ミュージアムショップの中でウルフウッドは足を止めた。商品のひとつを黙って睥睨する。
 今日博物館へ来たのは、恐竜の化石の展示会へ僕が誘ったからだ。恐竜大集合とダイナミックに書かれたポスターを街中で見つけたとき、真っ先にウルフウッドの顔を思い出した。普段は博物館に興味なさそうで、誘ったときも退屈そうな顔だったけれど、二つ返事で承諾してくれた。
 当日までほとんど話題に出さなくって、展示室内で本物を目の前にしても無表情だったけれど、さっさと順路を進まずに、化石を色んな角度で見上げながらうろついていた。僕とはぐれるのも構わずにマイペースに観察していたから、楽しんでくれていたのだと思う。
 たっぷりと時間をかけて観覧を終えると、ウルフウッドはいつもよりスッキリしたというか、わずかながらエネルギーに満ちているような気がした。表情も心なしか柔らかい。だからかミュージアムショップへも快く付き合ってくれた。
 ショップに陳列してある商品は、展示物の図録やオリジナルの一筆箋などの他に、今回の展示に合わせた化石のチョコやおもちゃの発掘キット等もあった。ウルフウッドはそれに興味を持ったのか、パッケージの裏を確認していた。
 しかしそれらはすぐに戻して進んだ。一番足を長く止めたのは意外にも雑貨コーナーだった。
 科学などを応用したインテリアが並んでいる。カラフルなボールが水の中で浮かんでいるガリレオ温度計や、三つの輪が回転しながら揺れるモビールコスモなどだ。ウルフウッドはその中の一つを凝視している。どれに関心を寄せたのだろうと隣に立ち、視線を追う。この中では比較的地味な、しずく型のガラスだった。大小二つのサイズが並べられている。ウルフウッドは大きい方へ顔を近づけた。ガラスの中身を、未知の生命体が閉じ込められてでもいるかのように睨めつける。実際には異常な物なんか入っていないのだけれど。
 ガラスの中はほとんどが透明な水分で、下の方で白い結晶がわずかに沈んでいるだけだ。じっと観賞していても動くようなものではない。僕は黒い後頭部を観察する。
「これ、何なん?」
「ストームグラスだよ。気圧によって結晶の様子が変わるんだよ。テンポドロップって言い方もするね」
 気に入ったの? と問うとストームグラスを手に取った。顔先数センチの距離にまで近づけて、寄り目がちに睨む。シダの葉みたいな結晶の形が面白いのだろうか。
「美味そうやん。かき氷みたいで」
「今日は晴れてるから少ないけど、嵐の日にはびっしり結晶ができるらしいよ。買う?」
 ウルフウッドの眼が好奇できらめいた。そのままレジに進みそうだ。財布を持っているのは僕だから一緒についていこうとしたけれど、ちらりと値札を確認した途端に好奇は消えた。商品を戻し、ふいと顔を背ける。
「いらん」
 振り返ることなく雑貨コーナーから離れてしまった。まだ見ていない商品を軽く流し、さっさとショップから出ていってしまった。僕はもうちょっと見ていたかったのだけれど、断腸の思いで店を去ったウルフウッドが可哀想だろうと僕も出た。
 待っていてくれた彼は肩が並ぶのまでは待ってくれず、出口に向かって歩きだした。そのまま博物館を終わりにするのだろうと予想したけれど、館内の案内板を前にすると止まった。親指でくいと喫煙所を示す。返事を聞かずに行ってしまった。化石を見終えた直後とは違って、ずっと仏頂面だった。
 普段なら近くまで着いていくか、その場で待っていることが多いのだけれど、今回はミュージアムショップに急いで戻った。ストームグラスの元へ悩まず進む。大小二つのサイズがあったので、大きい方と、今回の図録をレジに持っていった。会計を済ますと案内板の下へ早足で向かう。行って戻るまでおおよそ三分。いい記録じゃないだろうか。
 マイペースに一服したウルフウッドは、穏やかさを取り戻していた。どこか眠そうでもある。だけど僕がぶら下げているショップの袋に気付くと目を見張った。赤い袋だから中身は見えないはずだけれど、膨らんでいる大きさで予測がついたのだろう。眉根を寄せた様子は不機嫌や不快と表現するのがピッタリのはずだけれど、眼だけは期待に満ちた子供でアンバランスだった。僕は笑顔を浮かべる。
「帰ろう」
 無断で買い物したことへのお咎めはなく、ウルフウッドは黙ってついてきてくれた。
 家に着くとテーブルの上に袋を置いた。どうぞと告げてキッチンへ向かう。僕がそばにいたら箱を開けないからだ。
 湯を沸かしてマグカップを用意している間に、ウルフウッドは黙って袋からまず図録を出し、その隣に箱を並べた。セロハンテープを親指の爪で切ってフタを開ける。肺にたっぷりと空気を吸い込んで、慎重に中身を取り出す。クッション材に包まれているからまだ姿は確認できない。彼にしては珍しく、壊れるのを恐れるように繊細な手つきでクッション材を留めているテープを剥がした。曇りのないしずく型のガラスが顕になる。
 ショップに並んでいたときと同様に、家でも結晶は少なくてほとんどが透明な水だけれど、充分魅力的に映っているのかウルフウッドの鼻の穴が膨らんだ。両手で掴み、いささか乱暴な手つきで、当人からすればいつも通りの力加減で揺すると、理不尽な暴力を受けた結晶はゆったりと崩れた。飽きもせずにそれを繰り返すと、満足したのか近くの棚の上に置いた。
 見慣れたその棚はもはや背景の一部と化しているのだけれど、その日からウルフウッドは時折顔を上げてストームグラスを観察していた。


 最初は、僕がそばにいるときに観察はしていなかったのだけれど、隠すのが億劫になったのか毎朝出かける前に確認し、帰宅しては確認し、暇なときにも確認するようになった。休みの日には、床にごろんと寝そべると、へその近くにストームグラスを置いて丸くなり、だらだらとテレビを見たり日向ぼっこをしたり僕が買った雑誌を読んで過ごしたりしていた。一緒に買った図録を開いているときもあった。なんとなく、鳥の抱卵を彷彿とさせる姿だった。
 夏に近づく暖かい季節だから中の液体は透明で、晴れの日には見応えがちょっと足りなかったけれども、雨の日には様子が変わった。結晶は細かな星のようになり、スノードームさながらに液体の中を舞った。
 この変化に真っ先に気づいたウルフウッドは、無言ではあったけれど、喜びと驚きが混じった興奮を発散させていた。顔を近づけて、一粒一粒の形を捉えるように瞬きすらせずに凝視している。僕の位置からは背中しか見えなかったのだけれど、思わず笑いそうになるぐらい愛らしかった。
 雨の日の外出はいつも面倒臭そうだったのに、この日だけは機嫌よく傘を差して仕事に向かった。
 しばらくそうやって可愛がっていたのだけれど、晴れの日の様子は見慣れてしまったようで、早く冬にならないかと、澄んだグラスを退屈そうに眺めるようになった。動物と違って鳴いたり動いたりしないのだから自然なことかなと肩を竦めたけれど、観察はやめなかったから愛情はまだあるのだろう。
 ウルフウッドのやや後ろに立って、物静かなグラスを一緒に眺める。
「冷蔵庫に入れる? 冬みたいに白い水になるんだってよ」
「入れへん。人工的に操作してどないすんの」
 怒った様子につい和んでしまい、頭を撫でたら牙を剥いて威嚇された。噛みつかれる前に笑って手を引く。


 そうやって過ごしていると待望の日が訪れた。タイフーンがやってきたのだ。
 朝の段階では、まだ雨は降っていないけれども、風はひたすら強くって窓ガラスがガタガタ鳴った。外ではビニール袋や空き缶が飛んでいる。被害に遭う前にと、僕は雨戸を閉めた。強すぎる風のせいで滑りが悪く、いつもより力が必要だった。窓も閉めるとぐちゃぐちゃになった前髪を整える。暴風の音が少しだけ遠くなった。
 ウルフウッドは、ローテーブルに置いたストームグラスを、床に座って一心に見つめていた。災害なんか頭の端にも引っ掛かっていない。彼の周りだけやたらと熱が高かった。サーモグラフィーを使ったら、興奮が赤いオーラとなって映るんじゃないだろうか。
 好奇心は猫をも殺すなんてことわざをふと思い出した。僕は隣に座る。
「ずいぶんと育ったね」
