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 それは両手で持つぐらいの、ちょっと大きな電球だった。
 電球と言ってもフィラメントもアンカーもなく、白くも塗られていなかった。電球の形をしたガラス瓶を買ってきたのだろう。ウルフウッドはそれとちょっと重そうなビニール袋を提げて、庭へと続く床まである大きな窓を開けた。ひたすら安かったため庭用にと買ったビーチサンダルを適当に素足に引っ掛け、椅子のように床に座り、外を向いて電球の蓋を開ける。僕は後ろからその手元を覗く。
「なにしてるの」
「さあな」
 振り向いてもくれなかった。こんなときのウルフウッドは絶対に教えてはくれない。僕は玄関から外へ出て庭へ入り、彼の正面にたどり着いた。目の前でしゃがんで、両手をチューリップみたいにして頬杖ついて作業を眺める。電球は青空を映していた。
「なんや、そこまでして見たいんか。変態」
 やっぱり一瞥もしないで作業を続けるけれどニヤニヤと笑っている。見学は許してくれたようだ。僕は身じろぎもせずに見守る。蓋が外された電球は、一欠片の曇りもなかった。
 脇に置いていたビニール袋の中には土が入っていた。どこからとってきたのだろうか。皮の厚い手で掴むと、ゆっくりと電球の口から注いでいく。慎重な手つきに見えたがそれでも土は多少こぼれた。ウルフウッドの膝を汚し庭に落ちる。土は湿っていて、ふわふわと空気を含んで柔らかそうだった。それが電球を半分より少し足りないぐらいにまで入れると内腿の間に置き、両手を軽く叩いて土を払い落とした。今度はピンセットを手にする。
 ビニール袋に入っている土をよく見ると、苔とか侘び草とかも紛れていた。それらをピンセットでつまむと電球の細い口から内部へ入れて、土の上を埋めていく。ボトルシップみたいだ。
 瓶の中で船ができあがるように、無機物だった電球が呼吸を始める。
「テラリウムだ!」
 電球の中に世界を作ると、ウルフウッドは得意気に微笑んだ。
 そのままでは転がってしまう電球の側面に滑り止めマットを切って貼ると、出窓に飾った。日当たりのいいここには僕が育てている観葉植物をいくつか置いていた。そちらの方が断然背が高い。森の中にぽつんと異世界が生まれたみたいな空間ができあがった。このテラリウムを眺めるために、リビングの中央に設置していたラブソファを出窓に寄せた。背もたれに向かって膝立ちになり、出窓に両腕を乗せて眺める。ソファに座って酒を飲みながらテレビを見ることを楽しみにしていたウルフウッドは、勝手で小さな模様替えに大いに怒り、ローテーブルもソファに寄せた。テレビとの距離は遠くなったが、視力は良い方だったし、アルコールとつまみを摂ることができれば満足そうだった。
 テラリウムの水やりは、いつも僕が使っているブリキのジョウロを使っていた。てっぺんにピストンのボタンがついている小型のスプレータイプだ。仕舞わなくても見栄えするから、いつも出窓に置いている。電球の内部が乾いていると感じたら適宜与えているようだった。ウルフウッドが出かけているとき電球の内部を覗き込んでみた。土がなんとなく乾いていて、なんとなく侘び草がしょんぼりしているようだったから、電球の蓋を開けてひと吹きしてみた。ガラスの内側に大きな水滴がつく。手の平サイズの世界の、恵みの雨だ。それが中の様子を隠したが、しばらくすると重力に従い垂れ、テラリウムの様子が明らかになった。植物は生気を取り戻し、濡れた緑色の葉をピンと張っていた。色も心なしか濃
くなっている。僕はそれに満足して部屋の掃除をした。眼を離していたのは掃除の時間だけ、ほんの一時間にも満たない時間だ。掃除機をしまって出窓に戻ると、電球の中の様子が一変していた。侘び草が成長して空洞を埋め尽くしていたのだ。隙間なんてないんじゃないかってぐらいに伸びている。伸びすぎた背は電球のてっぺんにぶつかるとカーブに沿って頭を丸め、内側の密度が非常に高くなっている。ウルフウッドが世話をしているときはこんなこと一度もなかった。僕がちょっかいを出したことがバレてしまう! けれどどうやって誤魔化せばいいのかひらめかない。話しかけたり布をかけたりしてみたけれどダメだった。あたふたしているうちにウルフウッドが帰宅した。機嫌良さそうに僕が背中で隠し
ている電球を覗き込む。
「ちょっかい出すんやめてぇやぁ。ほんまに」
 歌うように文句を垂れると、入らないハサミの代わりにピンセットを電球の中に差し込んで侘び草の手入れをした。ぶちりぶちりと無造作にちぎっていく。成長しすぎてちぎられた葉先は外に出され、元の静かな姿に戻っていく。
 ひとまず怒ったり拗ねたりしなかったことに安堵した。
 ウルフウッドはいつも僕が観察しているようにソファに膝立ちなって、穏やかに電球を眺めている。小さく鼻歌を奏でると、短くなった侘び草がリズムに合わせて揺れた。

 電球の様子が変わった日は他にもあった。ウルフウッドが孤児院に帰省したときだ。僕達の家からは日帰りできる距離なので彼はよく帰郷する。実家に帰るなんて物騒な話じゃなくて、両手で抱えるほどのお土産を用意して遊びに行くのだ。僕もついていくことが多いけれど、その日は用事があって一緒には行かなかった。自分の所用を終わらせて帰宅すると、ウルフウッドはまだ戻ってきていなかった。彼は人気者で、家族のことが大好きだから帰りはいつも遅い。今日も遅くなるのだろう。僕はもはや日課となっているテラリウムの観察を始めた。ソファに膝をつこうとして硬直した。激変していたのだ。朝は確かにテラリウムだったのに、今はアクアリウムになっていたのだ。空気が入る隙間もないぐらい水
で満たされており、侘び草は水草へと変わって漂い、ネオンテトラが群れをなして泳いでいた。しかも時間が経つにつれて増えている。魚達は家族なのか仲が良さそうだ。僕は裏切られた気分になって、ソファの上で膝を抱いて丸くなっていた。何もしていないのに外が暗くなってきた。もう少ししたらウルフウッドは帰ってくるはずだ。それでもテラリウムに戻らなかったらどうしよう。こんなことになるんなら用事なんか放り出して僕も一緒に行けばよかった。心配になって振り返る。背の高い観葉植物に囲まれている電球の中身は水嵩がだいぶ減っていた。ネオンテトラも少なくなっている。その事実に僕はようやく安堵した。
 時間と共にさらに水も魚も減り、いつものテラリウムにやがて戻った。帰ってきたウルフウッドは、それはそれはもう上機嫌だった。土産だなんて言ってドーナツショップの箱をくれた。開けるとオールドファッションとフレンチクルーラーとイーストドーナツともちもちリングとチュロスがみっしりと入っていた。僕のことを完全に忘れた訳じゃないようだ。オールドファッションを食べかすがこぼれても大丈夫なように箱の上でかじる。
「キミ、僕のこと忘れてたでしょ」
「別に忘れてへんよ」
 嘘つき、と思ったがドーナツが美味しかったので許してあげることにした。

 面白かったのは僕が会社のパーティーで帰りが遅くなった日のことだ。
 宵も更け住宅街の明かりがぽつぽつと消え始める時刻に僕は帰路を辿っていた。よく晴れた初夏の涼しい風が吹き、アルコールで火照った体を冷やしてくれた。野良猫さえいない真っ暗な道路を千鳥足で、ときにはターンなんかもしながら歩いていた。なんてタイトルだったか思い出せない曲を鼻歌で刻むと、それは空をよく貫いて溶けた。こんなに遠くまで鼻歌が通る夜空はそれはそれは透きとおっているのだろうとターンしながら見上げると、ぽかんと口を開けて立ち止まるはめになった。僕は宇宙に行ってしまったのだ。
 紺をわずかに抱えた黒い夜空は、数えきれないほどの星を広げていた。星の中心は白いのに発している光は青い。硬いアスファルトを歩いていたはずなのに、踵からふわっと体重が消えてしまった。きっとあの星々は、世界中の希望を集めて、ぎゅーっと一つの星にして、それを砕いて、星屑にして、全世界に打ち上げたのだ。
 僕はどうしようもなく嬉しくなって、爪先立ちになって走って家に帰った。玄関の扉を開けると同時にポンッと跳んで、ジャケットの裾とネクタイを翻し、両手も上げて、背中をのけ反らせてしばらく宙に浮いてから、ゆっくりと爪先で着地した。踵まで静かに廊下を踏む。軽い体のままリビングへ向かう。
「ウルフウッド!」
 テレビを見ながら寛いでいる愛しい彼に飛びついた。ウルフウッドは僕のことを一瞥もしなかったし、微動だにもしなかった。それでも僕は両腕で抱き締めるだけじゃ物足りず、両脚も胴体に絡ませる。頬ずりをするとやっと反応してくれた。鬱陶しそうに顔を離す。
「酒臭い」
「お酒好きだろう。それに、僕も」
 首に回していた腕で頭を抱え込み、吸血鬼みたいに首筋に吸い付く。すると後頭部を掴まれ、乱暴に引き剥がされた。強制的に天井を眺めさせられることになった。
「邪魔や酔っぱらい。さっさと寝ぇ」
「あのね、今日凄かったんだよ」
「酒と飯がか。切り落としスモーク食っとるワイへの自慢か」
 テーブルへ目を向けると、安い発泡酒と封の開いたお肉のパックが置かれていた。確かに今日のパーティーと比べたら貧相だ。お持ち帰りできたならあの分厚いハムを食べさせたかった。でも僕がいま言いたいのはそれじゃない。胡座をかいたウルフウッドの上に座り直し、首に両腕を回して正面から見つめ合う。仏頂面の彼ににっこりと微笑む。
「凄いのは星空! 夜って真っ暗じゃない? そんな中に白くて青い星がいっぱいあってね、どれもピカーってなってて、凄い力でね。あれは希望だよ、希望!」
「意味判らんわ酔っ払い」
 頬を手の平で強く押された。頑張って抵抗してみたけれど負けて、僕は床にごろんと倒れた。
 その後の記憶はないから多分ウルフウッドがベッドまで運んでくれたんだと思う。翌朝は二日酔いでしばらくベッドの上で唸っていた。二人で一つのベッドを使っているのだけどウルフウッドはいなかった。珍しく先に起きたらしい。僕もふらふらとベッドから這い出る。
 リビングに辿り着くとそこにウルフウッドはいた。昨日の延長線のようにスルメを咥えていたが、昼間だからと自重したのかお酒はない。僕もソファに座ろうとして、テラリウムが視界に入った。思わず、細く長い歓声が洩れた。
 電球の中に夜空が生まれていたのだ。柔らかな土はいつもより濡れて黒くなっている。その表面、まばらに生えている侘び草の隙間で青い砂粒と白い砂粒がきらめいていたのだ。宝石みたいだ。思わず手に取る。
「わぁ! きれい。キミも見たいと思ってくれたの」
「思ってへんわ」
「今のだけでなんのことか判ったんだね」
 そう告げるとウルフウッドは渋い顔で舌打ちし、押し黙った。酔っ払い扱いしててもちゃんと話を聞いてくれていたのだ。
 電球の手の平の上で軽く傾けると、ガムランボールみたいな涼やかな音がした。耳を近づける。砂粒の輝きが強くなったり弱くなったり、呼吸しているみたいに変わった。ガムランボールの音も、一つだったのが増えた。耳を寄せたままウルフウッドを見遣る。
「今度、一緒に夜の散歩にでも行こうか」
「行かへん」
「じゃあ泊まりがけの旅行とか」
「行かへん」
「んーと、それなら」
「行かへん」
「ケチ」
 僕らは次の大型連休に、星がよく見えるという山へ旅行することに決めた。

