が視界に飛び込んでくる。

 それは──、
「いらっしゃい」
 この世界で一番大好きな、あなた。

 学校のグラウンドで、イルカがジャンプをした。
 バーを睨んでいるのは体操着姿の女生徒だ。体操着は青色――三年生なのだろう。
 力強く地を蹴りバーへ迫る。伸びた背筋、真っ直ぐな指、流れる前髪。その女生徒はバーに肉薄する直前、脚をバネへ変えて高く跳んだ。背面跳び。
 青い空の中で、しなった背中が美しく映える。小学生のときに初めて見たイルカのジャンプのようだ。
 近くのプールから塩素の匂いが漂い、水を彷彿とさせる。
 千苗は小学生に戻り、口を大きく開けたマヌケな表情になった。女生徒が背中からマットに着地した音で我に返る。呆けたせいでずれたメガネの位置を直した。その途端、屋外で部活をしている雑音がよみがえる。
 走高跳に成功した女生徒はマットから上体を起こした。胸につけているゼッケンで神崎という名前なのだと判る。一直線に視線を送っていた千苗に首を傾げた。
「一年生? 見学?」
 筋肉とは無縁な骨の硬さが目立つ千苗に対し、神崎は陸上部らしく引き締まった健康的な体をしていた。憧れの体格に話しかけられると赤面し、目を逸らしてしまう。
「は、はい一年です。でも見学じゃなくて、たまたま見てて、キレイだなって」
「キレイ? あたしが」
 神崎の声には自嘲が含まれていたが、はい! と大きな返事をした。そのままの勢いで深く腰を折り謝る。
「初対面で、いきなりすみません」
「初対面とかは気にしないけど、意見は違うと思う。キレイって言うなら短距離の水森さん、イケメンなら高城くんだよ」
 マットに座ったまま神崎はトラックの方を眺めた。あれが短距離走の選手なのだろう、何名かの生徒がタイムを測っていた。水森のゼッケンもある。ポニーテールが似合っている華やかな顔だ。だが千苗は首を左右に振った。
「違うんです。先輩のジャンプはイルカみたいにしなやかで、映画っていうか、写真っていうか、とにかくスゴイなって!」
「そんな風に言ってくれたの、初めてだよ」
 陰りのある声は千苗にとって冷水になった。もう一度謝ろうとしたが神崎はすぐに笑顔になった。
「あなたは跳ばないの?」
 自分のつむじを見るように目線を上げ、頭を撫でる。
「背が小さくてガリガリだから運動とか苦手で。見るのは大好きなんですけど」
 神崎は正面に立ち見下ろした。かすかに汗と土の匂いがする。千苗の頭の前で手を横にして高さを計った。目の位置ぐらいだ。
「一五〇センチぐらい?」
「に、ちょっと足りないです。一四八センチ」
 ふーんと呟くと、神崎は先ほど跳んだバーを振り返った。
「あれは一四五センチ。次の一五〇が越えられないんだよね」
 声は爽やかだったが、バーを見つめたまま痛そうに眉根を寄せた。
「もとは短距離だから、ジャンプ力がなくて」
 イルカの姿とは結びつかない弱々しい姿。
 千苗は背伸びをしてほんの少しだけ近づいた。
「じゃああの、応援、とかしに来ていいですか」
 戸惑った神崎はトラックの方を伺った。水森と一瞬だけ目が合うが互いにすぐに逸らした。
「えっと、金曜の放課後練習だけなら大丈夫。自由練習なんだ」
「判りました。じゃぁ金曜日に来ますね」
 眉尻を下げた笑顔に、千苗は首を傾げた。