 グラスの中身はてっぺんまで硬そうな結晶がはびこっていた。晴れの日はほとんど透明な水なのに、どこに隠れていたのかってぐらいだ。シダの葉に似た結晶はその指を大きく伸ばし、重なり合い、氷のようにも映った。両手の中に収まる世界が激変するというのは眺めていて楽しい。ウルフウッドは両手でグラスをつかむと揺さぶった。一部は衝撃でゆっくりと崩れたが、ほとんどは力強く枝を張っている。まだまだ気圧は落ちていくのか、大きく深呼吸するように体積を増やしていく。
「やっとやな。台風が来るのが遅すぎるっちぅねん」
 今の季節なら例年並みだと思うのだけれど、それだけ結晶の変化を楽しみにしていたのだろう。
 ウルフウッドの背中の方に片手をつき、そっと顔を寄せる。
「そんなに台風が待ち遠しかった?」
 やっと目を合わせてくれたウルフウッドは、一つ呼吸をすると赤くなり、もう一つすると青くなり、最後にやっぱり赤くなった。グラスを腹の上で抱え、腰を捻ってじりじりと逃げ始める。
「ち、ちゃうねん。ワイが言うてるんは本物の台風の方やから」
「うん」
 反対側にも手をついた。これでウルフウッドの体をサンドした形だ。両脚の間に片膝を置いて、伸びた距離を詰める。ウルフウッドは俯いて視線を彷徨わせた。
「せやから、ちゃうねん」
「危ないからこれはテーブルに戻そうね」
 ウルフウッドの腕からストームグラスを奪い、ローテーブルに置く。ウルフウッドは空になった腕を見下ろし、指を軽く開閉させた。
 手持ち無沙汰になって困っている手首をつかみ、僕の項に導く。
「オンドレ、ワイの話聞いてへんやろ!」
「ちゃんと聞いてるよ」
 目が合うと、ウルフウッドは呼吸を止めた。
「台風が待ち遠しかったんでしょ」
 そのまま押し倒したけれど、抵抗はされなかった。


 台風が直撃した時間帯は豪雨と暴風で家全体が揺れているんじゃないかと錯覚するほどの騒がしさだったが、今は目に突入したのか凪いでいる。それももう暫くすれば喧しさが戻ってくるのだろう。ウルフウッドは床に転がったまま鼻を鳴らした。
 この家の台風は、タオルを取ってくると言って洗面所の方へ消えた。飄々とした表情だったのが腹立たしい。
 横向きに寝そべったままテーブルを見上げる。奪われたストームグラスが鎮座していた。テーブルの天板に遮られて下半分は隠れているが、こちらのことなど素知らぬ顔で、台風に大喜びして結晶を伸ばしているのは丸分かりだった。忌々しいと舌打ちをする。
 ドアが開く音がした。部屋の空気がわずかに動く。すぐ傍でヴァッシュがしゃがむ気配がした。
「お待たせ。拭いてあげるからこっちむいて」
「待ってへん」
 もともと背けていた顔をさらにそっぽへ向けた。ヴァッシュは構わず肩を掴み、仰向けに転がす。
 碧色の目と視線がぶつかった。外の台風と同じく、そこは静かで穏やかだった。ふんわりと優しく微笑む。
 ウルフウッドは諦め、溜め息と共に全身の力を抜いた。お湯で湿らせた温かいタオルが頬を撫でてきて、安心する。
 つまるところ自分もストームグラスと同じく、台風が近いと結晶が大きく育つのだ。
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 進行方向とは九〇度外れた方角をヴァッシュは指差した。起きているんだか寝ているんだか判らないぼんやりとした顔でサイドカーに座っていたが、今はしっかりと目を開き、は滑舌もはっきりとしている。
「誰かいるよ」
 指の先には地平線しかなく、村の姿すらない。ウルフウッドはバイクを走らせたまま目を細めて誰かを見つけようとしたが、青空と砂しかなかった。片手をハンドルから離し、サングラスを親指で持ち上げるがやはり変わらない。進行方向に顔を戻す。
「気のせいやろ。あっちはワムズの通り道や、人がおるはずない」
 ワムズと人間はそれなりに共存できている。ワムズの活動エリアに踏み込まなければ案外大人しい生命体だった。代わりに縄張りを人間向けに開発しようものなら、子供が積み木を崩すようなあっけなさで破壊する。だから街もサンドスチームの類も縄張りを侵すことはしない。一人旅でもそれは同様だ。大きかろうが小さかろうがワムズは簡単に平らにならす。一人旅の場合は、単に人間が小さすぎて気づかずに轢き殺しているだけと分析されているが。
 なんにしろ、まともな人間なら行かないエリアだ。ウルフウッドは無視するつもりだったがヴァッシュは引かなかった。ウルフウッドを見上げる。
「でも青いなにかが沢山あるよ。キミを見つけた経緯も考えると寄らないわけにはいかないよ」
 ウルフウッドは唇を捻じ曲げた。あのときは一人でも生き延びることはできたが、喉の渇きを癒せたのは有り難かった。もし同じように行き倒れた人物が自分ではなかったら。度胸試しだとか正体をなくすほど飲む馬鹿はどこにでもいる。
 唇を捻じ曲げたままハンドルを切った。
 ウルフウッドには青い人影などちっとも見えなかったが、ヴァッシュは明確に捉えているようで、タイヤの方向を細かく指示した。しばらく走り続け、やっとウルフウッドにも青い物が見えてくる。
 本当に行き倒れがいたのだとスピードを上げたが、近づくにつれ、人でないことが明らかになった。シルエットが大きすぎるのだ。
 それなら引き返した方が理にかなっていると判断はできているのだが、青の正体が気になり進路を戻すことができなかった。青色の自然物はそうない。砂漠のド真ん中なら尚更だ。止めないということはヴァッシュも同じことを考えているのだろう。
 何メートルもある長い青の群れが鮮明になってくる。風に揺れる影の形まで捉えられるようなり、それらが何なのかやっと検討がついた。しかし予測を真実だと認めるのは難しかった。二人は無言のまま近づき、得体の知れない物体の目前でバイクを止めた。砂が舞う。
 果てしない砂色の中、青と緑のそれだけが幻のように浮いていた。
「なんやの、これ」
 砂漠のド真ん中としては、異質以外の何者でもない代物だった。
 地に根を生やし、水と養分を吸収する動かない存在。
 青い花。
 ウルフウッドはバイクに跨ったまま、自分の腰よりも低い花を見下ろし続けた。慎重に呼吸をする。これは本当に花なのだろうか。ジオプラントがどこかにあるとは思えない。幻影にしては出来すぎている。なんなのか、これは。
 警戒しているウルフウッドに対し、ヴァッシュはあっさりとサイドカーから降りて近づいた。真上から青い花を覗き込む。
「おい、なにしとんねん!」
「大丈夫だよ。これは多分、薔薇って花だと思う」
 なんとなく謎がひとつ解けた気がして、ウルフウッドはバイクから降りた。ヴァッシュの隣に並ぶ。
 青の群れからは初めて嗅ぐ匂いがした。強いていうなら甘い香りか。水分も含まれているようで、砂漠にいるにしては奇妙な感覚だった。その中に、皿の上に並ぶ青臭さと同じものも混じっている。これが植物特有の匂いなのだと理解した。動物とは違う生命の匂い。
「こないなところでも平然と咲く花なんか?」
「いや、むしろ育てるのは難しいって言ってた気がするけど……」
 やはり不可解な状況は変わっておらず、ウルフウッドは片方の眉をしかめた。
「なら、なんでこないなところにあるん」
 不可解は不愉快でもあった。
 花びらの青は深く濃く、空の清々しさとは似つかなかった。まったく違う色だというのに、どろりとした血液を彷彿とさせる。本物の花などほとんどお目に掛かったことがないせいか相容れない。異質なそれを睨み続ける。
 ヴァッシュは隣の警戒に気づいているのか無視しているのか、地面をブーツの爪先で叩いた。
「砂が固まってるね、なんだか黒いし。これが花を咲かせてるんだと思うんだけれど……」
 独り言ちながら地面の黒を目線で追う。てらてらと光る油に似た塊が溜まっている部分もある。黒い砂は広く長く伸び、曲がりくねり、巨大な縄を放置したようだった。この形と類似するものは一つしか心当たりはない。
「ワムズの死体跡、かなぁ」
 遙か先にまで続く黒い跡を見ながらヴァッシュは呟いた。そのうち青い花が咲いているのは半分ほどの範囲だろうか。
