「なんで食べてるの」
 マグカップを持ったまま僕は固まってしまった。この世の物理法則を無視しているような奇妙奇天烈な光景に直面したわけではないのだけれど、目の前で起こっているのはそれに近い状況だった。
 今日は職場でケーキを貰ったのだ。豪華なホールサイズじゃなくって、一切れの小さなチョコレートケーキだ。同僚のミスをフォローしたらほんの気持ちだけどってくれたのだ。それを食べるのを楽しみに、小さな箱を大切に抱えて帰宅した。
 先に帰宅していたウルフウッドは寝間着に着替えて寛いでいた。髪が濡れているからお風呂はもう入ったのだろう。缶ビールのプルトップはもう開封済みで、ぼんやりとテレビを見ている。僕の帰宅に気付くと挨拶というよりは生返事のようなものをした。
 僕はテーブルにケーキをひとまず置いて、キッチンでケトルにお水を注いで火にかけた。小皿とフォークを持ってテーブルに戻る。ケーキを箱から皿に移してお湯が沸くのを待った。
 コーヒーを淹れることが一番多いのだけれど、ケーキならやっぱり紅茶だろうか。ティーバッグだけれどアールグレイがあったはずだ。頃合いを見てウキウキとキッチンに戻る。棚を探すと期待通り紅茶が出てきた。沸騰する前に火を止め、自分のマグカップにお湯を注いだ。ティーバッグを入れてケーキの元へ向かう。
 一番大好きなのはもちろんドーナツだけれど、仕事で疲れた体には甘い物全部が沁みる。チョコレートケーキだって仕事の後のご褒美としてはやっぱり嬉しい。口の中にはもう唾液が出ている。
 鼻歌でも奏でたくなる気分でテーブル前のソファにたどり着き、硬直した。息を止めて同居人を凝視する。慎重に、時間を掛けてだ。でもどれだけ見つめても当たり前ながら彼は彼だった。
「なんで食べてるの」
 何が起こったかはご想像の通り、そういうことなのだ。
 僕は衝撃のあまりマグカップをテーブルに置く余裕すらなかった。つまらなそうにテレビを見ながら勝手にケーキを食べているウルフウッドはぼんやりと僕を見上げたけれど、ケーキにすぐ戻った。一口が大きい彼はもう半分ほど胃袋に収めている。慌てて隣に座って顔を近づける。
「それ僕のなんだけど!」
 抗議なんかちっとも聞こえていないみたいだ。まるでそうしろと誰かに命じられたかのように黙々と食べ続けている。頭でも打ったか宇宙人に体を乗っ取られたのだろうかと、怒りは心配へと変わり、おずおずと顔を覗き込む。彼は相変わらず無表情だ。
「キミ、甘いの嫌いだったよね?」
「コーヒー」
「え?」
 ウルフウッドはマグカップの中身を窺うと興味なさそうに顔を背けた。もう一度同じ言葉を繰り返す。どうせなら紅茶もどうぞ奪ってと、マグカップを目の前に置いてみたけれど眉すら動かさなかった。大仰に溜め息をつく。
「もう、ちゃんと味わって食べてよね」
 諦めて立ち上がると、もう一度お湯を沸かしにキッチンへ戻った。


 ウルフウッドのあれは、不定期に訪れる僕への嫌がらせかと思ったのだけれど、ケーキを食べた以外は至っていつも通りで拍子抜けした。イタズラしやすいように隠れて様子を窺ったのだけれど、のんびりと自分のことをしているだけだった。無意味に足でちょっかいを出してくることもない。なら違う理由で彼は僕のケーキを食べたのだ。
 もしかしてケーキそのものに反応したのだろうかと、ショートケーキを二つお土産として持ち帰ってみた。一つのマグカップに紅茶を淹れて、もう一つにノンカフェインコーヒーを淹れる。声をかけることはしなかったけれど、ケーキを載せたお皿にフォークを添えて置いといたら自動的にウルフウッドが寄ってきた。あからさまにじっと観察するけれど、僕の視線など意に介さず黙って食べ始める。甘いなどと文句も言わない。いつもの退屈そうな顔を見つめる。