 面白かった出来事はもう一つある。僕らがケンカしたときのことだ。
 一緒に暮らしているからケンカはしょっちゅうある。冷蔵庫にしまっておいたお酒やデザートを勝手に食べただとかまだ読んでる途中だった雑誌を処分してしまっただとか、仕様もないことだ。今回のケンカも似たようなものだった。
 非があるのは明らかにウルフウッドだったけれど、自分は悪くないと自我を貫いた。でんっと横柄に座って、反省する気配はない。そんな態度をとられると僕としても頑固な姿勢を取らざるを得なくなる。つまり子供のケンカだ。
 そういう諍いは日数が経つにつれてなんとなく元通りになるのだけれど、今回はちょっと面白い解決の仕方をした。僕はいつもの習慣でテラリウムを覗き込んだときだ。
「あれ、牛の骨が落ちてる」
 それは小指の先ぐらいの、小さな頭蓋骨だった。
 土の奥は湿っているけれど表面はカラカラに乾燥していてひび割れていた。かろうじて生えている植物は萎びて首を垂れている。色褪せた草叢の所に、白い骨が転がっていた。大きな曲線を描く角が冠みたいになっている牛の頭蓋骨、その後ろに肋骨や背骨や脚の骨などが落ち、ぐったりとしていた。元気があれば骨だけでも歩いてくれるだろうけれど、これは無理そうだ。指先でコツコツ叩いてみたけれど案の定無反応だった。
「んなわけないやろ!」
 慌てたのはウルフウッドだ。駆け寄ると電球を奪った。僕に見られるのが嫌なようで、ちょっとソファから離れて至近距離で中身を覗く。ソファの位置からでは中身が変わった様子はない。ウルフウッドの顔が青くなったり赤くなったりする。
「おい、何くたばっとんねん。さっさと起きや!」
 発破をかけるが起きなかったようだ。骨の方がよっぽど素直だ。僕は肘掛けで頬杖をついて、呆れきった態で見上げる。
「キミってさー」
「知らん」
「僕のこと大好きだよね」
「ちゃうわボケ!」
 ウルフウッドはなおも牛の骨を起こそうと汗を掻きながら話しかけ続ける。
 とっても素直な電球と、可哀想なぐらい必死な後ろ姿に免じて今回のケンカは許してやることにした。

「なぁ、オンドレは育てへんの。ワイばっかずるいやん」
「ずるいって、キミが勝手に始めたんでしょ」
 ウルフウッドはソファの隅の隅の隅にまで体を寄せて小さくなっていた。僕が淹れたてのホットコーヒーを渡すと、迷惑そうに受け取りすぐに口をつけた。いつも通りに隣に座ると、僕との間に普段よりも距離ができる。
「あないなことになるなんて思っとらんかった」
「面白いよねー。キミのテラリウム」
 砂糖とミルクたっぷりのカフェオレを機嫌よく飲むと、隣からゲシゲシと脇腹を蹴られた。縮こまるか大きくなるかどっちかにして欲しい。おかげで少しこぼれて服が汚れた。ティッシュで染みを抜く。
「そもそもさー、僕が育てるとしたらどんな形? やっぱり十字架? シャーレみたいな蓋付きの」
「墓場みたいやな。ええんやないの、墓石置いて作ったれば」
 自分から提案してきたくせに心底どうでもよさそうにコーヒーを飲む。僕は染み抜きをしながら大きく口を開ける。
「やだよそんなの! 不吉じゃないか。それに作るとしたら小さいお花が敷き詰められてるのがいいし」
「お花畑やなぁ」
「それはテラリウムの事? それとも僕のが頭がって言いたいの」
 唇を尖らせると嬉しそうに笑った。彼はこんなときだけやたらと素直だ。
 僕はティッシュを捨て、マグカップを持ったまま片手で電球を掴む。
「可愛くないなぁ。こっちはこーんなに可愛いのに」
「やめややめ。それ廃棄や。なんなら土に埋めたる」
 わざとらしく電球を可愛がると、ウルフウッドはパタパタと手を振った。そんなつれない態度を取ったって手遅れだ。
「駄目だよ。だって、ほら」
 電球の中身がよく見えるように傾ける。茶色い土と緑の草の世界にぽつりと生まれた、赤い点。それを見つけたらどうにも頬が緩んでしまった。
「赤いゼラニウム、咲いてるよ」
 ウルフウッドはこの世の終わりみたいに縮こまり頭を抱える。ブラックコーヒーが盛大に零れた。僕はたまらなく彼が愛おしくて、目尻に涙が浮かぶほど大笑いした。

 一番初めに横取りされたのは、チョコレートアイスだった。
 平日の仕事帰り、小さな疲労が蓄積していた僕は自分の体を癒すためにコンビニでアイスを物色した。疲れているのだからといつもよりちょっぴり奮発した贅沢な代物だ。ウルフウッドにもと考えたが、彼は甘い物を好まないからお酒のつまみになりそうなお菓子にした。お酒自体は買わなくてもストックがまだあったはずだ。これだけを買って帰ろう。
 家に着くとマジックで蓋にVと書いて冷凍庫に入れ、つまみはお土産だと言ってテーブルに置いた。ソファの定位置で寛いでいたウルフウッドはそれを一瞥することもなく退屈そうにテレビを見続け、適当な生返事をした。僕は気にも留めずにシャワーを浴びた。
 アイスを食べるのはとても楽しみにしていた。なんと言ってもあの有名ブランドだ。子供のお小遣いでも買える値段だけれどアイスにしてはやっぱり高い。食べるなら万全の態勢で、ながら食べなんかじゃなくって一口ずつしっかりとチョコの濃厚さを味わいたい。
 シャワーから出て新しいパジャマに着替えると、ティースプーンを出して、鼻歌を奏でながら冷凍庫を開けた。
 なかった。
 他の食品を取り出し奥の方まで捜してみたがなかった。これはどういうことだろうと相変わらずソファで退屈そうにしているウルフウッドへ何か知らないか問おうとして、愕然とした。
「なんで食べてるの」
 カリーとか食べるときに使う大きなスプーンを握って、小さく、上品で、気高い僕のチョコレートアイスを無遠慮に食べていたのだ。そこに悪びれている様子はない。流石に僕の声も大きくなる。
「ちゃんと名前書いといただろ!」
 食べ物の恨みは怖いから、食べられたくないものにはイニシャルを書くように二人で決めたのだ。僕は断じて書き忘れてなどいない。ウルフウッドはスプーンを咥えると、事も無げにゴミ箱からアイスの蓋を取り出しこちらに渡した。Vと大きく記したはずだが書き足され、いびつなWの字に変わっていた。思わず足を踏み鳴らす。
「キミ普段はアイスなんて食べないでしょ。なんなのさ!」
 ウルフウッドは無視して食べ続け、やがて飽きたのか半分以上も残してテーブルに放った。それを僕は頬を膨らまして取り戻した。ちょっぴり涙の味がした。