 ワムズの生態は知らない。しかし人の形をした存在とは言葉を交わしたことがある。ならば植物を生かす能力ぐらいあるのではないか。厳密には養分になるの方が正しいのか。ウルフウッドは片脚に体重をかけた。
「なら、ワムズから生えたっちぅんか」
「だとしたらもっと見かけてもいいと思うから、シップに積んでたのが奇跡的に生き延びたんじゃないかなぁ。青薔薇は自然界には存在しないって言うし」
「なんでや」
「青い色素がほとんどないって言ってたよ。だから淡いのしか品種改良では作れなくって、真っ青な薔薇は遺伝子組み換えでしかまだ存在してないって教えてくれたんだ」
 言ってた、教えた、誰が。
 ウルフウッドは動かず花を見下ろし続ける。
「イデンシ組み換えてなんや」
「えっとねぇ、平たく言うと人工的に無理やり作ったってことだよ。本来存在しなかったものを強制的に生み出すんだって。もちろん言うほど簡単には作れないんだけどね」
 ヴァッシュはしゃがみ、自分の両膝を支えにして頬杖をついた。花と目線の高さが揃う。穏やかに観賞する横顔を、ウルフウッドはサングラスの隙間から覗いた。
 この男は人間が強制的に作り上げた存在になにを思うのか。
 視線を花に戻す。
「青い花なんぞ拵えて何になるん? 食えるんか」
 真剣な問いにヴァッシュは吹き出した。子供みたいに純粋に笑うものだからウルフウッドの口角は厳しく下がった。ごめんごめんとヴァッシュは笑いながら手を振る。
「キミらしいなと思っただけだよ。これは食べられないよ。純粋に、眺めてて美しいなって、そのために作ったんだと思う。もしくは技術力の向上のためとかかな」
 ヴァッシュは穏やかな笑みのまま眼を細める。
「自然界にない存在だから、他の植物との交配は禁じられてる特別な花なんだって。偶然受粉しちゃうこともあるらしいけれど、新しい種から芽吹いた花がどうなるか予測つかないから、故意にやったらダメなんだって」
 ウルフウッドは疲れたように短い溜め息をついた。ヴァッシュがにっこりと微笑む。
「植物学者がどんな希望を抱いてシップに乗ったか判らないけれど、ここの先住民が育ててるのはその意思を引き継いでいるようで素敵だよね」
「育てる?」
 どこまで脳天気で都合のいい妄想に浸れるのだろうかこの男は。それとも韜晦しているのか。ウルフウッドの眉間に皺が寄る。
「ここで死んどるだけやろ、死んで地面がカチカチになるんやったら移動の邪魔やからな。目立つモンをマークにしとる。おセンチな感情なんぞあるわけないやろ」
 ヴァッシュは刹那目を見開いたが、反駁することはなかった。視線は地に落とすが笑顔で立ち上がる。
「夢がないなぁ。キミらしいけど」
「夢で腹が膨れるかいな」
 サイドカーへ未練なく戻る背中を、肩越しに振り返って見遣る。
「これどないするん?」
「どうって?」
「札束の山やろ。言うなれば」
 毒々しい青を一瞥する。
 この惑星で植物を手に入れるには、プラントに生産させるかジオプラントで整えた土壌で育てるしかない。無限の寿命を持たないプラントにただのお飾りを生産させるリソースはほとんどなく、そもそも生きたものは作り出せないようであった。根がある花は贅沢な高級品なのだ。それが数え切れないほどある。遊んで暮らすことに興味はないが、何かを考えることぐらいは普通ならばするはずだ。
 立ち止まったヴァッシュは首を傾げながら振り返る。本当に考えているのかポーズなのかは判らないが、やや間を開けてから脳天気に笑んだ。
「どうもしなくていいんじゃない? 僕達の手に余るし、奪っていいものでもないよ。だからこのまま」
 予想通りの答えであったし、自分が問われても同じ結論を述べたが、ウルフウッドは呆れてみせた。
「オンドレの見間違いのせいでガソリンも時間も浪費したわ。無駄骨やん。ほんっまオンドレと一緒におると損ばかりや」
「ええー。損は言い過ぎだよ、行き倒れがいなかったのはいいことじゃないか。それに、さ」
 ヴァッシュは軽く腰を折り、下からウルフウッドの顔を覗き込む。
「この花を見たことあるのが僕ら二人だけだったら、二人だけのヒミツができただろ」
 ウルフウッドは軽く顎と肩を引いた。サングラス越しに瞬きを一つする。イタズラっぽく笑うヴァッシュから視線を外すと早足で追い抜き、バイクへ向かった。
「嫌やわー。たらしやたらし。油断も隙もあらへんわ」
「何がだよー」
 追いかけてくるヴァッシュを無視し、先にバイクに跨った。サイドカーも埋まったことを確認すると、青い花の群れを見遣る。
 動かず、変わらず、せいぜい風に揺られるだけの存在だが、こんな旅を続けていたらもう二度とここには戻って来られないだろう。
 それは勿体無いことのように今更思えたが、無言でエンジンを掛け、バイクを走らせた。


 予定していた街に着くと腹を満たし、宿でツインルームを取った。ウルフウッドはまっすぐにベッドの一つに向かい、うつ伏せに倒れ込んだ。安い宿ではあったが粗悪ではなかった。長時間の運転で強張った筋肉をスプリングは柔らかく受け止めた。
 戦闘はなかったし簡単に疲れる体でもないが、食後にベッドの組み合わせは流石に効いた。瞼を閉じるのが心地よい。このまま仮眠を取ってしまおうか。
 倒れたまま動かないウルフウッドの足首をヴァッシュが掴んだ。膝を曲げさせて持ち上げ、靴を脱がす。両方共脱がすと揃えてベッドの下に置いた。ウルフウッドは動かなかった。ベッドのスプリングがもう一人の体重を支えて軋む。黒い前髪を細い指が梳いた。
「懐くな」
「いいだろ、少しぐらい」
 声色で不快さを表したものの、瞼を開けるまでには至らなかった。放っておけばやがて飽きるだろう。呼吸を深くする。
 ウルフウッドの意識がとろける頃、あやすだけだった指が意思を持った。額からこめかみ、頬へと滑る。頬を包む手の平の熱さと、こめかみの辺りで留まる指先が煩い。無視し続けると、甘ったるい声が落ちた。
「ねぇえ」
「嫌や」
「まだなにも言ってないよ」
「言っとる」
「じゃぁさ」
 ヴァッシュは背を丸め、顔を近づける。太陽と甘い匂いの体臭が強さを増した。ウルフウッドは咄嗟に息を詰めた。肩から手にかけての筋肉が硬直する。
 ヴァッシュの声に熱と湿り気が帯びる。
「どうして抵抗しないの?」
 睨んでやろうと瞼を開けた。緩やかに微笑む顔を眼球だけで見上げる。いつも通りの人畜無害そうな笑みの奥に、粘っこいものが潜んでいた。捉えて逃がさないと言わんばかりに見えない手が纏わりついてくる。
 温厚を通り越し、情けない印象さえあるこの男が我欲を出すのはこんなときだけだ。一体どれだけの人間にこの顔を見せたのだろうか。
 黙って睨み続けていると頬を包んでいた手が動いた。肩を掴み、仰向けに転がす。首筋を撫で、鎖骨を通り、ワイシャツのボタンを外した。ウルフウッドは睥睨するだけで抵抗しなかった。
 もつれ合うとヴァッシュはそのまま寝てしまった。散々人の体を好きにした獰猛さは消え、同一人物とは思えないほど健やかに眠っている。
 ウルフウッドは絡みつくヴァッシュの腕の中で体を反転させ、煙草とマッチを床に落ちたスーツの中から探して火を着けた。月明かりしかない青白い室内を紫煙が濁す。
 砂漠のド真ん中に生息する異質な青い花は、これからもワムズが生かし続けるのだろう。それぞれの意思に関わらず。シップが墜ちて、人間が欲のために作り上げた花は根付き、今日に至るまで残っている。
 ワムズの寿命など知らないが、星暦から計算すれば、自分の身を栄養として渡したのは一体か二体ぐらいだろうか。人間の寿命はもっと儚い。自分は何人目だろうか。
 煙草を持つ手をベッドの外に出し、ゆっくりと息を吐く。くだらないし意味のない疑問だ。本人に問えば渋々答えてくれそうだが、それで何かが変わるわけでもない。
 益体もないことで煩わせる男の呑気な寝顔を見ていると、鼻をへし折ってやりたくなる。
 寝て、明日になればこの苛立ちは忘れる。花を見つけたことも数年後には記憶に残らない。死ねば、自分が何代目のワムズだったのかも考えなくて済む。
 人間の単純さに縋り、煙草の火を床に押し付けて消し、瞼を閉じた。