 千苗は図書室で本を数冊抱えたまま他の本も物色していた。書名にはすべて『走高跳』と入っている。抱えている数冊を借りてグラウンドを目指した。
 神崎はすでにグラウンドに来ていた。だがマットの上でバーを背中に敷いたまま、青空を眺めていた。うっすらと滲んだ汗が太陽を反射している。
 千苗は駆け寄ると、驚かせるため勢いを殺さずに真正面から覗き込んだ。
「先輩! 休憩している場合じゃないでしょっ!」
「わぁ。千苗ちゃんは今日も元気だねぇ」
 神崎は大して驚かなかったのかくすくすと笑った。緊張感のない態度に、千苗は腰に両手を当ててお母さんのようになる。
「大会、来週じゃないですか。一五〇センチの壁越えましょうよ」
 運動部といえば厳しい練習のイメージが強かったのだが陸上部は緩やかだった。金曜日は自由練習と称して顧問はほとんど顔を出さない。走高跳は神崎以外に選手がおらず、常に自分で準備をし、一人で跳ぶだけになっている。そんな状況で、制服姿の千苗が見学をしたり片付けを手伝うのは目立っていた。神崎も戸惑いながら短距離の選手たちへ逃げるように視線を送ることが多々あったが、回数を重ねるにつれて視線は減り、曇りのない笑顔を千苗に向けるようになった。
 のんびりとした環境に千苗もくつろいでいたが、先週の帰り際に地区大会があると聞いて背筋を伸ばした。どうしてそんな重要なことを黙っていたのかと怒ったのだが、うちの陸上は弱いから誰も期待してないよ、と苦笑された。だが負けたくはないと千苗は闘志を燃やす。
「図書室で借りてきました。このページとか参考になると思います。一緒にあがきましょう」
 本を受け取ると、神崎はうつ伏せで教本の文字を指でたどる。雑誌を読むような気軽さだが、脚が時折動いていた。
「足は四十五度、上へ行くようへ……」
「できそうですか?」
「読むだけじゃね。やってみないと」
 マットから降りると軽く屈伸をし、千苗がバーを設置し直す。真剣な目付きでスタート地点に立った。
 助走から踏み切り、ジャンプ。
 青い空を泳ぐ姿は、千苗も跳んでいるのだと何度も錯覚させた。夏の暑さも喧騒も止む。
 息まで詰まったが、バーが滑る音で洩れた。かかとが引っかかったぁ、と間延びした声が宙に浮く。マットに近づき、再現するように千苗は片足を持ち上げた。
「でも後もうちょっとでしたよ。足が、あと数センチこう」
「パンツ見えちゃうよ」
 指摘され慌ててスカートを両手で押さえた。神崎の高い笑い声が響く。イルカの姿はいつでも小学生に戻した。
 顔を赤らめてプリーツを整えていると手招きされた。緩やかな風が吹く。近づき、寝転んでいる姿を見下ろした。
「大会、応援に来てね」
「もちろん行きますよ。そして跳んでください、私の身長」
「うん!」
 神崎の笑顔が太陽のように輝いた。


 地区大会は土曜日に行われた。そのため保護者の姿も多く見受けられたがグラウンド内に入れる雰囲気ではなく、遠巻きに応援していた。複数の競技が同時に行われているため雑然としている。千苗はグラウンドの縁を歩きながら走高跳の場所を見つけた。緊張気味の神崎と目が合い、両手を上げてジャンプする。笑顔で手を振り返してくれた。
 神崎の順番が来て身軽にバーを跳んだ。姿は小さかったが、やはり息が詰まる。マットから起き上がった神崎は安堵の表情で近づいてきた。
「今の一四五センチ。次が一五〇だよ」
 学校で見るときよりも自信に満ちた笑顔につられ、千苗の両手に力が入った。気合を渡すように神崎の手を握る。
「先輩なら跳べます! ここから応援してますから、格好いい姿見せてください」
「ありがと。今日はすごく調子がいいの。期待していいよ」
 強く手を握り返され頷いた。
 「次のジャンプまで時間があるから他のも見てきなよ。放送かかったら戻ってきてね」
 手を振り、日陰へ避難した神崎を見送ってから千苗は歩き出した。陸上部で他に馴染みのある生徒はいないが、見慣れた体操着を見かけるたびに胸が熱くなった。グラウンドを覗き込み知らない生徒にも声援を送る。
 トラックを一周するころ、女子の走高跳の放送がかかった。小走りで先ほどの場所まで戻る。手を祈りの形に握って姿を捜すが、数人の女生徒が列をなしている中にはいなかった。日陰にもいない。一人目が跳び始めている。
 放送がかかってすぐに来たつもりだがもう跳んだ後なのか。だとしたらどこにいるのか。焦り始めたころ、苦味のある声に呼ばれた。
「千苗さん?」
 短距離走に参加している水森だった。不機嫌そうに顔を歪め、しかしどこかバツが悪そうに目線を逸らしている。
「伝言。神崎は棄権したわ。部で帰んなきゃいけないから、先に帰ってって」
「キケン?」
 じゃあ、と立ち去ろうとする背中を慌てて呼び止めた。睥睨される。
「棄権って、なんでですか」
「足をひねったのよ。ストレッチ中に」
 そんな。と呼吸のように小さな言葉がこぼれたが、それは誰にも届かなかった。
 水森が去り、自分の手を見る。観客も選手も大勢いるのに孤独だった。
 一番悔しいのは本人のはずだ。そう思うのに、蝉の声が煩わしい。