 数日後、別の物も横取りされた。
 少し前にインテリアショップで『HUG ME』と書かれた吹き出し型のクッションを買った。ウルフウッドに持たせたらさぞかし可愛らしいだろうという魂胆だ。僕は満面の笑顔でそれをプレゼントしたが、ソファに寝そべっていたウルフウッドは受け取った瞬間に床に叩きつけた。僕は溜め息をつき、クッションを拾うと見せつけるように撫で撫でしてやった。
 買ったからにはもったいないと、僕が抱き締めることにした。寛いでいるときに文字がばっちり見えるようにアピールしつつ抱えていたのだけれど、ウルフウッドがハグしてくれることはなかった。始めの頃は一瞥しては呆れていたが、最近は見ることすらなくなった。
 それが、だ。クッションが僕の腕に馴染む頃になると強奪してしまった。いつの間にかウルフウッドが両腕で抱えているのだ。不思議に思ってしばらく眺めていたが、これは彼なりの合図なのだろう! と大喜びして両腕を広げて抱きつこうとしたら、脚を使って本格的に妨害してきた。近づくことを断固拒否する。しばらく攻防したのち、僕は鼻と鼻がぶつかるまでの距離を獲得した。キスをしようと更に首を伸ばしたが、胴を両脚できつく挟み込まれ、そのままぶん投げられた。HUG MEとは一体何なのかと懸命に考える一日になった。
 さらに別の日になると、僕のスリッパまで奪った。ウルフウッドは室内にいてまで靴を履いていたくないと常に裸足で生活しているから彼の分のスリッパはない。予備のスリッパも用意していないから、強奪されると僕も靴下で生活することを余儀なくされた。ウルフウッドはやっぱりスリッパは合わなかったらしく、踏みつけて引きずるようになった。納得できなかった。
 僕は彼の症状を、横取り症候群と名付けた。
 症状は悪化し続けた。
 ウルフウッドは暑がりで真冬でも滅多にヒーターをつけない。だから僕が彼に合わせて袖のある毛布を着て、ホットココアを飲んで体を温める。それなりに幸せな時間だ。だがある日帰宅すると、何故かウルフウッドが毛布を着ていた。今日はいつもより気温は高いぐらいなのに。うたた寝の直前なのか、瞼が開いているのか閉じているのかよく判らない。僕のなんだけれどと告げたけれど返事はなかった。
 しかし暑がりなことに変わりはなかったようで、数日すると毛布を脱ぎ始めた。畳むこともせず、背中に押し込んでクッション代わりにする。彼が席を立った隙に取り戻すと全力で回収された。そしてまた背中に押し込む。僕はやっぱり納得ができなかった。
 合わせて僕のマグカップも横取りするようになった。淹れたてのホットココアを奪い、一口程度で飲むのをやめてしまう。なら冷める前に飲んでしまおうと手を伸ばすと叩かれる。彼が興味を失うまで僕はココアを飲むことができない。それなら初めから彼の分も用意すればいいだろうと赤と黒の両のマグカップにココアを満たすのだけれど、ウルフウッドが興味を示すのは赤いマグカップだった。なら黒い方をもらおうとしたらそれも許されなかった。僕はどうすればいいんだ。
 そうやってウルフウッドは僕の日用品をどんどん奪っていった。やがてウルフウッドの定位置はなんだかよく判らない、雑貨を押し詰めた亜空間になった。あまりにもみっともないし片付いた部屋のなかで雑然としたそこだけが不自然だったので、彼が昼まで惰眠を貪る休日の午前中にすべて元の場所に戻した。部屋中どこもピカピカだ。気持ちよくかいた汗を手の甲で拭った。
 やっと起きて大欠伸をしながらリビングにやってきたウルフウッドは自分の定位置を見遣ると、世界が崩壊したみたいな顔で絶望した。グラスを持っていたら確実に落として割っていただろう。
 しばらく硬直したあと、無言で憤慨しながら彼はすべての物を元に戻した。頭から怒りの湯気を出し、背もたれに押し付けた着る毛布の上にクッションを殴るように設置する。ダムを作っているビーバーはこんな感じだろうかと思ったが、残念ながら見たことはない。
「ねぇそれ全部僕の物なんだけれど、知ってる?」
 巣作りを終え、満足気な様子で寛いでいるウルフウッドに訊いてみた。もしかしたら彼は知らないのかもしれない。ウルフウッドは王様みたいに両手足を広げたまま、ちゃうワイのや。と堂々と宣言した。溜め息をつく。
「そのマフラーも僕の、その本も僕の、イヤホンも僕の。あ、靴下が最近少ないと思ってたらそれまで横取りしてたのっ。使わないんなら返してよ」
 腕を伸ばすが、手の平を蹴り落とされた。ウルフウッドは一切反省せず、寝そべり、僕の腹に踵とくるぶしを擦りつけて遊ぶ。軽く叩いてみるがやめなかった。付き合い始めの頃は警戒心むき出しの野良猫だったのに、最近はちょっと調子に乗っているのではないだろうか。僕は自分の所有物を取り戻すべく、悪ガキの両足を掴む。
「欲しい物があるんなら買ってあげるから返してよ。生活に困るだろ」
 両脚をばたばたさせて逃れようとするがそうはさせない。力づくで抑えこむとようやく大人しくなった。代わりにHUG MEのクッションを抱き締めてそっぽを向く。
「別にオドレなんぞに恵んでもらいたくないわ」
「じゃあなんで僕の物横取りするの」
 さっきまで拗ねていた顔をしていたくせに、クッションを頬に寄せると猫みたいにニヤニヤ笑った。顔の半分はクッションに押し付けているから隠れ、もう半分だけが横目でこちらを見遣る。
「オンドレはワイの物なんやからこれもワイの物やん」
 それだけを言うと瞼を閉じた。表情も消える。どうやらまた眠ってしまうつもりらしい。
「ちょっと、ちょっと待ってよ。生殺しにする気!?」
 両脚を解放して覆い被さるけれど反応なんてちっともしてくれない。安眠しますと涼しげな表情だ。堪ったものじゃない。
 ウルフウッドは一体どこまで僕のモノを横取りしたら気が済むのだろうか。




ペーパー1 ペーパー2

 キンッ、と耳たぶが痛くなるほど寒い日だった。いつもの時間にいつものように仕事を終わらせて、なんとなくその日だけいつもと違う帰路を選んだ。冬は日が落ちるのが早い。郊外ってのはそれなりに整備が行き届いているかと思えば詰めが甘くって、細い道ばかりが蔓延っているこの住宅街は街灯が少ない。思い出したようにぽつん、ぽつんとあるだけで、チカチカと切れかけているのもたまに混ざっていたりする。夏には蛾がひらひらと集まることもあるけれど、今は冬だからその気持ち悪さはなくって、ただ寂しいだけだ。でも街灯と街灯の間の暗がりには何か悪いモノがいそうだ。子供が一人で通るにはとっても怖いだろう。
 僕は急ぎ足になりながらマフラーを口元まで広げた。こうすると自分の息で暖まる。でも鼻と耳はまだ痛い。さっさと帰って熱いシャワーを浴びよう。角を一つ曲がる。その直線をしばらく突き進んで、もう一つ角を曲がるとほどなく我が家だ。平べったいおんぼろフラットだが、住み慣れればそんなに悪く無いところだ。
 この辺の住宅街はどこも似たような景色だ。安っぽいフラットか一般的なファミリーサイズの一軒家。角を一つ曲がった程度じゃその光景は変わらない。
 ここも他と変わらない細い道のはずなのに、視界の端に黒い影があった。光を飲み込んでしまったみたいな真っ黒な違和感。そちらへ視線を向ける。どこにでもあるブロック塀の上に、丸まって背を向けている生き物がいた。粘土を適当にまとめたようなシルエットの中から三角の耳がぴょこんと生えている。
「猫だ」
 初めて見た。
 僕は肌着とセーターとコートとマフラーと手袋という厳重警備を敷いた格好なのに、黒猫は薄手のカットソーとスラックスだけで、裸足だし項も寒気に晒していた。僕の位置からじゃ見えないけれど、この様子なら手袋もしていないだろう。尻尾は自分の腰に絡ませ、獣の耳は僕の声を認識していないのか無視しているのかピクリとも動かなかった。塀の中の家明かりを浴びて、暖かそうなオレンジ色に縁取られている。
 僕は広げたばかりのマフラーを少しだけ下ろし、声がよく通るようにする。
「寒くないの」
 今度はちゃんと声を張ったのだけれど、黒猫の耳はやっぱり動かなかった。家の中を熱心に眺めているようだけど、塀は僕の頭よりも一つ分高い位置にあるから何を見ているのかは判らない。かすかに音楽が洩れ聞こえてくるだけだ。耳を澄ます。クラシックだ、曲名までは知らないけれど、いつかどこかで聞いた覚えのある音楽。猫というのはクラシックが好きなのだろうか。
 ブロック塀を視線でたどると正門がすぐそこにあった。バレエ教室と書かれた金属のプレートが掛けられている。こんな時間なのに生徒達が練習しているのか。どんな人達が踊っているのか知らないけれど、熱心でえらいなぁ。
 バレエ教室の練習を眺めている黒猫をもうしばらく見つめる。腕を伸ばせば指先ぐらいは当たりそうだけれど、猫って生き物は無断で触られるのを嫌うというからやめた方がいいんだろう。
 寒気による鼻の痛みに堪えられなくなったから、僕はマフラーをまた広げて、無言でその場を去った。
 次の日も昨日と同じ、いつもと違うルートで帰った。黒猫は今日もいた。やっぱり塀の上で膝を曲げて丸くなって、バレエの練習を眺めている。今日のクラシック音楽と昨日の音楽が同じなのかは覚えていない。僕は彼の真下に立って、こんにちはと声を掛けてみる。予想通り無視された。でも今日は会えると期待していたからちゃんと対策は練ってある。手首に引っ掛けている小さなビニール袋をガサガサ鳴らしながら中身を取り出した。
「ねぇ、からあげ一個あげるからお話してよぉ!」
 近所で買ったからあげにピックを刺し、腕を真っ直ぐに伸ばした。今まで無視を決め込んでいた黒猫は振り向き、鼻をひくひくと動かす。
 猫という生き物を初めて間近で見たけれど、人間とほとんど変わりはなかった。僕と同じぐらいの身長だろうし、骨格も似ているし、鼻の形もおんなじだ。ただ双眸が月の光を全部集めたように強く輝いている。どんな暗闇も見通せるという噂は本当みたいだ。
 黒猫は大きく口を開けるとからあげを一口で奪ってしまった。満足そうに咀嚼している。
「キミはいつもここにいるの」
 こちらを一瞥するがすぐに興味なさそうに瞼を伏せて咀嚼を続ける。ちょっと悔しくなって、さっきより少しだけ強い声を出す。
「キミはいつから猫なの」
「続きは」
 首を傾げると、手に下げているビニール袋を顎で示された。念の為に中を確認してみるけれど、もちろん変わっているはずはない。猫に視線を戻す。
「食べちゃった! 冷めちゃうし!」
 黒猫はケッと吐き捨てると首をバレエ教室に戻した。そうしたらもうピクリとも動いてくれない。しばらく待ってみるが、やっぱりダメだった。ねぇ、もうお話してくれないのと訊いても耳すら動かしてくれないものだから、諦めて家に帰った。
 猫って生き物は、元々は人間なんだそうだ。人として産まれて、人として育ったのに、ある日突然猫になってしまうという。猫になる条件はただ一つ、人として大切な物を失うことだ。大切な物とはなんなのかは知らない。でもあの傍若無人な黒猫は確かにそれを失くしたのだ。彼は一体、どんな人間だったんだろう。
 翌日も僕はからあげを手土産に黒猫がいる道を選んだ。黒猫は昨日からずっと動いていないんじゃないかって勘違いするぐらいおんなじポーズで丸まっていた。今日もクラシック音楽が微かに聞こえる。僕が来たことには気づいているんだろうか。袋を持っている手を掲げる。
「ねぇ、今日もからあげ持ってきたよ。ちゃんと五個入り!」
 ビニール袋が擦れる音が聞こえると、黒猫はくるりとこちらを向いた。僕はピックでからあげを刺し、腕を伸ばして一つ差し出す。猫はピックごと奪い、ついでに掠めるようにしてビニール袋ごと持って行ってしまった。腕は存外長い。
「ああっ」
 ブロック塀の上で胡座をかき、優雅に食事を始める。
 一つずつ餌付けしたかったのに。取り返す隙もない。口を半開きにしたまま見上げる。黒猫は僕を見下す。
「なんやねん。ワイを満足させるために買うてきたんやろが」
「そうだけどさぁ、所有権はまだ僕にあると思うんだよね」
「はっ、人間の都合なんざ知らんわ」
 ガッカリしている僕のことなんか知らんぷりして食べ続ける。よく咀嚼するとピックを刺し嚥下してから口に含み、よく咀嚼するとピックを刺し嚥下してから口に含み、手は人間と同じぐらい器用なようだ。それが判っただけ、からあげを買ってきた意義はあるだろうか。
 胡座をかくと足の形がよく判った。黒いスラックスからはみ出ているから白っぽく感じるけれど、僕よりちょっと浅黒い気がする。五本の指が全部揃っていて、甲は筋張っていて、人間と同じ男の足だ。靴下も靴も履かないだなんて、しもやけにはならないのだろうか。
「寒くないの」
「寒いわけないやろ、猫なんやから」
 そんなことも知らないのかと馬鹿にしきった様子だ。猫に会うのは初めてなんだから知らなくて当然じゃないか。そう反論してみたけれど、僕よりからあげの方が大切らしい。新しいのをピックで刺し、一口で頬張っている。
「キミはこの辺に住んでるの?」
「猫に住むって概念はあらへんよ。この辺におるだけや」
「人間だったときのことは覚えてるの?」
「さあな」
「猫になるって、どんな気持ち?」
 最後のからあげを嚥下すると、ピックを吐き捨てゴミになったビニール袋を投げつけてきた。僕は袋を受け取り、道路に落ちたピックを拾って中に入れる。猫というのはお行儀が悪いらしい。
「なんでいつもバレエ教室を見てるの」
「子供がぎょうさんおるからや」
「それなら学校でもいいじゃない」
「アホ。猫言うたらバレエやろが」
「そうなの?」
「なんや、猫はみんな踊れるっちぅの知らんのか」
 黒猫はブロック塀の上に立ち上がると両腕を夜空に向けて伸びをした。ふぅっと力を抜くと耳がかすかに動く。
「ええか、これが一番、これが二番」
 ブロック塀を平均台みたいにして、黒猫は足の位置をころころと変えた。説明が速いから番号は覚えられないけれど、関節がとても柔らかいのはよく判る。筋肉もしなやかだ。黒猫は続ける。
「クロワゼ、プリエ、シャッセ、グリッサード」
 呪文のように言葉を綴りながら、黒猫は手足をのびやかに動かす。あまりにも滑らかに動くものだから、その動きだけを仕込まれた機械仕掛けの人形みたいだ。細い平均台みたいな塀の上で片足を高く上げて爪先だけでくるりと回る。尻尾がそれに少し遅れて腰に絡みつく。教室から洩れる明かりが逆光となって、黒猫はほとんどシルエットと変わらなくなる。
 大きな振り付けなのに、どれだけ動いても足音はしなかった。人間と同じ形をしているけれど、踵も土踏まずも爪先も、僕達とは違う動きをしていると錯覚するほどよく動いた。爪先だけで立ち上がると踵の丸みや、縮んだアキレス腱、のびやかな甲が顕わになる。トウシューズを履いているわけでもないのに綺麗に足の形が整っている。
 コンクリートブロックの上を裸足で動くなんて痛くって仕様がないと思うんだけれど、黒猫はちっともそんな素振りをしなかった。もしかしたら本当に痛くないのかもしれない。
「これがパドゥシャ。猫の足跡って意味なんやで」
 膝を深く折ってジャンプする。猫って変な足跡を残すんだなぁって口を半開きにしたまま見上げた。いつも丸まってるから知らなかった。
 細い細い平均台もどきの上だけが舞台になって、バレエ教室から洩れてくるあやふやな音楽だけがBGMとなって、黒猫は機嫌良さそうに踊る。
 長くしなやかな脚を軽く曲げ、力を溜めると、ぽーんと大きく開脚してジャンプした。そんなに跳んだら塀から落ちちゃうんじゃないかとハラハラしたけれど、猫は全く危ぶむことなく、爪先、土踏まず、踵と柔らかく順番に着地した。半分だけターンして、遅れた尻尾が脚を叩く。
「これがグランジュッテや。判ったか」
「ちっとも!」
「アホやなぁ」
 猫は腰に手をあてて呆れた。あれだけ動いたのに息は乱れていなかった。寒くないって言っていたけれど暑くもならないんだろうか。
「キミって一年中そんな格好してるの?」
「せやで」
「真夏でも長袖?」
「そや」
「真冬でも薄着?」
「そや」
「雪が降ってもコートは着ないの?」
「雪が降ったら……雪が降ったら、猫は消えてまうなぁ」
 事も無げにそう言った。僕は瞬きすらせずぽかーんと見上げて、やっぱり瞬きを忘れてまま告げた。
「キミがいなくなっちゃうなんて嫌だよ。折角出会ったのに」
「そんなん言われても雪は猫の天敵やし」
 ひらりと音もなくブロック塀に腰掛ける。膝の上で頬杖をついて、自分がいなくなる話だっていうのににやにやと笑った。
「今日の空気を嗅ぐ限り、明日の夜は雪や。残念やったな」
 一人残された感じ、というのを初めて知った。胸の奥の奥がぎゅーっと狭く苦しくなって、そのあたりのコートをぎゅっと握ってみるけれどちっとも楽にならなくて、僕はただ、喘ぐ。何か言いたいのに言葉は出ない。
 ふっと音が消えた。黒猫が振り返る。ありがとうございましたって揃えた幼い声が遠くから聞こえた。しばらくすると明かりも落ちた。逆光でオレンジ色になっていた黒猫の縁から色が消え、月光を集めた双眸だけが輝く。
「さて、もう退散の頃合いやな」
「待って」
 背中から倒れるように後転するとそのまま落ちた。不時着する音は聞こえなかったから上手く着地できたのだろうか。耳を澄ませるけれど葉擦れすら聞こえない。やがて子供達が玄関から出てきた。みんな頭に大きなお団子を一つ作って楽しそうにお喋りしている。そのたくさんの背中も、やがて駅の方向に吸い込まれて消えてしまう。
 ひとつ拭いた風がコートの隙間から中に入り込んできた。背中の筋肉が凍る。このまま待っても黒猫は戻ってこないのだろう。空を見上げる。ほんのりと青みがかかった空は月と沢山の星で明るい。
「雲なんてひとつもないのに」
 手袋をしていても冷たい指先に向かって息を吐きかける。白い息は毛糸の隙間をくぐって肌にまで届いた。何度か手を開閉し、まだ寒さに勝っていることを確認する。マフラーを広げ、家路を急ぐ。