 ご飯だよと呼ぶ声に起こされた。起きると、熟睡した子供みたいにさっぱりした顔のヴァッシュが立っていた。コートこそは着ていないが身支度は整えてある。自分がいるベッドに目を落とすと、掛け布団の上に新しい下着とスーツが畳まれて置いてあった。ヴァッシュが用意したのだ。
 下着を穿き、そのままテーブルにつこうとしたが、ワイシャツの袖に腕を通した。ボタンは留めずにテーブルへ行く。にこにこと立ったまま待っているヴァッシュとは目を合わせず椅子に腰掛けた。
「自分で作れば材料費だけでいいって言われたから作ってきたんだ。美味しそうでしょ」
 トレーにはトーストしたパンに野菜やチーズを挟んだ鮮やかなサンドイッチと、芳ばしい珈琲が二人分載っていた。几帳面な男らしく、具だくさんのサンドイッチには、崩れないようにピンを刺していた。
 しかしウルフウッドが目を奪われたのはそれではなかった。皿と皿の隙間にぽつんと立っている陶器の筒を凝視していた。布で造られた小指ほどの花が活けられている。
 造花と呼べるほど大した代物ではない。青いチェックの端切れとワイヤーをボンドでくっつけただけだ。葉脈もデザインされており丁寧な仕事ではあるが、売り物にはならない。
 ウルフウッドの視線に気付いたのか、ヴァッシュも椅子に掛けながら説明をする。
「ここの奥さんが趣味で作ってるんだって。たくさんあったから一つ借りてきたんだ」
「わざわざ青を選んできたん?」
「うん」
 晴れやかな肯定に力が抜けた。ウルフウッドの眉尻は下がり、唇も緩やかになる。
 トレーの上から自分の分のサンドイッチと珈琲を取った。ヴァッシュも同じようにして、二人の間に手製の花を置き、トレーを脇へよける。小さなテーブルを温かな陽射しが照らした。
「オンドレ、アホやアホやよぉ言われとるけど、やっぱりアホやなぁ」
「なんでだよ」
「いらんことばっかり覚えとるから」
「記憶力の話なら普通は頭いいって言うと思うんだけれど」
 いつだったか酒飲みの男も似たような指摘をしていた。さっさと忘れてしまえばいいと。
 対し、しつこく思い出すとヴァッシュは断言した。おそらく昨日一緒に本物の花を見たことも、こうして同じ色の花を飾ったことも、なにかの折に思い出すのだろう。それが苦しくなるだけのときがあると判っていても、それ以上の喜びがあると愚直に信じているのだ。いま一緒に食べている相手とのやり取りが遥か遠くの出来事になっても。
 さっさと忘れてしまえばいいとウルフウッドも思う。それは本気だ。だが覚えていたいという気持ち自体は不快ではない自分もいた。つまり自分も愚か者なのだ。
「アホと一緒におるとアホになるっちぅんはホンマやったんやなぁ」
「どういう意味だよ、それ」
 不服そうなヴァッシュに唇の片側だけで笑い、幸福そうに口を開いてサンドイッチにかぶりついた。

 賭け事で最も重要なのは引き際だ、とは誰の言葉だったか。誰でも良かったが一理あるとウルフウッドは評価していた。カモにされやすいタイプは皆同じだ。自分が乗せられている事に気づかないまま勝ち続け、ペテン師の仮面を女神が微笑んでいると勘違いして賭け金を増やし、脳みそが熱で馬鹿になったところでゴッソリと奪われる。
 今、目の前でカードを落とした男もその類だった。
 ウルフウッドは灰皿の中で死んでいる吸い殻を、数え棒代わりにテーブルに広げ、相手が支払うべき金額を口にした。先程までアルコールで顔を真赤にして豪快に笑っていた男も土気色に変わっていた。手品のように器用な体だと薄情なことを思う。だが一時とはいえ良い夢を見させてやったのだ、ちょっとした余興に金を払ったと思えばいい。劇団やサーカスと同じだ。
 ウルフウッドは新しく煙草を取り出すと、火を点けゆっくりと肺に満たした。演技の緊張が解けると途端に眠くなるが、ここで油断すると踏み逃げされる。ふてぶてしく煙を吐いた。
「財布、さっさと出しや」
 脂汗を浮かべるだけで動かない男に焦れ、空のままの相手のグラスをつかんでテーブルを叩いた。それなりに重たい音が響く。他のテーブルで酒を飲み交わしている客達が、話を続けながらもこちらに耳をそばだてている。見世物ではないのだが、わざわざ追っ払うのも馬鹿らしい。少なくともこちらは穏便に済ませたいのだ。
 ソーセージの残りを食べながら待ってやると、硬直した男は、意を決したとばかりに引きつった顔で前のめりになった。
「も、もう一戦!」
「また明日な」
 目も合わせずに断ると、脱力したように椅子に戻った。戻ったというよりは落ちたの方が適切か。ウルフウッドは口の端についた脂を親指の腹で拭う。
「無一文で賭け始めたわけやないんやろ」
 稀にそんな輩もいるが、こいつの賭け方にそんな度胸は見られなかった。全額は無理でもそれなりには持っているはずだ。
 血走った眼を彷徨わせていた男は、名案が閃いたとばかりに顔を上げた。自身の服を両手で慌ただしく叩き、目的の物を見つけると取り出す。
「代わりにこれでどうだ」
 突き出されたのは小瓶だった。黒く干からびた細長い物体が収まっている。持っている知識の中では萎びた人参を更に乾燥させた物に近いが、それでもこうはならないだろう。
 訝しげな視線に自信を得たのか、男の口は笑みを作った。
「これを売ればかなりの値がつくぜ。これで手を打たないか」
「なんやのこれ」
「プラントの肉片だ」
 反射的に体が退いた。ただの瓶だったはずだが、中でねっとりとした黒い靄が蠢いている代物に変わった。ベーコンが腐ったのとは訳が違うのだ。眉間に皺を寄せる。
「プラントなわけないやろが。仮にそうやったとしても、んなモンどないせぇっちぅねん」
「プラントの死骸は高値で売れるんだ」
 男は声のトーンを落とし、ひそめた。テーブルの上に両肘をつくと裏取引でも持ちかけるように猫背になる。
「もちろん生きてるのに手を出すヤツなんかいないさ。だが死んじまえば問題はないだろ? あれだけの力を持ってるんだ、死骸にだって養分がたっぷり詰まってるに決まっている。大っぴらに売ることはできないが、研究やコレクション目的で欲しがってるやつはゴマンといる。あとは万病を治す薬になるってぇ話だ。漢方薬ってやつだな。だが、高値がつく一番の理由は別だ」
 男は更に声量を絞る。酒で濁った眸が暗く光った気がした。
「肉片を摂れば不老不死になれるって話だ。金だけは余らしてる連中が、気も狂いそうなほど欲しがってる。なんてったって寝食もいらなくなるって話だからな。これを売ればさっきの賭け金なんて端た金だ。どうだ?」
 身を引いたまま、不穏な瓶に目を細める。
 プラントの死体処理の仕方は知らなかった。調べればすぐに判るのだろうが専門家に任せればいいことだ。たとえ厳重に保管されるモノだとしても、抜け道があるのはお決まりだが。何にせよ頭を使うべき場面ではない。
 ウルフウッドは視線を逸し、深く吸い込んだ煙を気怠そうに吐き出した。
「せやったら今から金持ちに売っぱらってきぃや、そのぐらいは待ったる。その前に、財布は人質として置いてき」
 当てが外れた男は息を止め、やがて諦めたのか肩を落とした。大人しく財布を取り出す。立ち上がる気配はない。
 ちまちまと小額の札を数え出すものだから、財布ごと奪って中身をいっぺんに広げた。擦り切れてヨレヨレになっている財布にしては肥えていた。賭け金と比べるとそれでも足りないが、こっちだってハナからそこまでのカモだとは思っていない。ウルフウッドの分を含めたこの店の払いだけを財布に戻して男のグラスの横に置いた。残りは自分の財布に食わせる。これも年季は入っているが太るとそれなりに映える。
 店を出ようと立ちかけたところで、男が空のグラスをテーブルに叩きつけた。威嚇や攻撃の意図はなく、ただの当たり散らしだったのだろう。繊細ではなかったが重厚でもないグラスは割れ、細かい破片が飛んだ。その一つがウルフウッドの指を切り、裂けた皮膚から一条の血が流れた。それだけだ。男がなにもしてこないのを確認すると、手を振って血を払った。かすり傷とも呼べない程度だ。