 急に味覚が変化するなんてことがあるんだろうか。真っ先に閃いたのは催眠術だけれど、どっかで掛けられたなんて話は聞いていない。他には、と考え一つ思い至る。両膝で頬杖をつき、手を組んでそこに顎を乗せた。深刻な表情を作る。
「もしかしてキミ妊娠した?」
「救急車は自分で呼べや」
 なんとなく優しい口調だったけれど、それ以上は相手にしてくれなかった。
 他のお菓子でも試してみた。まずはミルフィーユ。ショートケーキと同じようにお皿に出して置いといた。ウルフウッドは一瞥はしたけれど、それだけで近寄ってくることはなかった。こちらから促す。
「食べないの」
「食べへんよ」
「なんで」
 テレビから顔をこちらに向けたウルフウッドは、邪魔するなとばかりに眉間に皺が寄っていた。
「んな洒落た食いモンいらんわ」
「洒落てるかなぁ」
 どこのお店でも置いてある種類だと思うんだけれど、とたっぷりのカスタードとサクサクのパイ生地とてっぺんに乗っている赤いイチゴを見下ろしながら呟いた。なんとなくきらきらしているそれは、甘い物に興味のなかったウルフウッドからすれば珍しいのかもしれない。ウルフウッドとミルフィーユの組み合わせはアンバランスで可愛らしいと思うんだけれど。
 仕方なくミルフィーユは二つとも僕が食べた。
 ケーキ以外にも興味を示すだろうかとチャレンジしてみて、成功したのはシュークリームとプリンだ。これはケーキ屋さんじゃなくて市販されているタイプだったけれど、そこにこだわりはないようでテレビを見ながら黙々と食べていた。カスタードを口の端につけているのが可愛くって、隣から指で拭ってそれを咥えたら、犯罪者でも見るような目で引かれた。長いこと一緒に暮らしているのだからいい加減懐いて欲しい。
 妙な反応をしたのはマカロンだった。これも知名度はあると思ったんだけれど、ウルフウッドは初めて見たようだ。
 箱に入っているままだと絶対に食べないだろうと、出して小さなお皿に乗せた。ふんわりとしたパステルカラーは優しい雰囲気で、僕はスマホを持ってきてカメラで撮った。そのシャッター音でマカロンに気付いたのだろう。ウルフウッドは見るなり首を傾げた。僕はゆっくり観察するためにお茶を淹れるフリしてキッチンへ隠れた。そこからひっそりと窺う。
 とりあえず食べ物らしいと認識したウルフウッドはマカロンを睨みつけた。腰を折って鼻を近づける。くんくんと動物みたいに鼻が動くのだから面白い。かすかに甘い匂いがする程度のはずだけれど、未知の物体に好奇心が疼いたのか、ピンク色のをつまんで恐る恐るちょびっとだけかじった。渋みはまったくないはずなのに、苦いものを口にしたように顔の中心に皺を集めてすぐに戻した。テーブルから離れる。マグカップを持って戻った僕は一応ウルフウッドに食べないかと勧めてみようかとも思ったけれど、無視されるに決っているのでやめといた。
 スタンダードな甘い物は食べるってことが判ったけれど、お酒があるときはやっぱりそっちの方が好きらしい。
 今日は自分で酒瓶とグラスとビーフジャーキーを用意して飲んでいた。僕が買ってきた小さなミルクレープを二つに切ってお皿を二人の間に置いたけれど、見向きもしてくれなかった。最後まで食べなかったら自分で食べよう。
 僕もお酒を分けてもらいつつ、フォークでちょっとずつミルクレープを食べる。
「ねぇ。なんで甘い物好きだって気づいたの」
「別に」
 ウルフウッドは牙でジャーキーをちぎり、アルコールを口に含む。
「前に家に帰ったやろ。そんときケーキを仰山持ってったんや」