 黒猫の天気予報は外れた。と思っていた。朝はぴかぴかに晴れていたからだ。コートを着ていると暑いぐらいで、黒猫は消えないで済むんだって嬉しくなった。
 でも昼をすぎた頃から崩れ始め、日が暮れると分厚い雲が空を覆い隠した。あぁ、これは危ない。マフラーをぐるぐると何重に巻いても痛いぐらい寒くって、手袋の中の指もかじかんで、耳も鼻も真っ赤で、張り詰めた空気は今にもヒビ割れそうだった。
 やがて、死に神が意地悪をしているみたいな風が吹いた。僕は瞼をぎゅっと閉じて震える。風がやみ、そっと目を開けると、音もなく、空から白いものがはらり、はらりと降り始めた。地面に落ちるとじわりと溶け、また落ちるとじわりと溶け、温度を下げていく。あぁ、これは危ない。
 定時になると僕は急いで帰った。電車に揺られている間に窓の外はもっとひどくなって、外が黒いのか白いのか判らなくなった。
 最寄り駅に着いた途端に駆け出す。今日も彼はいるはずだ。いつもみたいに薄っすらとしたクラシックがBGMとして流れていて、逆光でオレンジ色に縁取られて、寒そうな格好をしているのにちっとも寒くないと言いながら子供達の練習風景を眺めているのだ。
 道路にはみぞれみたいな雪が積もり始めた。スニーカーに染みる。滑って転びそうになるのを堪えて走り続ける。あの角を曲がればバレエ教室だ。
 曲がると、いつものように手入れの施されていない街灯がまばらに生えて瞬いており、バレエ教室の正面はちょうど街灯が途切れている場所で暗かった。教室から洩れてくるオレンジ色の光もクラシック音楽もなかった。今日は雪が降っているからお休みなのだろうか。
 雪は絶えず降っている。ブロック塀の上にも薄っすらと平らに積り始めている。そこには猫の姿も、いた形跡も残っていない。へなへなと力なく座り込む。
「消えちゃったぁ…………」
 音もなく地面を覆う白い雪はまだまだ降り続ける。純粋無垢な顔をして、あの生意気な黒猫をどうやって消してしまったんだろうか。