 ウルフウッドは財布をしまうと男を一瞥もせずに店を出た。
 宿に戻ると、ヴァッシュが上半身裸のまま濡れた髪をタオルで拭いていた。こちらを見ると朗らかに微笑む。機械の片腕は外したままだった。ウルフウッドの眉が曇る。
「……負けたの?」
「勝ったわ。大勝ちや」
 舌打ちするとドアを強く閉め、傍の壁に立ったままもたれた。その割には機嫌悪いねぇとヴァッシュはのんきに述べる。ウルフウッドは鼻を鳴らした。
 この男の体は見栄えが悪い。抉れた深い傷、無骨なネジ、金属のプレート、失った片腕。名誉の勲章と言うには脳天気すぎる顔をしている。間抜けな事故に遭ったという態だ、見ていて楽しいものではない。食用に加工しても筋ばかりで不味そうだ。こんな肉のどこに価値があるというのか。
 水気を拭き取ったヴァッシュは義腕を手にした。足りない部分を補おうと左腕にあてがう。
 その背後にウルフウッドは音もなく立った。ヴァッシュは首だけで振り返り、瞬きをする。
「なに?」
 この男の意志に興味はない。目を合わせず口を大きく開き、剥き出しの肩に歯を立てた。僅かだが血の匂いと味が広がる。
「ぎゃぁぁっ!」
 予想していたより大きな悲鳴に驚き、離れた。歯型が残った肩には、八重歯二本の位置でぷっくりと血が球を作っている。垂れるほどの量ではない。この男は大げさすぎるのだ。
 肩に触れたヴァッシュは、赤いシミができた指先を見ると嘆いた。
「動物じゃないんだから不満があるなら口で言いなよ。なんで嫌がらせしたの」
「別に」
 ウルフウッドはベッドの一つに仰向けに倒れ込んだ。片手をかざす。鉄の味が残る牙を舐めた。血が滲んでいる傷は消えない。
「こんなんで不老不死になったら苦労せぇへんと思っただけや」
「はぁ?」
 怒っているヴァッシュには取り合わず、ウルフウッドは溜め息と共に瞼を閉じた。

「なんで食べてるの」
 マグカップを持ったまま僕は固まってしまった。この世の物理法則を無視しているような奇妙奇天烈な光景に直面したわけではないのだけれど、目の前で起こっているのはそれに近い状況だった。
 今日は職場でケーキを貰ったのだ。豪華なホールサイズじゃなくって、一切れの小さなチョコレートケーキだ。同僚のミスをフォローしたらほんの気持ちだけどってくれたのだ。それを食べるのを楽しみに、小さな箱を大切に抱えて帰宅した。
 先に帰宅していたウルフウッドは寝間着に着替えて寛いでいた。髪が濡れているからお風呂はもう入ったのだろう。缶ビールのプルトップはもう開封済みで、ぼんやりとテレビを見ている。僕の帰宅に気付くと挨拶というよりは生返事のようなものをした。
 僕はテーブルにケーキをひとまず置いて、キッチンでケトルにお水を注いで火にかけた。小皿とフォークを持ってテーブルに戻る。ケーキを箱から皿に移してお湯が沸くのを待った。
 コーヒーを淹れることが一番多いのだけれど、ケーキならやっぱり紅茶だろうか。ティーバッグだけれどアールグレイがあったはずだ。頃合いを見てウキウキとキッチンに戻る。棚を探すと期待通り紅茶が出てきた。沸騰する前に火を止め、自分のマグカップにお湯を注いだ。ティーバッグを入れてケーキの元へ向かう。
 一番大好きなのはもちろんドーナツだけれど、仕事で疲れた体には甘い物全部が沁みる。チョコレートケーキだって仕事の後のご褒美としてはやっぱり嬉しい。口の中にはもう唾液が出ている。
 鼻歌でも奏でたくなる気分でテーブル前のソファにたどり着き、硬直した。息を止めて同居人を凝視する。慎重に、時間を掛けてだ。でもどれだけ見つめても当たり前ながら彼は彼だった。
「なんで食べてるの」
 何が起こったかはご想像の通り、そういうことなのだ。
 僕は衝撃のあまりマグカップをテーブルに置く余裕すらなかった。つまらなそうにテレビを見ながら勝手にケーキを食べているウルフウッドはぼんやりと僕を見上げたけれど、ケーキにすぐ戻った。一口が大きい彼はもう半分ほど胃袋に収めている。慌てて隣に座って顔を近づける。
「それ僕のなんだけど!」
 抗議なんかちっとも聞こえていないみたいだ。まるでそうしろと誰かに命じられたかのように黙々と食べ続けている。頭でも打ったか宇宙人に体を乗っ取られたのだろうかと、怒りは心配へと変わり、おずおずと顔を覗き込む。彼は相変わらず無表情だ。
「キミ、甘いの嫌いだったよね?」
「コーヒー」
「え?」
 ウルフウッドはマグカップの中身を窺うと興味なさそうに顔を背けた。もう一度同じ言葉を繰り返す。どうせなら紅茶もどうぞ奪ってと、マグカップを目の前に置いてみたけれど眉すら動かさなかった。大仰に溜め息をつく。
「もう、ちゃんと味わって食べてよね」
 諦めて立ち上がると、もう一度お湯を沸かしにキッチンへ戻った。


 ウルフウッドのあれは、不定期に訪れる僕への嫌がらせかと思ったのだけれど、ケーキを食べた以外は至っていつも通りで拍子抜けした。イタズラしやすいように隠れて様子を窺ったのだけれど、のんびりと自分のことをしているだけだった。無意味に足でちょっかいを出してくることもない。なら違う理由で彼は僕のケーキを食べたのだ。
 もしかしてケーキそのものに反応したのだろうかと、ショートケーキを二つお土産として持ち帰ってみた。一つのマグカップに紅茶を淹れて、もう一つにノンカフェインコーヒーを淹れる。声をかけることはしなかったけれど、ケーキを載せたお皿にフォークを添えて置いといたら自動的にウルフウッドが寄ってきた。あからさまにじっと観察するけれど、僕の視線など意に介さず黙って食べ始める。甘いなどと文句も言わない。いつもの退屈そうな顔を見つめる。
 急に味覚が変化するなんてことがあるんだろうか。真っ先に閃いたのは催眠術だけれど、どっかで掛けられたなんて話は聞いていない。他には、と考え一つ思い至る。両膝で頬杖をつき、手を組んでそこに顎を乗せた。深刻な表情を作る。
「もしかしてキミ妊娠した?」
「救急車は自分で呼べや」
 なんとなく優しい口調だったけれど、それ以上は相手にしてくれなかった。
 他のお菓子でも試してみた。まずはミルフィーユ。ショートケーキと同じようにお皿に出して置いといた。ウルフウッドは一瞥はしたけれど、それだけで近寄ってくることはなかった。こちらから促す。
「食べないの」
「食べへんよ」
「なんで」
 テレビから顔をこちらに向けたウルフウッドは、邪魔するなとばかりに眉間に皺が寄っていた。
「んな洒落た食いモンいらんわ」
「洒落てるかなぁ」
 どこのお店でも置いてある種類だと思うんだけれど、とたっぷりのカスタードとサクサクのパイ生地とてっぺんに乗っている赤いイチゴを見下ろしながら呟いた。なんとなくきらきらしているそれは、甘い物に興味のなかったウルフウッドからすれば珍しいのかもしれない。ウルフウッドとミルフィーユの組み合わせはアンバランスで可愛らしいと思うんだけれど。
 仕方なくミルフィーユは二つとも僕が食べた。
 ケーキ以外にも興味を示すだろうかとチャレンジしてみて、成功したのはシュークリームとプリンだ。これはケーキ屋さんじゃなくて市販されているタイプだったけれど、そこにこだわりはないようでテレビを見ながら黙々と食べていた。カスタードを口の端につけているのが可愛くって、隣から指で拭ってそれを咥えたら、犯罪者でも見るような目で引かれた。長いこと一緒に暮らしているのだからいい加減懐いて欲しい。
 妙な反応をしたのはマカロンだった。これも知名度はあると思ったんだけれど、ウルフウッドは初めて見たようだ。
 箱に入っているままだと絶対に食べないだろうと、出して小さなお皿に乗せた。ふんわりとしたパステルカラーは優しい雰囲気で、僕はスマホを持ってきてカメラで撮った。そのシャッター音でマカロンに気付いたのだろう。ウルフウッドは見るなり首を傾げた。僕はゆっくり観察するためにお茶を淹れるフリしてキッチンへ隠れた。そこからひっそりと窺う。