 家とは彼が育った孤児院のことだ。自分が小さかった頃はあんまりオヤツが食べられなかったため、たくさんお菓子を買って行くことがある。しょっちゅう孤児院に寄るものだから彼の言う前がいつのことなのか判らないけれど頷いて続きを促す。
「人数分買うてったんやけどな、ワイの分がないと判るとちっこい妹が分けてくれたんや、いらん言うたんやけど。したら案外美味くて。なんでやろてしばらく考えとったら、家で食うのは美味いんやなって」
 ガキん頃は食っとったからかな。とビーフジャーキーを咀嚼しながら素朴に呟く。お酒を飲んでいるくせにあまりにも幼い雰囲気だったので顔を覗き込んだ。不愉快そうに眉をしかめられる。
「なんやねん」
「ここで食べるのも美味しい?」
「そう言うたやろが」
 鬱陶しい、という感情を微塵も隠さない声色だったけれど、愛おしくて仕様がなくって頭を撫でた。ウルフウッドは抵抗はしないけれど唇を尖らせる。
「なんやの」
 迷惑そうだけれど満更でもない声だ。わしゃわしゃと撫でるのを続ける。
「なんやのっ」 
 やめもしなければ理由も言わないからちょっと怒ってきた。もう少し続ける。
「なんやのっ!」
 本当に怒ってきた。引き際だろうと腕を下ろし、笑いかけた。
「キミがそう言ってくれて嬉しいなぁって」
 ちょっと照れくさかったけれど素直に告げると、ウルフウッドは僕のせいで髪が乱れたままフンッと鼻を鳴らした。ミルクレープをちらりと見て、グラスに口をつける。
「いちいち大げさや」
 彼の中では、大げさなことではないらしい。


 この日はウルフウッドの方が帰りは少し遅かった。リビングへ続くドアが開かれる音がしたのでおかえりと声をかける。揚げ物をしている油の音に惹かれたウルフウッドは、ネクタイを緩めながらこちらにやってきた。鍋の中とクッキングペーパーを敷いた皿の上を見やる。
「……メシとちゃうやん」
「もうちょっとでできるから待っててね」
 メシはと重ねて訊くのでこの後作るから洗濯機を回してくれと頼んだ。もう一回ぐらい小言を呟かれるかと予想していたけれど、素直に退散してくれた。僕は目の前の揚げ物に集中する。
 ウルフウッドは迷ったようだけれど、ビールとソーセージを冷蔵庫から出した。僕の分はと鍋から離れずに問うと、それがあるやんと素っ気なく返された。
 調理が終わると成果を二つの皿に分けた。もちろん僕の分とウルフウッドの分だ。目の前に置くと案の定嫌な顔をされた。コーヒーを飲むかと訊いたらその顔のまま頷いた。ノンカフェインのを二つ淹れて戻った。ウルフウッドは奇っ怪なものと対峙するように目を細め、皿と目線の高さを合わせている。水槽に入っている蛇を観察している子供みたいだ。
 マグカップを彼の近くへ置いた。
「ただのドーナツだよ。食べなよ」
「なんでチョコかかっとんの」
「そりゃぁバレンタインだからね、今年は忙しくてデートできなかったから」
 ウルフウッドは眉間に皺を寄せ、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「メシの前にオヤツ食うとおばちゃんに叱られるんやで」
「そうだね。でも僕らはもう子供じゃないからね」
 ウルフウッドは手作りのドーナツをつまむと豪快にかじった。肉にかぶりついているみたいだ。咀嚼するうちに眉間の皺は薄れていき、小さく頷く。途中でほっとしたように息を吐いた。
「悪ぅないで」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
 彼が食べる姿を僕は上機嫌に眺めた。
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