 しばらく雪の上に座ってへこたれていたものだから、翌朝にはすっかり風邪っぴきになってしまった。くしゃみをしながら駅までの道を歩く。
 雪は深夜のうちにやんだ。でも今日も灰色の厚い雲が空を覆っていて油断はできない。どれだけ肩を縮めても寒い空気はコートの隙間からもぐりこんできて針みたいに肌を刺す。それは手袋も同様で、両手を擦り合わせながら足早に歩いた。通勤が始まったばかりの時間帯だからどこもかしこも新雪ばかりだ。真新しい場所へ真っ先に足跡を刻むのは嫌いじゃないけれど、今日ばかりは楽しくない。いつもと違う雪に埋もれた足音は憂鬱だ。
「…………あれ?」
 どうしても黒猫のことが諦められなくって、今日はバレエ教室の道を選んだ。そうしたら先客がいた。真新しい雪の上にざくざくと足跡をつけて遊んでいる。黒い耳と尻尾の生えた生き物。
「キミ、生きてたの?!」
 慌てて駆ける。靴の裏に雪の塊がこびりついて重い。転びそうになりながら空を両手で掻いて急ぐ。ほんのちょっとの距離だったのにもう息があがった。
 黒猫は振り返り、愛想の一つも添えずによぉと挨拶をする。
「キミ、消えてないじゃない。僕のこと担いだの!?」
「避難しただけや。悪者みたいに扱わんといてや」
 猫はつーんとそっぽを向く。憎たらしくって可愛げもなくって腹立たしい! これは紛れもなくあの猫だ。安心したら急に疲れが降りてきて、コートも鞄も重たくって動きたくなくなった。鞄だけ雪のうえに下ろす。
「避難って、そんな手段あるなら言ってよ」
「雪に触らな消えへんことぐらい想像つくやろ」
「いま思いっきり触ってるじゃないか!」
「降っとるの限定や、積もっとるのは別」
「それって都合が良すぎない?」
 黒猫はざまぁみろと言いたげに口を裂いて笑うと、またザクザクと足跡を残す遊びを再開する。僕と同じぐらいの、大きな人間と同じ形をした足なのに、足跡は丸っこい獣の形をしていた。変なのと腰をかがめて覗きこむ。
「心配しなきゃよかった」
「雪で消えるんはほんまやで。ちぅか、仕事ええの?」
 僕は唸りながらしゃがみ込み、できたばかりの獣の足跡を指でなぞる。
「なんかもうサボっちゃおうかなぁ。キミのせいでやる気なくした」
「ははっ。そんなんしとるとオドレも猫になってまうで」
 足跡の上にひとつ、白い塊が落ちた。それは踏みしめられた雪と馴染む。背筋が震える。寒い、のとは違う震えだ。おそるおそる空を見上げると、新しい雪がとうとう堪え切れずに舞い落ちてきた。僕の鼻に、額に、着地して溶ける。
「あ」
 そう呟いた黒猫へ視線を向ければ、雪が触れた顔のあたりがほんの少し、ちょっぴりだけ、透き通ったような気がした。
 僕は立ち上がると猫の腰を掴んだ。全力で走り出す。
「ちょぉ、なにすんねん!!」
 猫の体は体重がないみたいに軽かった。体温もなかった。あるのは感触のみで、それがますます不安で頑張って走った。雪にはめちゃくちゃな足跡がつく。
 片手で鍵を開けると乱暴に靴を脱ぎ、黒猫の体を放り投げた。勢い余って壁にぶつかり、ぎゃんってらしくない悲鳴があがる。僕は床を這って猫から眼を離さないまま暖房のスイッチを入れて出力を最大にして、黒猫の上に覆い被さった。痛みから復活した黒猫は背中をさすりながら僕を見上げる。
「なにすんねん!」
 僕は答えなかった。彼の顔の両隣に手をついて、じっと見下ろす。体温はないし、体重もないし、耳も尻尾もついているし変な足跡も持っているしおおよそ僕とは違った生き物だけれど、雪の中から掻っ攫った瞬間、誓った。
「キミは、僕が人間にする!」
 月光をすべて集めたような眸を瞠ると、猫は逃げ出すことも声を出すことも忘れてぽかーんとしばらく呆けた。

「トンガリ、起き。行くで」
 肩を叩かれて僕は眼を覚ました。頭まで乱暴に掛けられた毛布の中でもぞもぞと動き、寒さと戦いながら頭を出す。壁掛け時計を見上げると針は一時の少し前を示している。今年も繋がったまま新年を迎えるという暴挙を達成できた記憶はあるから、一時間も眠っていない計算だ。これはうたた寝で、毎年恒例のことだから予想通りだ。手加減したこともありウルフウッドはケロッとしている。先程までの情熱さなんかカケラも残していない。眠っている僕を置いてさっさとシャワーに入ってしまったのだろうか。僕は眠たい眼をこすり、大きな欠伸をし、一番暖かいセーターに着替えて出かける準備をした。もうとっくに準備を済ませているウルフウッドと家を出て玄関の鍵を閉め、連れ立って歩く。冷気が顔面を直撃した。
 今年の元日はよく晴れてくれた。空に雲はなく瞬く星がよく見える。流れ星が降ってきたら捕まえられそうだ。お陰で暖かい空気は宇宙へ飛び立ち気温はぐっと低く、僕は両手を口に当てて白い息を吐きかける。いつも仕舞っている場所に手袋がなかったのだ。他に置きそうな場所を捜しても見つからなくって、帰宅したら丹念に家中を調べるか、新しく買い直さないと冬は越せない。
 放っておくと指先がかじかむ寒さだというのに、ウルフウッドが手袋を使うタイミングは気まぐれだ。指先の感覚がないと不便なのだと言う。今も着けていないようで、コートのポケットに両手を突っ込んでいた。僕がぐるぐるに巻いてやったマフラーから口を出し、はぁーっと白い息を吐き出して遊んでいる。鼻が真っ赤に凍っているのだからマフラーにもぐればいいのに。僕はもう一度自分の指を息で温める。
 真夜中の住宅街はいつもなら不気味というかなんとなく背後が気になったりするけれど、今日はどこの家も明かりが点いている。友達で集まっているのか家族の団欒か、笑い声も道路まで零れた。
 僕らが向かっている先は近くの神社だ。歩いて行ける距離だがそれなりに大きく、毎年この日は賑わっている。夜から翌日まで開いているのだから神主さん達は大変だ。
 神社が近づくとさざなみのような話し声が聞こえるようになった。言葉は拾えないのに確かに人の声だと判るのはほっとするものだけれど他に音はないものだから、明かりと共にぼんやりと滲んでいるそこだけ、まるで異世界に繋がっているみたいだと毎年思う。僕らはもうすぐ異世界に入るのだ。
 入り口では甘酒が振る舞われていた。ウルフウッドはそれを無視して神社の敷地に入る。僕は礼だけをして彼の後を追う。
 お賽銭を入れるスペースはかなり拡張されていた。大きなプールみたいな木枠の中に、青いレジャーシートが敷かれている。小銭はもちろんお札もすでに数枚入っていた。僕達は人の波の一番後ろに並んで、途切れない波の一つになる。ウルフウッドは財布を取り出して中身を検めた。
 初詣という元日のイベントは、毎年ウルフウッドが主体で行っている。彼が信心する宗教は違うはずだけれど、八百万の神はどうだとか、この程度で目くじら立てるほど神サンの心は狭くないだろうとか適当なことを言って、このささやかなお祭りを楽しんでいる。彼もこの異世界が好きなのだ。
「トンガリ、ちゃんと小銭用意しとるか」
 小銭入れの中を指で掻き回しながらウルフウッドはそう尋ねてきた。指先で拾っては手の平で握っている。取り出しているのは五円玉ばかりなのだろう、普段はずぼらなくせに、こういうことには細かいのだ。
 僕も自分の財布を開けて中を確認する。
「えっと…………五枚しかない」
「ダアホ。ちゃんと用意せぇって毎年言っとるやろが」
 そう罵るとウルフウッドは僕に四枚の五円玉をくれた。お賽銭の金額に意味があることはウルフウッドに教えてもらった。十円玉は縁を遠ざけてしまうから使うなというのもだ。この日のために僕の分までせっせと五円玉を集めていた姿を想像するとなんだか微笑ましい。それが素直に表情に出ると、なにニヤニヤしとるんや気持ち悪いなどと平気で罵倒してくるけれど、原因はウルフウッド自身なのだ。もう少し言動には注意してもらいたい。それを告げるとピコピコと怒り出すので黙っておくが。
 波が進み、僕らの番が来る直前、ちゃんと住所と名前を告げるんやでと注意が入った。そうしないと神様が誰のお願いか判らないんでしょと返す。ウルフウッドは前を見たまま頷く。これも毎年恒例のやり取りだ。
 小銭がなるべく遠くの方に飛ぶようにぶん投げて手を合わせる。遠くに飛ばす必要はないと過去に指摘されたけれど、一年に一回の、それもおめでたい事柄なのだから勢いを付けたいのだ。小銭が落ちるのを確認してから両手を合わせて、今年も一番大切なことをお願いする。ウルフウッドも隣で真剣に手を合わせる。何をお願いしたのかは毎年互いに言わないけれど、同じ事だったらいいなと思う。
 参拝が終わると次はおみくじだ。迷子にならないようにウルフウッドのコートの裾を掴む。ウルフウッドは迷惑そうに一瞥したが何も言わなかった。
 おみくじ売り場も並んでいるが窓口は多く、巫女さんも慣れた手つきで対応している。僕達の番はすぐにやってきた。僕は念じながら角柱のおみくじ箱を両手でたくさん振った。たくさん振った方が最高の運がやってくる気がする。ウルフウッドはそれに対して片手で適当に振るだけだ。僕が誘わなくても参加したのだから興味はあるはずなのだけれど、多く振ったところで大吉が来るわけではないと、リアリストの彼は考えているのだろう。
 箱を逆さにするとみくじ棒が出てきた。先端の数字を確認する。
「…………十三だ」
「不吉やなぁ」
 ウルフウッドは二十六だ。一見無難な数字に思えるが、これは十三の倍数だ。余裕でいられるのも今のうちだ覚悟して欲しい。
 整理箱に向かい、それぞれ自分の番号のくじを取り出す。僕の結果はなんと言うかまぁ、そのまんまだった。両の口角を下げる。
「新年そうそう凶を引くなんぞ、さすがやな」
 ウルフウッドはいたずらっ子みたいに笑った。僕は頬を膨らませる。
「そういうキミはどうだったんだよ」
「ワイ? ワイはもちろん……」
 そう言ってくじを確認するとウルフウッドは笑顔のまま固まった。僕は首を伸ばして覗きこむ。
「わぁ! お揃いだね」
 くじの上にはでかでかと、僕と同じ文字が書かれてあった。ウルフウッドはフンッとそっぽを向く。
「凶っちぅんは確率が低いんや。せやから逆に縁起がええんやで」
 子供が言い訳しているみたいな態度だったものだから、僕は大いに笑った。ウルフウッドはもう一度鼻を鳴らす。
 整理箱のあたりに新しい人が集まってきた。通行の邪魔にならない位置にずれ、頭をつき合わせてくじの内容を見比べる。
「あ、僕のは待ち人来ずだって」
「なんや、まだ兄貴と決着つかへんのか」
「彼だとは限らないでしょ? キミの方は商売は利益を求めるなだって。わぁ、金運も最悪だね!」
「喧しいっ。んなもんどうとでもしたるわ」
「あ、でも出産のところは安産って書いてあるよ、良かったね!」
「何がや」
 二人とも凶なだけあって、少しずつ内容は違うものの肩を落とすようなことばかりが書いてある。それでも笑い合えるのは、好きな人が隣にいて、一緒に支えてくれると信じられるからだ。
 もうそろそろおみくじの時間は終わりにしようと思ったところで大切な項目に気付いた。僕は顔をパッと明るくする。ウルフウッドはそのことに気付いていたのだろう、複雑そうな顔で僕を見遣る。
 恋愛の項目には、二枚ともまったく同じことが書かれてあったのだ。
『この人となら幸福あり』
 僕は嬉しさのあまり頬が痛くなるほど綻んだ。ウルフウッドはそこには一切触れず、仏頂面で歩き出す。
「ほれ、さっさと結び付けするで」
 彼はとっても恥ずかしがり屋だ。
 おみくじ売り場のすぐちかくにあるみくじ掛は、もう沢山の結び目が出来上がっていた。二本の柱の間に渡した縄はずっしりと重そうだ。おみくじも一枚ならば片手で簡単に丸めることができるけど、これだけ沢山あると迫力があって、確かに神通力だとか人に非ざる力だとかが宿っていそうだ。僕は縄の隙間に自分のを結びながら、悪いところは良くなりますように、ウルフウッドも幸せになりますようにと念じる。
 これが終わると、やることはあと一つだけだ。
「甘酒持ってくるね」
「あぁ」
 僕は跳ねるように入り口に戻って、大きな鍋を掻き回している巫女さんから二人分の紙コップを貰い戻る。ウルフウッドはみくじ掛の近くにはいなかった。邪魔になるからどこか端っこに避けたのだろう。勝手に場所を離れるとき、ウルフウッドはどこへ移動するかを伝えない。意地悪でもいたずらでもましてや試しているのでもなく、僕なら見つけられると信じているのだ。それは正解で、僕は今まで一度も降参したことはない。
 神社には喫煙ルームはないため、ほんの少しだけ難易度が上がる。ここには沢山の人がいて、話し声だらけで、手がかりなんてどこにもない。僕は周囲をぐるりと見渡す。友達同士で来ている人、子供の手を引いている親子、一人で参拝している人、カップル、老夫婦。着物姿の人もいて切れ目なんてどこにもない。ウルフウッドは動いているのか止まっているのかも判らない。しかも黒いコートにボルドーのマフラーだ、風景に溶け込みやすい服装をしている。
 それでも僕は、ピタリと視線を止めた。まっすぐに歩く。
「はい、お待たせ」
「ん」
 太い柱に凭れていたウルフウッドは、さも当然のように受け取った。僕も同じように凭れて甘酒をすする。
 ウルフウッドは甘いものが苦手で、それは甘酒も同様なのだけれど、この日、この時の甘酒だけは飲む。つまらなそうな顔をしているけれど、彼にとってもこの日の甘酒は特別なのだろう。
 飲みながら、湯気の向こうを眺める。ここに来ている人達はみな違う姿で、年齢で、関係で、仕事で、こんなに沢山の人がいるのに、二十四時間三六五日笑っていられる人など、ただの一人もいないのだろう。特に深夜の今は寒くって、耳が真っ赤で鼻が凍っていて呼吸をすると痛い。この寒さを幸せだと感じる人は滅多にいないだろう。
 でもここにいる人達はみんな、笑っている。ぼんやりとした明かりはまるで祝福みたいだ。
 カップに口を付けたまま隣を見遣ると、ウルフウッドはいつもの調子だった。甘酒で口の中が温まり、吐く息がまた白くなっている。鼻が赤いのは少しは解消されただろうか。彼にも祝福の光は落ちている。
 ウルフウッドの方が先に飲み終わり、空になったカップを僕に寄越した。それを受け取って、飲みかけの自分のカップに重ねる。ウルフウッドを盗み見しながら、ちまちまと甘酒を飲む。
「そんなに熱いか?」
 僕が中々飲み進まないのは、熱いのを冷ましているからだと勘違いしているのだ。だから僕はうんと首肯した。盗み見することはやめなかった。
 なるべくゆっくり飲んだけれど、終わりの時間は必ずやってくる。冷えきった甘酒を飲むのは本意ではない。残り僅かになると一気飲みをして、カップの中を空にした。ゴミ箱は甘酒を配布している入り口にある。あとは帰るだけだ。家に帰っても僕達は当然一緒にいるんだけれど、祭りの時間にさよならを告げるのはやっぱり寂しい。
 ウルフウッドは一歩を踏み出した。見慣れた背中は、今にもどこかへ消えてしまいそうだ。家に着いてしまえばそんなの錯覚だと判るのに。肺を満たす空気が冷たい。
「ほれ、さっさと帰るで」
 ウルフウッドは振り向くと、片手を伸ばした。パチクリと瞬きしていると、さっさとしいやと手を奪うように握り、自分のコートのポケットにしまう。そのまま歩き出すものだから、僕はつんのめりそうになる。
 出口へ向かい、鍋を乗せたテーブルに貼り付けられている透明の大きなビニール袋に空になったカップを捨て、来た道を戻り、道路に人気が薄くなってもウルフウッドはずんずん歩く。こちらの歩調などちっとも気にしてくれない。こちらを向く気配のない耳が赤いのは、寒さのせいだけだろうか。
 顔も剥き出しの手も寒いのに、ポケットに収まっている手だけが暖かい。あの場所を離れたのに、まだ異世界にいるみたいだ。
「僕達、恋人同士みたいだねぇ」
「次似たようなこと抜かしたら張っ倒すで」
 これは恋人同士という部分ではなく、みたいという部分に反応したのだ。僕は嬉しくってくすくす笑う。ウルフウッドは悪態をつく。
「来年もこうやって過ごせたらいいねぇ」
「今年が始まったばかりやろうが。鬼が笑うで」
「いいじゃない、みんな笑えばラブ&ピースだよ」
「アホが」
 嬉しくって堪らなくって僕はずっと笑いながら帰路を歩いた。いつもならば近所迷惑になるけれど、今日という晩は特別で、どこの家も楽しそうに夜更かしをしているから叱られることはなかった。なんてったって、今日はおめでたい日なのだ。僕はぎゅっと繋いでいる方の手に力を込める。同じように返ってくる。
 雲一つない満天の空の下、僕達は今年も二人一緒にいる。