 とりあえず食べ物らしいと認識したウルフウッドはマカロンを睨みつけた。腰を折って鼻を近づける。くんくんと動物みたいに鼻が動くのだから面白い。かすかに甘い匂いがする程度のはずだけれど、未知の物体に好奇心が疼いたのか、ピンク色のをつまんで恐る恐るちょびっとだけかじった。渋みはまったくないはずなのに、苦いものを口にしたように顔の中心に皺を集めてすぐに戻した。テーブルから離れる。マグカップを持って戻った僕は一応ウルフウッドに食べないかと勧めてみようかとも思ったけれど、無視されるに決っているのでやめといた。
 スタンダードな甘い物は食べるってことが判ったけれど、お酒があるときはやっぱりそっちの方が好きらしい。
 今日は自分で酒瓶とグラスとビーフジャーキーを用意して飲んでいた。僕が買ってきた小さなミルクレープを二つに切ってお皿を二人の間に置いたけれど、見向きもしてくれなかった。最後まで食べなかったら自分で食べよう。
 僕もお酒を分けてもらいつつ、フォークでちょっとずつミルクレープを食べる。
「ねぇ。なんで甘い物好きだって気づいたの」
「別に」
 ウルフウッドは牙でジャーキーをちぎり、アルコールを口に含む。
「前に家に帰ったやろ。そんときケーキを仰山持ってったんや」
 家とは彼が育った孤児院のことだ。自分が小さかった頃はあんまりオヤツが食べられなかったため、たくさんお菓子を買って行くことがある。しょっちゅう孤児院に寄るものだから彼の言う前がいつのことなのか判らないけれど頷いて続きを促す。
「人数分買うてったんやけどな、ワイの分がないと判るとちっこい妹が分けてくれたんや、いらん言うたんやけど。したら案外美味くて。なんでやろてしばらく考えとったら、家で食うのは美味いんやなって」
 ガキん頃は食っとったからかな。とビーフジャーキーを咀嚼しながら素朴に呟く。お酒を飲んでいるくせにあまりにも幼い雰囲気だったので顔を覗き込んだ。不愉快そうに眉をしかめられる。
「なんやねん」
「ここで食べるのも美味しい?」
「そう言うたやろが」
 鬱陶しい、という感情を微塵も隠さない声色だったけれど、愛おしくて仕様がなくって頭を撫でた。ウルフウッドは抵抗はしないけれど唇を尖らせる。
「なんやの」
 迷惑そうだけれど満更でもない声だ。わしゃわしゃと撫でるのを続ける。
「なんやのっ」 
 やめもしなければ理由も言わないからちょっと怒ってきた。もう少し続ける。
「なんやのっ!」
 本当に怒ってきた。引き際だろうと腕を下ろし、笑いかけた。
「キミがそう言ってくれて嬉しいなぁって」
 ちょっと照れくさかったけれど素直に告げると、ウルフウッドは僕のせいで髪が乱れたままフンッと鼻を鳴らした。ミルクレープをちらりと見て、グラスに口をつける。
「いちいち大げさや」
 彼の中では、大げさなことではないらしい。


 この日はウルフウッドの方が帰りは少し遅かった。リビングへ続くドアが開かれる音がしたのでおかえりと声をかける。揚げ物をしている油の音に惹かれたウルフウッドは、ネクタイを緩めながらこちらにやってきた。鍋の中とクッキングペーパーを敷いた皿の上を見やる。
「……メシとちゃうやん」
「もうちょっとでできるから待っててね」
 メシはと重ねて訊くのでこの後作るから洗濯機を回してくれと頼んだ。もう一回ぐらい小言を呟かれるかと予想していたけれど、素直に退散してくれた。僕は目の前の揚げ物に集中する。
 ウルフウッドは迷ったようだけれど、ビールとソーセージを冷蔵庫から出した。僕の分はと鍋から離れずに問うと、それがあるやんと素っ気なく返された。
 調理が終わると成果を二つの皿に分けた。もちろん僕の分とウルフウッドの分だ。目の前に置くと案の定嫌な顔をされた。コーヒーを飲むかと訊いたらその顔のまま頷いた。ノンカフェインのを二つ淹れて戻った。ウルフウッドは奇っ怪なものと対峙するように目を細め、皿と目線の高さを合わせている。水槽に入っている蛇を観察している子供みたいだ。
 マグカップを彼の近くへ置いた。
「ただのドーナツだよ。食べなよ」
「なんでチョコかかっとんの」
「そりゃぁバレンタインだからね、今年は忙しくてデートできなかったから」
 ウルフウッドは眉間に皺を寄せ、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「メシの前にオヤツ食うとおばちゃんに叱られるんやで」
「そうだね。でも僕らはもう子供じゃないからね」
 ウルフウッドは手作りのドーナツをつまむと豪快にかじった。肉にかぶりついているみたいだ。咀嚼するうちに眉間の皺は薄れていき、小さく頷く。途中でほっとしたように息を吐いた。
「悪ぅないで」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
 彼が食べる姿を僕は上機嫌に眺めた。

 洗濯物は太陽光で干すのが一番早いしエネルギー使わないし人として当たり前の姿だから、というのが理由らしい。ウルフウッドは山と盛られた洗いたての衣類を入れたカゴを片手で一つずつ抱え、ジェシカに案内してもらいながらサンルームを目指した。
 シップ内の仕事は当番制で洗濯は男女別に行っているという。下着の扱いを考えれば妥当だろう。家族単位ではなく住居ブロックごとで洗っているのは、エネルギーや水の消費が少なくて済むからだそうだ。どうしても個人で洗いたいものは手洗いをして自室に干せとのことだ。これもまぁ、妥当なのだろう。
 シップで使われている洗濯機はウルフウッドの背丈よりも高かった。横幅も同じぐらいある。銀行で扱っている金庫だと言われたら多くの人間が騙されるかもしれない。そこに大量の洗濯物と大量の洗剤を放り込んでスイッチを押した。もし洗濯機が意思を持って人類に反抗してきたらナインライブズよりも手強いかもしれない。そう考えるほどの轟音にウルフウッドは目を剥いて毛を逆撫でた。
 洗濯機が大人しくなるとその口を開け、絡まり合って容易には解けない布の塊を力づくで引きずり出す。それをカゴに収め、これから干しに行くところだった。
 サンルームはシップのてっぺんにあった。排水処理の関係で洗濯機の位置を動かすことはできないという。離れているのは不便だったが、効率よく日光を取り入れるには仕方ないのだろう。カゴを両手で抱えたジェシカがサンルームのドアを開けた。強い光が二人の顔を射す。
 部屋は大きなテーブルが二台とそれに合わせた椅子が据えられただけの広々とした白い空間だった。その約半分を前の当番が洗った衣類が占めていた。壁には絵画どころか時計も飾られておらず、洗濯用のロープを引っ掛けるためのフックがあるきりだ。ロープもフックも白かった。床は白に灰色が混ざった斑な石畳が敷かれている。石と石の境目の溝はあるが表面に凹凸はなくつるりとしている。この部屋すべての石がそうだ。ここまで几帳面な人工物は精密機械でなければあまり見ない。ここでもシップと自分の常識との違いをささやかだが感じた。石ならはひんやりとしているのだろうと一歩踏み出したが、直射日光が長時間当たっているから熱いのかもしれない。どちらにしろ靴を履いているので判らなか
った。ここなら裸足で生活しても中途半端に打った釘などを足を引っ掛ける心配はなさそうだったがまだ試したことはない。ジェシカの後を忠実に歩く。
 壁の三方は真っ白で凹凸がない作りだったが、一方だけは全面ガラスでできていた。そこから見える光景は蟻地獄の砂の崖だ。絶え間なく砂が下へ下へと崩れていく。まるでシップも沈んでいるのでないかと錯覚するが、重力プラントはしっかりと機能している。その証拠に、宙を舞う細かい砂はこちらに近づいてきても窓にぶつかりはしなかった。いつまでも眺めていたら酔いそうだとウルフウッドは眼を逸らす。音は一切しなかった。よほど分厚いガラスを使用したのだろう。この部屋だけ切り取られたように不自然だった。
 窓と対面している壁のすみずみにまで太陽は光を落として眩しいほどだった。天井まで明るいが、構造的にありえない。ここを隠れ里にすると決めてから外壁になんらかの手を加えたのだろう。
 ジェシカはカゴを床に置くと、干してある洗濯物を外しにかかった。背が低いため一生懸命腕を伸ばし、壁にかかっているロープをつかむ。ジャンプをするようにしてフックから外した。ウルフウッドも二本目のロープを手にしてジェシカに倣う。乾いた洗濯物を床に落としていく。カサカサと音がした。