 神崎とは週が明けてからも会うことはなかった。金曜の部活動以外で会う習慣がなく、千苗の方からクラスへ行くのも躊躇われ、結局金曜の放課後まで待った。いないかもしれない不安を抱きながらグラウンドへ走る。
 いつもの場所に走高跳の準備はされてあったが、誰もいなかった。代わりにトラックの方に人が集まっている。
 首を傾げながら千苗も群れの端に並ぶと、眼前を突風が駆け抜けた。
「えっ」
 声がこぼれたときには、水森が遅れてゴールをしていた。野次馬たちがまばらに拍手をしている。やっぱり神崎には勝てないよな。の言葉を拾い、突風が抜けた方へ顔を向けた。肩で息をしながら神崎が笑っている。
「あたしの勝ち。罰ゲームよろしく」
 同じように息を荒くしている水森は憎悪に近い剣呑さだったが、黙って言葉の続きを促していた。神崎は右腕をまっすぐ伸ばす。
「あれ、一五〇センチに高さ合わせてちょうだい」
「……それだけ?」
 訝しげな様子に、一人でやるの大変なんだよ、と軽く答えた。早足で走高跳の場所へ向かう水森の背を追いながら、千苗の向かって片手を上げる。
「先週はゴメン。せっかく来てくれたのに」
「いえ、それより足は大丈夫なんですか」
「さっきの見たでしょ」
 爽やかに答えると、バーの高さを変えている水森に視線を移した。わざとらしく、いたずらっ子のような含みのある笑みを浮かべる。
「まぁ、ひねっちゃったときはへこんだけどね」
「あれは私のせいじゃないでしょ!」
 バーが不要なほど強く設置され、鈍い音が響いた。水森と神崎のにらみ合いを鼓膜が捉えたようだ。三人とも動かなかったが、神崎が最初に視線を外した。
「そう、水森さんのせいじゃないよ。だってそうする理由がないもの」
 神崎は準備体操の要領で足首を回す。
「あたしは高城くんに告白されたけれど断った。そんな人のこと、恨まないでしょ」
 停滞した沈黙に千苗は動けなかった。そろりと視線だけで水森を伺うだけで精一杯だ。
「できたから」
 水森の呟きが水泳部の声に紛れた。そしてトラックに戻っていく。風が吹き、やっと停滞が飛ばされたがどうすればいいのか佇むだけだ。
「あたしね、走高跳、すごくつまらなかったの」
 弾かれたように顔を上げた。神崎の声は寂しそうだったが、穏やかに短距離走を眺めている。
「もう部活もほとんど終わりってときに種目変えたし、下手だし。だからね、イルカみたいって、すっごく嬉しかったよ」
 風に乗って塩素の匂いも届いてきた。胸が苦しくなる。
「三年の部活はね、今日が最後なんだ。だから、一五〇センチ越えのチャレンジは今日だけ」
 頭をくしゃっと撫でられ、こらえた。鼻の奥が痛い。
「会えなくなるわけじゃないんだからそんな顔しないでよ。とびっきりのジャンプ見せてあげるからさ」
「……はい」
 両肩を押されバーの真横に立った。二センチだけバーの方が高い。
「そこ、特等席」
 神崎はスタート地点に立った。しなやかな体を目に焼きつけようと、ぎゅっと拳を握る。
 早い助走、強い踏み切り、上へ行くようへ、踵を浮かせて。
 細かな汗が舞い、バーを越えた。
 青空を泳ぐイルカの姿は、見てきた中で一番美しかった。

 三時だ。大きく伸びをすると幼馴染みが怒った顔をしたが時計を見て納得したようだ。鞄を持って図書館の勉強スペースを出る。
「すごい集中したぁ。頭クラクラする」
「糖分欲しいだろ。ポッキーやるよ」
 鞄を開けるとすぐ赤いパッケージが見つかった。開封して差し出す。
「ありがと。本当にポッキーが好きだよね」
「この赤を見るとつい買っちゃうんだよな。買って食べてって呼ばれてる気がしてさ」
「それ前にも聞いたよ」
 笑いながらかじる幼馴染みが可愛くて、赤面をごまかすように彼女のポニーテールを引っ張る。
「痛っ、やめてって言ってるでしょ」
「その赤いリボンは引っ張りたくなるんだよ」
 幼馴染みはいつも真っ赤なヘアアクセをつけていて遠くでも一目で彼女だと判る。
「……ポッキーの赤に似てるでしょ?」
「えっ」
「休憩終了っ」
 足早に戻る彼女の手を繋いで帰れたらなんて、俺を呼ぶポッキーの箱で練習をしてみた。



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