 やたらと大きな荷物が家に届いた。
 インターホンの呼び出しに応じ玄関のドアを開けたら、百点満点の営業スマイルを浮かべた宅配のお兄さんが汗を掻きながら、薄いけれど大きなダンボール箱を抱えて両腕をぷるぷると震わせていた。僕はとっさに道を開け、玄関に荷物を置いてもらった。ダンボール箱には大手総合通販会社のロゴが印刷してあった。首を傾げる。サインを求められた受領書には一緒に暮らしているウルフウッドの名前が記されていた。珍しく通販で買い物をしたらしい。それもこんな大荷物。代引きでやや高めな金額だったけれど、休日だから彼はまだ眠っている。仕方なく僕の財布からお金を出して、サインをした。
 ドアを閉めると引きずりながらリビングに運んだ。何を注文したのか正直とても気になるが、勝手に開封したら、彼は口から火を噴いてピコピコと怒る。仕方なく彼が起きるまで放置することにした。テレビ番組が一つ終わった頃にやっと寝室から出てきた。大きな欠伸をすると目尻に涙をこさえて、ティーシャツの裾から手を入れてお腹をボリボリと掻いて、寝癖は跳ねて、だらしない。まだ眠そうに剣呑な目つきをしていたが、荷物が届いたよと指差すと、眼をぱっちりと開いて破顔した。僕にではなくダンボール箱にだ。
 ペン立ての中からカッターナイフを取り出し、厳重に封をしているガムテープを切っていく。僕はテレビの方に体を向けたまま、わくわくと動く背中を観察する。彼が注文したのはテーブルだった。僕は目の前にあるローテーブルに目をやる。
 本当はイス付きのテーブルが良かったのだけれど、寛ぐなら床に座りたいと彼が言うものだから、イス付きはダイニングに置いてもう一つローテーブルを購入したのだ。彼は家の中を飾ることに興味が無いから選んだのは僕だ。木目が残る落ち浮いたブラウンのテーブルで、男の暮らしに中々似合っていると思う。サイズもぴったりだ。ウルフウッドも文句を洩らしたことは一度もない。それに比べて新しく開梱されたテーブルは、同じ木目調だけれどだいぶ明るい色合いで、有り体に言ってしまえば安っぽいとか子供っぽいとか、そんな印象だ。僕は自分で選んだテーブルを睨みつける。絶対にこっちの方が格好いい。
「おら、オンドレも手伝え」
 組み立て前のテーブルの脚で頭を突かれた。
 僕達が馴染んでいたテーブルはウルフウッドが寝室の方へ運んでしまった。僕は渋々新しいテーブルのパーツを広げる。そうして初めて、何故彼がこれを買ったのか気づく。天板の裏には大きな装置。
「こたつだ」
「なんやと思っとったんや」
 僕はこたつとは縁のない生活を送ってきたけれど、ウルフウッドが好きなのは度々聞いていた。そういうことなら、僕のテーブルが負けたことも頷ける。でもそれならそうと、買う前に一度ぐらいは相談して欲しかった。
 僕がテーブルの脚を支えてウルフウッドがドライバーで留める。パーツは少ないからすぐに完成した。延長コードを彼が用意している間に、同梱されていたこたつ布団を僕が広げる。こげ茶色のそれはふかふかとして気持ちよさそうだ。両腕を開いてそこに倒れ込み、柔らかさと暖かさを堪能する。サボるなと背中を何度も蹴られた。めげずに頬ずりすると強く蹴っ飛ばされた。布団を抱き締めたままラグの上を転がる。
 ウルフウッドはコンセントを差すと毛布も設置した。ぽんぽんと叩いて形を整える。我が家にもこたつ文化が到来だ!
 さっそく入ろうとしたら全力で阻止された。物事には順番があるのだと真剣な説教を食らう。唇を尖らせて抗議したが聞く耳持たずだ。
 ウルフウッドはしゃがみこみ、スイッチを片手に布団を持ち上げて中を覗き込む。そこには何もないはずだけれど。
「三、二、一、オラ!」
 スイッチをオンにすると当然中はオレンジ色に光る。ウルフウッドは満足そうに微笑むとこたつの中に足を入れた。
「入ってもええよ」
「子供みたい」
 こたつデビューをしたばかりの両脚は、思いっ切り蹴っ飛ばされた。