「ここに干せばすぐに乾くわ。洗濯当番は洗った洗濯物を干して、前の洗濯物をたたんで回収所に並べるまでがお仕事。あたし達が干したのは最初のグループの人がたたんでくれるわ」
「洗濯物が多いと大変やなぁ」
「アウターみたいに各家庭に洗濯機を一つ用意、なんて贅沢できないもの」
 ジェシカはロープの端にぶら下がっているBと書かれた札を取るとエプロンのポケットにしまい、代わりにCと書かれた札を下げた。住居ブロックの名称だ。ウルフウッドもBの札を取り、ジェシカに投げて渡すとCを同じように受け取ってぶら下げた。足元の洗濯物を抱えてテーブルの上に適当に置き、自分達が持ってきた洗濯物をロープに吊るしていく。
 干している洗濯物が一度なくなったことで視界が広くなり、初めて窓際に花があることに気づいた。大きな白いトレーの上に古い木箱が二つ並べられており、そこで咲いている。そこだけ色があり異質だ。ウルフウッドは当然その花の名を知らない。ジオプラントと離れているがどうして育っているのだろうか。
「野菜とかの捨てちゃうところを土に混ぜると植物の栄養になるんですって。それを専門に研究している人達がいるんだけれど、それは研究とは別に趣味で育ててる人がいるのよ。土はここで作った人工のもの。近くで見てもいいわよ」
「別にええよ」
 そう応えるが視線は外せなかった。土というのは砂とは少し違うことは知っている。しかし何がどう違うのかまでは知らない。黒っぽいという印象しかないが、そんなに異なるものなのだろうか。
 熱心に観察を続ける姿にジェシカが呆れる。
「そんなに警戒しなくてもお花は噛み付いたりしないわよ」
「ワイのことなんやと思っとるん」
 片目を眇めると干す作業に戻った。
 背が低いジェシカの方が作業しにくいのもあるだろうが、どう考えたって男性物の方が洗濯物は少ない。ウルフウッドは男物を干し終えるとテーブルに行き、白い椅子に座って乾いた衣類をたたみ始める。自分の服はたたまないから苦手な作業だ。ハンガーから直接取って着た方が効率的だと思うのだが、一般的にはだらしがないと評価されるらしい。まだ干している途中のジェシカが追いつくまでわざと遅く手を動かす。靴下をまとめ、ハンカチを折り、タオルをまとめる。シャツを手にしたところで作業を止めた。
「なぁ、針と糸あるか?」
「あるけど、どうしたの」
「ボタン取れそうなんや」
 白いシャツの上から三番目のボタンがだらしなく垂れていた。誰のものかは知らないが大人数の衣類と一緒にするのだ、とれてどこかに紛れたら見つからないだろう。どうせ暇なのだ、このぐらいならやってやらないこともない。
 ジェシカはいま干したばかりの洗濯物のシワを広げると、ふぅん? と不思議そうに首を傾げて部屋を出て行った。しばらくすると小箱を抱いて戻ってくる。
「はい、どうぞ」
 洗濯物を腕でどかしスペースを作る。そこで女性らしいチェックの小箱を開けると、おもちゃみたいな裁縫道具が行儀よく詰まっていた。ウルフウッドが触れれば容易に壊れてしまいそうだが、裁縫道具というのは得てしてこんなものだろう。シャツと同じ白い糸を取り出し、短い針をつまむ。ジェシカが興味深そうに手元を覗いてきた。
「自分の仕事せぇ」
「いいじゃない、少しぐらい」
 少女のことは一瞥もせず針穴へ糸を向けた。一度で通ると歓声があがったが、無視をして針から抜けないように玉結びをした。外れかかっているボタンを手でむしる。
「それは乱暴じゃない? 生地が傷むわ」
「これが一番速いやん」
 古い糸を指先で全部引き抜き、ボタンを生地に当て直す。針と糸で縫い止め、根本に糸を巻き付けて生地の裏側で玉止めし、針に繋がっている糸をピンと張った。シャツに顔を近づけ犬歯に糸を引っ掛ける。プツリ、と呆気無く切れた。針を針山へ戻す。シャツを広げ直し出来を確認したところで、ジェシカが目を丸くしていることに気づいた。
「なんや」
「前々から思ってたけど、あなたってオオカミみたいね」
「オーカミ? 見たことあるんか」
「さすがにそれはないけれど……でも、犬を凶暴にした感じなんでしょ」
 そんな認識の動物に喩えられるのは不満だったが、子供の言うことだと追及しないことにした。その代わりにボタン付けしたシャツの身頃を整えながら問う。
「前々っていつや」
「食事しているのを見たときよ。お肉をすんごい顔して噛みちぎってるんだもの! びっくりしちゃった」
 ウルフウッドがもう一つのテーブルを指差すとジェシカはそれに従い、白い椅子に腰掛けて女性物の衣類をたたみ始めた。女性物特有のややこしいデザイン服が多いが手慣れた様子で整頓していく。手を動かした程度では舌は止まりそうにない。
 獣じみた形相で噛み付いた記憶はなかったが、傍からはそう見えるのならばそうなのだろう。ここの食事は慎ましいが、最低限の質は約束されている。どうして営業できているのか理解できないほどおんぼろな店で出される、靴のゴム底みたいな肉とは根本的に違うのだ。あっけないほど簡単に噛みちぎれたものだから驚いた。気の毒そうにナイフを差し出すヴァッシュのことは無視をした。
 ボタン付けよりは食事の態度の方が確かにオオカミらしい説得力はある。飯ぐらい好きに食わせてくれというのが一番の願いではあるが。
「あなたって犬歯鋭いわよね。アウターの人ってみんなそうなの?」
「言うほど鋭くないやろ」
 名前のせいか犬歯について指摘されたのは初めてではないが、他人と比べて別段目立つほどでもない。好奇心の眼差しで口内を覗き込もうとするジェシカに溜め息をつく。
「ワイの歯はここの住人らと同じぐらいやし、上の連中もみんなそうや」
「あなたのご両親も?」
 ウルフウッドの手が止まった。正面を見遣ると、口の中を窺う様子はそのままに、幼い手はリズムよく洗濯物を片付けて続けている。ウルフウッドも作業を再開した。
「見たことあらへんから知らんよ」
「ご両親よ。自分の親」
 ジェシカは純粋な眼をぱちくりとさせた。本当に判らないのだろう。
 この感覚を、ウルフウッドはおぞましいと思う。善人すぎて地上へ出たらすぐにカモにされ搾り尽くされるだろう。ヴァッシュはあの体と地上での生活が長いせいか多少の心得ぐらいは持っているようだが、ここには外を知らない連中も多いと聞いた。地球への希望を繋ぐだけの技術力はあるが処世術はさっぱりだ。
 だがここを理想郷とするならば少しは話が違ってくる、のだろうきっと。と考える程度にはウルフウッドも歩み寄りを示し始めた。ウルフウッドの世代では無理だろうが、二つ三つ先になればあるいは。この砂の星が、図書室で見せられた地球のように緑豊かになる光景は想像できないが、ジオプラントが入手できれば不可能ではない。希望はある。地球やこのシップにだって諍いぐらいはあるだろうが、充分な資源があれば争いの種はだいぶ減る。その頃には、こんなとぼけた質問も当たり前になるのだろうか。
「ワイは孤児や」
「コジ?」
「孤児、みなしご、捨て子」
「あっ、ごめんなさい」
 ジェシカは口に手をあてた。ここでは孤児は憐れむべき存在らしい。ウルフウッドは珍しく唇を柔らかくする。
「別に。上にはそんなんぎょうさんおるで。むしろここではどうなっとるん」
 小さな体は居住まいを正すと、手元の乾いた洗濯物を真摯に凝視する。
「もちろん病気とかで両親がいない子もいるわ。そういう子供はどこか別の家族の一員になるの。じゃないと、その子は生活できないでしょ」
「さよか。孤児院はないんか」
「コジイン?」
「知らんならええ」
 そこで会話を切り上げた。
 ジェシカは悪いと思ったのかしばらくは喋らなかった。無言の時間が続いたが、しばらくするとぼんやりと独りごちる。
「でもアウターには一回ぐらい行ってみたいわ。子供は危ないから一人で行っちゃダメなんだって。そんなに危ない所だったらとっくに滅んでるはずなのに、ヘンよね」