 ウルフウッドはこたつ生活を豊かにするために尽力した。
 こたつのシステムでは背中を暖めることはできない。いつの間にか大きな半纏を着てこたつに潜るようになった。自分で服を買うことなど滅多にないあの男が! お揃いで赤い半纏も買ってくれていたので、僕も同じ格好をしてこたつに潜るようになった。
 大きなカゴに盛ったみかんも置かれるようになった。みかんは十キロ入りぐらい箱をまとめて買ったみたいで、部屋の隅にみかん箱が増えていた。僕達はテレビを見ながらひたすら剥いてひたすら食べた。二人揃って指先が黄色くなった。手の平を見せ合って笑う。
 猫はこたつで丸くなると言うが、我が家のウルフウッドもご多分に洩れずだ。家にいるときはこたつの中で生活をする。テレビを見たり、煙草を吸ったり。昼寝をするときは肩まで潜り、僕の伸ばした脚を邪魔だと容赦なく蹴ってくる。我侭だ、横暴だ、と反発するのだけれど、背中を向けて丸くなるので聞き入れられたことはない。僕は不満顔のまま彼の脚と脚の間に自分のを捩じ込んで絡ませる。こうすると少し怒りが和らぐ。そのまま夜中まで眠ってしまいそうなときは流石に体を揺する。
「ウルフウッド、寝るならベッドに行きなよ」
「眠い」
「そうだね。それならベッドの方がいいだろう。ふかふかだし、寝心地いいよ」
「寒い」
「ベッドに入っちゃえば暖かいよ」
「運んでぇな」
「え、お姫様抱っこしていいの?」
「絶対に嫌や」
 それでも起きないウルフウッドをひたすらにつっついて移動させるのが僕の仕事だ。
 僕もうっかりテーブルに突っ伏して寝てしまう日もある。優しさなのか意地悪なのか判らないけれど、ウルフウッドが起こしてくれることはあまりない。でも黒い半纏が肩にかけられているから、きっと優しさなんだと思う。
 こたつが来てからというもの、僕も無精になってしまった。こたつには魔物が住んでいるに違いない。仕事を持ち帰ったはいいけれど、別室にある僕専用のデスクトップパソコンに向かうのはどうしても寒くって嫌で、ウルフウッドのノートパソコンを借りることにした。彼は妙に機械音痴で、パソコンを使うことはあまりない。だからこれも僕が昔使っていたお古だ。動作はだいぶ重いけれど、簡単な作業はもちろんできる。
 コンビニまで酒とつまみを買いに出ていたウルフウッドが戻ってきた。アルコールを摂取する前だというのに鼻歌を奏でて上機嫌だ。それが、パソコンを操作している僕を見た途端に硬直する。
「おかえり」
「オンドレ……なんでワイのそれ使こうてんの」
「デスクトップいじるのには寒くってさぁ」
 ウルフウッドは部屋の入口から動こうとしない。視線を忙しなく動かして所在なさそうにしている。僕は別にいじめるつもりはないんだけれど。
「仕事もうすぐ終わるから、そうしたら返すよ」
「さよか、ほんなら良かったわ」
 テーブルの上に買ってきたものをとりあえず置くがやはり動きはぎこちない。僕は表情を変えない。ウルフウッドは腰を下ろすか逃げるか迷っているみたいだ。僕はどちらでも構わないのだけれど、折角だから捕まえておこう。
「デスクトップにある新規フォルダなんだけどさ」
 腰をかがめたままウルフウッドはビクリと震える。頭の中では逃げ口上を一生懸命考えているのだろう。可哀想だけれど、それらは多分全部、力を持たない。
「こたつの写真ばっかりだね。期待してくれてたの?」
「ち、ちゃう。それは……」
 ウルフウッドの乾いた舌は、その主を助けられるほど滑らかではない。青ざめた顔で頭を左右に振る。
 首を傾げなくなるほど彼は機械に弱い。テレビは叩けば直ると未だに信じているし、便利だからとスマートフォンを勧めたのだけれど、通話ばかりでアプリどころかメールすらあまり使用しない。そもそも面倒くさがりなのだ。そんな彼がパソコンを立ち上げてすることなど限られている。
 少し前の出来事だが、ウルフウッドは見事にパソコンにウイルスを持ち込んだ。もちろんセキュリティ対策ソフトをインストールしていたので事なきを得たのだけれど、いつもと違う画面にウルフウッドは首を傾げて僕に持ってきた。壊れたのかと、それはそれは純粋無垢な表情だった。
 少し調べたらすぐに判った。僕はダウンロードフォルダの中身を小さなサムネイルにして並べて見せた。ウルフウッドは息を止めた。
 僕だって男だ。彼の気持ちは理解できる。そりゃぁ僕という恋人がいたって、如何わしい画像や動画を見たいときもあるだろう。僕はそのことをちっとも責めはしなかった。むしろほとんど触れなかった。こういうのにウイルスにはつきものだから気をつけるようにとセキュリティ面について説教しただけだ。だがウルフウッドは正座した膝の上に強く握った拳を置いて、未成年はまだ買えない雑誌を持っていることについて叱られている中学生みたいに恥辱に耐えていた。ちなみに僕は正座を強要していない。
 それからしばらくは警戒していたらしい。ウイルスではなく僕に対してだ。データをこまめに消したりしていたみたいだが、僕はさして興味ないので探るようなことはしなかった。あれから数ヶ月経ったから、ウルフウッドも気を緩めていたのだろう。僕もただセキュリティチェックをしたかっただけなのだが、こたつに入ってあられもない姿になっている女の子の動画をいくつも見つけてしまったからにはご要望には応えてあげたい。こたつの動画や画像が増えたのは荷物が届いた日以降だ。考えなかったとは言わせない。
 僕は軽く腰を引いて、自分の膝を叩く。
「おいで、キミがして欲しいことをしてあげる」


 少しぐらい駄々をこねるかと思ったが、あっさりと隣に腰を下ろした。こっちと膝に誘導すると大人しくそこに膝を折って座る。もちろん向かい合わせじゃなくて、動画と同じように背中を向けてだ。その辺について言及すると拗ねて逃げてしまうから、無言で抱き締めて、タートルネックの布越しに項へキスを贈る。ウルフウッドは居心地悪そうに身じろぎをする。どの動画が好みか訊いて同じことをしてやろうかとも思ったが、そこまでいじめてしまうとしばらく口を利いてくれなくなる可能性があるので、ノートパソコンは大人しく閉じてこたつの隅にやった。動画はちゃんと確認はしていないけれど、そんなことしなくったってどういうのが好きかぐらい、経験でちゃんと把握している。
 こういうときのウルフウッドは無力、というか本当に子供で、いつもどうすればいいのか判らない、という態度をとる。指示してやればいいんだろうけれど、僕は勝手に先へ進む。
 セーターの裾から両手を入れると、逃げるように上体が動いた。筋肉質だからかウルフウッドの体温は僕よりずっと高い。捲っては寒いだろうとあまり裾が持ち上がらないように気をつけながら手を滑らす。彼の筋肉は密度が高く、猛獣を手懐けているみたいだ。綺麗に割れた腹筋のくぼみを指先でなぞると臍の窪みに引っかかる。そんなところばっかりのんびり撫でていると、ウルフウッドが困惑しきった表情で振り向く。その肩に柔らかく口付ける。
「どうしたの」
 ウルフウッドは答えない。自分でもなんて答えればいいのか判ってないみたいだ。少し浮いた腰を両腕で抱き寄せ、布越しに肩甲骨へ唇を押し当てる。困惑したままウルフウッドは正面に向き直り腰を落とした。そのタイミングに合わせて乳首をつまむとガクンと大きく肩が揺れる。
「い、いきなりすんなアホ」
「いきなりなつもりはないけれど。それより僕が触る前から硬くしてたけど、そんなに期待してた?」
「寒いだけや!」
「あっそ」
 じゃあ暖めてあげるねと指先で強く押し潰す。彼は否定するけれど、痛いぐらいの方が好みなことを知っている。
 流石にこの程度で声を上げたりはしないけれど、息を止めたり深く呼吸をしたりと変化は如実に表れている。やがて落ち着きなく身じろぐようになったので、胸筋から脇へと手の平を滑らし、ゆったりと降りていく。ウルフウッドは背骨と背骨の間を開くように大きく腰を反らした。もっと強い刺激が得られることを彼だって学んでいる。肌とズボンの隙間に指先を差し入れ、それぞれの手をぐるりと半周させた。親指で腰骨の縁をなぞる。
「チャック下ろして」
 ウルフウッドは慎重に息を吐き出しながらベルトを外して言われた通りにした。下着ごと脱がすと折った膝のあたりに布が溜まって窮屈そうになったけれど、まぁいいかとそこで手を離したがウルフウッドはやたらと脚を動かすものだから、子供の着替えを手伝うように片脚ずつ脱がしてやった。緩く充血しているものを片手でゆるゆると扱く。これだけではご不満だろうともう片方の手で袋を揉んでやったら閉じた口からくぐもった喘ぎ声が溢れた。顔が見えない体位なのが悔やまれる。
 芯を持ち始めると指先に力を込め、指圧マッサージでもするように根本から皮膚を強く押して、先端に向けて小刻みに扱く。うーうーと獣みたいに彼は唸る。言いたいことがあるなら言えばいいのに。背中を丸めて、今にも逃げそうな体勢だけど、腰はどっしりと据えていて、離れる気がないことを物語っている。袋を揉んでいた方の手で太腿の内側を撫でる。筋肉質だけれどここだけは少し柔らかい。緊張で彼の脚が強張る。
「腰浮かせて」
 膝に力がこもり、二人の体の間に隙間ができると、肌を伝って最奥を目指す。窪みを辿っているだけなのに、ウルフウッドの口からは堪え切れなかった声が零れた。
 一段とへこんでいるそこに指の腹で円を描く。僕がしているのはそれだけなのに、指を誘い込もうとそれ自体が一つの生き物のように呼吸を始めた。それはウルフウッドも自覚しているようで、腰を落とし始める。僕もそれに逆らわず、押されるがままに指を下げると大きな舌打ちが聞こえた。快楽で少し震えているけれど忌々しそうな声だ。
「オンドレのことを天使だ聖人だ言う人間にこの様を見せてやりたいわ。この性悪が」
「何言ってんの。僕のこんなところを見れるのはキミだけだよ」
 手の平で包んでいた熱が質量を増した。彼のことを天邪鬼だとかひねくれ者だとか言う人間にそんなことはないと見せてやりたいがダメだ。これは僕だけのだ。
 意地悪を続けるのも可哀想なので指を彼の中に潜らせる。まずは一本。強固に閉ざしていた唇は解錠され甘ったるい声が響いた。根本まで収めると何度も頷く。内壁が馴染んできたのを感じるともう一本増やした。僕は何もしていないのに抽送が始まった。ウルフウッドの息が弾む。
「指、なんやからぁ……」
「なんだから?」
「あっちじゃ、でけへんこと、色々、あるやろが」
「こういうのとか?」
 指を曲げると大きく膝が跳ねた。内側を押し広げて、二本の指を大きく開くと甲高い嬌声が上がる。気に入ってくれたみたいだ。
 長らく手持ち無沙汰であったウルフウッドの手もようやく意思を掴んだ。両手とも後ろへ回し、僕の脚だとか腹だとかを指先で叩く。やっとズボンの縁を捕まえるとホックを外しチャックを下ろす。下着の中へ指を入れて僕の先端に触れると驚いたように動きが一瞬止まったが、包み込むようにもっと深くまで手を入れてきた。この体勢では大して気持ちよくはなれないだろうけれど、してくれるというのは純粋に嬉しい。ウルフウッドは生意気なガキ大将みたいに笑う。
「ちぃとも触ってへんのにもうおっ勃てとんのか、変態」
「当たり前だろ。好きな人に触って、感じてくれてるんだから。勃つなって言う方が無理」
 指がぎゅうっと締め付けられた。黒髪に鼻先をうずめる。
 ウルフウッドのイイところをわざと避けて突っついていると、トンガリ、トンガリと督促を戴いた。髪に隠れた耳に唇を寄せる。
「ねぇ、自分で挿れてみせて」
 勢い良く振り向いた顔は赤くって眉尻が下がって戸惑ってて助けを求めていたけれど、それに応えずあっさりと指を引き抜いて、両腕でやんわりと抱き締める。目元に口付けすると観念したのか、大きく震える息を吐き出した。僕は体を後ろへ倒し、両方共後ろ手をつく。
 ちょっと拗ねたのか、やや乱暴な手つきで僕の下着を引っ張って取り出す。二三度扱くと腰を上げ、僕の先端をあてがった。
 ウルフウッドは褐色肌だけれど、日焼けしていない臀部は比較的白い。日頃は粗野な態度をとる彼が、下だけ脱いだ格好で、他の人は知らない肌の白さを晒して、赤黒く滾った僕を自らの意志で飲み込もうとしている。
 これはかなり、視覚的に、クる。
 ウルフウッドが悲鳴を上げた。
「でかくすんなアホ!」
「ごめんごめん」
 言い訳したかったが声が上ずってしまいそうで短く謝るだけにした。飲み込まれるのを眺めながら自分の唇を舐める。これだけで頭の中がチカチカする。
 すべて収めると僕達の腰はぴったりと重なる。両腕で抱き締め背中と胸もくっつけて、項にキスをいくつも贈る。唇にできないのがもどかしい。
 セーターの上から乳首を引っ掻くと全身が跳ねた。緩く首を左右に振る。
「やめぃ!」
「ヤだよ。ぎゅーぎゅー締め付けてきて具合いいんだもん」
「嫌いや、オドレなんかぁ……」
「僕は大好きだけどね」
 グズるのを無視して同じことを繰り返す。アホ、ボケ、変態と子供みたいな罵りが続いたが、そのうち大人しくなった。鼻を啜る彼に、セーターの上からと直に触るのとどっちがいいか尋ねたら、上、とだけツンとした調子で返ってきた。両の指で強くつまむ。彼の体は達するのを堪えるように縮こまる。
 片手を下肢に伸ばし、軽く握って親指で先端を擦る。溢れてくる透明な体液を塗りこむようにしていたが腕を叩かれた。一度動きを止める。
「気持ちいいでしょ?」
「今はいらん」
 再開しようとしたらさっきより強く叩かれた。諦めて今度は腰を掴む。ゆったりと前後に動かすとこっちはお気に召してくれたようで、僕が誘導しなくても自分で円を描くようにし出した。刺激としては物足りないけれど、ウルフウッドの声は甘く鼻にかかっている。腹の奥から湧き上がってくる快楽を噛み締めてるみたいだ。揺らすだけじゃなくて浅く抽送したり、動きを止めたかと思えば自分の意思で締め付けて大きな声を上げたりする。一方的なところもあるけれど、いやいや僕に付き合ってるわけじゃないってのがはっきりして嬉しい。こういうことを繰り返せば床上手になるかもしれないし。色んなプレイに興味を持ってくれるかもしれないし。積極的にサービスしてくれる日がくるかもしれないし。
 ひとしきり遊び終えると、吐く息に甘い嬌声の残滓を残して僕に寄りかかった。お腹の上で組んで待っていた手に自分のを重ねる。
「もう好きにしてええよ」
 指を解き、太腿を撫でて膝の裏を掴む。膝は折っているからこのまま動かすのはちょっと難しい。膝を立たせるように持ち上げると必然的に足先が前に伸びた。軽く突き上げると小さな声と共に親指から小指まですべてが小さく丸まる。
「可愛い」
「なにがや」
 こたつ布団を脚で持ち上げてウルフウッドの足先を中に入れてやる。意味はなさそうだけど折角だし。布団で隠れた途端に僕の脚を蹴飛ばして遊び出す。
 そんな余裕もここまでだ。大きく脚を開かせて揺さぶると、泣いてるみたいな声を上げてされるがままになる。僕の腕に縋り付くだけで精一杯だ。イイところを狙うと形にならない単語で喚く。テーブルの天板が邪魔なのが惜しい。
「こたつ見るたびに今日のこと思い出しそうだね。ねぇ、僕が欲しくなったらまたここでしてくれる?」
 これは意地悪のもつりで言った。もっとグズグズになってしまえばいい。ウルフウッドは僅かにこちらを向いた。眉尻が下がって、涙で眼が赤い。嬌声の合間に口を開閉させる。
「なぁに?」
「ワイが、ワイが欲しゅうなったら……?」
 強い快楽が全身を突き抜け呻く。痛いぐらいだ。まともに喋るのに二呼吸は要した。唇を湿らせる。それでも声が震えるのを抑えられない。
「もちろん幾らでもしてあげるよ。こたつだろうが車の中だろうが外だろうが」
 こくこくと首肯するウルフウッドにキスがしたいと告げる。向けてくれた顔に必死に首を伸ばして応え、舌を差し入れる。僕は煙草を吸わないけれど、どんな味かは知っている。唾液が溢れて顎を濡らした。
 いつもより浅い抽送だけれど僕もウルフウッドも限界が近い。布ごと項に強く噛みつく。
 ウルフウッドが悲鳴を上げて達した。絞りとるような内壁の動きに僕も中に吐き出す。ぎゅっと愛しい体を抱き締めて、背中の熱い体温を感じ取る。骨の髄まで痺れている。これはしばらく収まりそうにない。
 ウルフウッドの手を取り、指を絡めたり撫でていたりしたけれど、僕の上で呼吸を整え始めたから大きく突き上げた。困惑混じりの悲鳴が響く。
「なにすんねん!」
「一回で終わるわけないでしょ。寛がないでよ」
 達したばかりのウルフウッドは自制が効かないようで、いやいやと頭を振るのに僕を締め付けて反応を示している。抱き上げた体をテーブルに載せ、一度引き抜いた。仰向けに転がして再び挿入すると大きな嬌声を出して背中を仰け反らせる。腰を打ち付けるとそのたびに声が弾んだ。
「やっぱりこっちの方が動きやすいね」
 聞こえているのかいないのか判らないがウルフウッドは無抵抗だ。口に腕をあてているけれど、力なんて入ってないから声はちっとも抑えられていない。普段はツンツンして素っ気ないぐらいなのに、こうして僕を受け入れて、しっかり返してくれている。これで虜にならない人間がいるだろうか。似たようなことを相手も想ってくれていることは、本人からすれば不本意だろうけれど、言葉にしていないのに伝わってしまっている。
「大好きだよ、ウルフウッド」
 閉じられていた瞼が薄く開き、黒い眸がこちらを捉えた。この喜びを、表現する方法を僕は知らない。
 いつまでもこの時間が続けばいいと思うけれど、体の方はそうもいかない。一緒に達するとき、ウルフウッドは呆けた顔をしていたのを覚えている。緊張感も警戒心もなくって、僕のことを信頼しきってないと無理な表情だ。
 かけがえのない存在だって、僕は何度でも再確認する。


 お風呂の蛇口を捻って戻ってくると、こたつに潜ったウルフウッドは幼虫みたいに丸くなっていた。あれは拗ねているのだ。傍にしゃがみ、黒髪に口付けを落とす。
「お風呂の準備をしてただけだよ。一人にしてごめんね」
「なんでそんな脳天気な理由やと思えるん?」
 顔を上げるどころかますます丸くなってしまった。汗で濡れた髪を指で梳かしてやる。
「だってピロートークは大切だろう? キスもあんまりできなかったし」
 ちゅっちゅと音を立てて頭に何度もキスをする。唇にできなかった分をこの時間に取り戻したいけれど、こっちを向いてくれないのでもうしばらくお預けだ。代わりに髪に、耳に、頬にと繰り返していたら、一瞥もせずにぺちんと叩かれた。このぐらいは許して欲しい。
「お風呂で体洗ってあげるからさ、機嫌直してよ」
「如何わしい洗い方するからい嫌や」
 心当たりはあるので反論できない。名誉回復に努める必要がありそうだ。できるかどうかは別として。
 腕を伸ばし、こたつ布団の中に隠している手を握る。ぎゅっと強く拳にしていたけれど、指を何度か撫でると力を解いてくれた。広げさせ、指と指を絡める。
「ねぇねぇ、僕が誘わなかったら、キミはどうやって僕を誘い出したの?」
「誘わへんわ」
「嘘だぁ。楽しみにしてたくせに」
 肩のあたりに顔をうずめ頬ずりをする。盛大に頭突きをされた。
「ちぅかなんで終わったあとの方がベタベタすんねん。普通逆やろ」
「えぇー? してるときも僕はベタベタしてるつもりだよ」
「どこがや」
 鬱陶しいと叩いてくる腕を取りキスを繰り返していると、電子音が鳴り、風呂に湯が溜まったことを告げた。ウルフウッドの裾を掴みセーターを脱がす。すんなりと裸になってくれたけれど起き上がってくれる気配はない。両腕を手に取る。
「ほら、一緒にお風呂入ろう。そのままじゃキミだって嫌だろう?」
 ずっとそっぽを向いていた黒目がやっとこちらを向いた。でもすぐに閉じてしまう。素直じゃないというか、強情というか。一種の甘えなのだろうと、好意的に捉えておこう。
 耳に顔を寄せる。
「……足りなかった?」
 ガバッといきなり起き上がったものだから、彼の後頭部が僕の鼻にクリーンヒットした。うずくまる僕を置いてさっさと歩き出す。
「風呂。風呂な、風呂!」
 僕も立ち上がって、鼻を押さえながら後を追いかける。
「ちょっとぉ、逃げなくたっていいじゃない。それにあと一回ぐらいさぁ」
「オンドレは三回目から異様にしぃっつこくなるから嫌や」
 振り向いて憎たらしげに舌を出すウルフウッドに、僕は肩を竦めて一緒にシャワールームに入った。



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