 完全に拗ねている子供の口調だ。危ない場所は子供にとって魅力的で、禁じられるのは納得できないという姿勢はここでも変わらないらしい。ウルフウッドはそんな弟妹を何度も相手にしてきた。からかうような意地の悪い笑みを刻む。
「嬢ちゃんみたいのが上に行ったら、それこそ牙の鋭いオーカミさんが一口でペロリや。やめときやめとき」
「それってどういう意味?」
「やめときやめとき」
 ウルフウッドは楽しそうにタオルをたたむ。ジェシカは唇を尖らせた。
 しばらくは無言で仕事をしていたが、ふいにジェシカが椅子から降りた。見遣るとウルフウッドのテーブルへ近づき裁縫道具を手にする。向こうでもほつれた衣類があったのだろう。靴下を丸めながら眺める。幼い手は針穴へ糸を通そうと試みるが失敗続きでちっとも次の作業に進めない。ウルフウッドは靴下を置き、手を差し出す。ジェシカはそっぽを向いた。
「このぐらい一人でできるもの! ほら、ヴァッシュって案外抜けてるところがあるでしょ。だからいつでも縫えるように練習したのよ」
「さよか。なら何も言わんでおくわ」
 ズボンを三本丁寧にたたみ終えた頃、ジェシカは小さな歓声を上げた。針と糸と糸切りばさみを持ってテーブルに戻る。はさみより犬歯の方が早いに決まっているが、よく手間を惜しまないものだ。ウルフウッドはワイシャツを手にし、カフスボタンが取れそうなことに気づいて引きちぎった。手の平に転がす。黒い石が付いている。随分と洒落たデザインだ。
 先程ボタンを留めた糸は長くとったため、もう一つぐらいなら充分に縫えそうだった。玉結びをし、慣れた手つきで針を刺す。
「ウルフウッドさんってお裁縫しなさそうなのに上手よね」
 糸を長く引いたところで正面を見遣ると、どういう縫い方をしたのか絡まった糸をほどこうと格闘している姿があった。鼻から呆れの溜め息を長く吐くが、手を差し伸べるとやはり怒るのだろう。眺めるだけに留める。
「さすがにシャツはガムテで留めるわけにはいかへんからなぁ。買うより縫った方が安いやん」
「それもそうね。そうそう取れるものでもないけれど」
 パニッシャーどころか拳銃すら持たない生活ならそうだろうと、胸中だけで意見する。ここでは殴り合いのケンカもあまりないらしい。
「サイボーグて見たことあるか」
「ヴァッシュの腕ならあるわよ。ロステクじゃない義足を使ってる人もここにはいるけれど」
 そう答えながら小さく首を傾げた。ここはこの程度なのだ。
 結局糸はどうにもならなかったようで、ほどくことを諦めたジェシカは潔くはさみで切った。注意深く玉結びをし直す。ウルフウッドは針と袖を持ったまま肘をつき、手の甲に顎を乗せた。
「あいつのはガムテで留めた方がよさそうやな」
「そんなみっともないこと私がさせないわ!」
 風船のように頬を膨らませる姿はまだまだ子供だ。ウルフウッドは笑う。
「せやったらもっと練習せなアカンな」
 顎を上げ、糸を切ろうと誰かの袖に顔を近づけたときドアが開いた。ヴァッシュだ。笑顔だったが一瞬できょとんとしたものに変わり、ウルフウッドに眼をしばたかせる。ウルフウッドは糸に歯を掛ける直前のポーズで停止した。
「キミ、洋服食べるの?」
「アホやろ」
 くだらないと大きな溜め息をつき、糸をぷつりと切った。その動作にヴァッシュが小さな歓声を上げる。そんなに珍しい行動だろうか。
「どうしたのヴァッシュ!」
 想い人がどれだけ阿呆な思考回路を顕現させても喜ぶのは、恋は盲目というやつなのだろうか。ジェシカは針と服を置き、ヴァッシュの元へ駆ける。おさげ髪がぴょんぴょんと跳ねた。あれは犬の尻尾のように感情を表す器官なのかもしれない。ヴァッシュは抱きとめると頭を撫でる。まるっきり子供扱いだ。
「キミ達がここで仕事中って聞いたから。ついでに読書でもしようと思って」
 そう言ってヴァッシュは持っていたハードカバーの本を軽く掲げる。ここでは当たり前の光景ではあるが、読書とは優雅なものだ。
 ここは洗濯以外の用事でも入室可能なのかと窓の方へ目をやる。部屋の半分は濡れた洗濯物で埋まっており、窓のほとんどを遮っている。空調は入っているが直射日光が容赦なく刺さってくるせいで息苦しい。椅子もテーブルに備え付けのこれしかなく、娯楽もないのだから人気がないのは当然だろう。どちらの身をどのように案じて来たのだろうか。ジェシカはいまにもジャンプしそうな勢いで喜んでいる。
「そうだ、たたむついでに繕い物もしてたのよ。ヴァッシュもなにかない? 一緒にやっちゃうわ」
「ん? そうだなぁ」
 ヴァッシュは少し上を向いて考える素振りをした。ジェシカは恋人気分で楽しいのか、腕に腕を絡め、目を輝かせて待っている。ウルフウッドは作業を中断し、頬杖をついて傍観することに決めた。小さく唸っていたヴァッシュは、やがてあっとひらめいた顔をした。
「コートのボタン! 取れそうだったんだよね。だからそれお願いしたいなぁ。あ、でも普通の針じゃ刺さらないかな。それは誰かに訊かないと」
 ヴァッシュの言葉は途中で打ち切られた。トンッと小さな手に胸を押されたのだ。よろめくほど細い体ではない。先程までここに差し込んでくる陽射しと変わらないくらいの笑顔を向けていた少女は、怒りで頬をむくれさせた。目尻には涙が浮かんでいる。
「知らない。ガムテープで留めればいいのよ」
「えぇっ」
 ツンッと顔をそっぽに向けたジェシカは足音荒く部屋を出て行った。雑音を立てるもののない室内にドアが閉じる音が大きく響く。ヴァッシュはその白い扉をぽかんと見つめた。
「フラれてもうたな」
 ケケケと意地悪く笑うとが、ヴァッシュはあっさりと肩を竦めた。ジェシカが座っていた方のテーブルに近づき、ブラウスを手に取る。
「仕方ないよ。僕じゃ彼女には釣り合わない」
 なんや気付いとったんか。という言葉は飲み込んだ。間の抜けたガキのような男だが、ウルフウッドよりは長く生きているのだ。具体的な年齢は訊いていないが、子供の感情ぐらいは勝手に悟れるだろう。
「悪いやっちゃなぁ。人畜無害なツラして、オンドレみたいのが一番タチが悪いわ」
「酷いなぁ。スマートだって言ってよ。彼女も大切な家族なんだから」
 ジェシカからすれば酷薄な態度に映るかもしれないが、この男なりの優しさなのだろう。それを好ましいと思うか否かは個人の価値観による。ウルフウッドは当然の態度だと受けとめるが、過去にもこうやって幾多の女性を泣かせてきたのだろうと想像すると、善人だとは決して評価できない。可哀想な少女達はさっさとこの男の本性に気付くべきだ。
 羊のツラした男はブラウスも肌着も下着もタイツも隔て無くたたんでいく。他の男がやったらクレームになりそうだが、この男だけは例外なのだろう。異性ではなく家族なのだ、おそらく。
 ジェシカが途中で放り投げたボタン付けの針を見つけると、男のくせに細い指はするすると縫い留めた。パチン、と糸の根本をはさみで切る。この男も迷うことなくはさみを使った。柔和な顔の牙では肉を裂けず、糸すらも切れなさそうだ。確かに自分の牙はこことは違うのかもしれない。いや、ここの住人がヴァッシュ寄りなのか。
「ワイの犬歯な、オーカミみたいなんやて。オーカミ言うたらなんでも食い殺してまう獣なんやろ?」
「あんまり知らないけど、そう聞いたことあるね」
「でもな、ワイの牙は糸も切れるし、袋も開けられるし、結構便利やと思わへん?」
 ヴァッシュはふと手を止め視線だけでウルフウッドを窺った。本気とも冗談ともとれる真っ白な表情だ。口は閉じているが獣と同じ名を持つこの男の唇の向こうには、獣じみた二本の犬歯が存在するのだ。
 黙って観察していたヴァッシュは、やがていつものようににっこりと微笑んだ。
「うん、そうだね。でもはさみっていう便利なものがあるし、それを使うことは悪くないよ。キミは扱えるんだから。それに」
「あ?」
「歯ブラシは噛まないで使った方がいいと思うよ、子供じゃないんだから。キミすぐダメにしちゃうでしょ」
「喧しいわ」
 ウルフウッドは誰のものか知らないトランクスを、適当に丸めてヴァッシュの顔に投げつけた。
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