・SFパロ台牧
・2013年ぐらいに書いてたっぽい
・あと1万字ぐらい書けば完結したはずなんだけど、途中で休憩しちゃって、今の実力と差がついちゃって、続きを書けなくなったので供養上げ。結末まではストーリーちゃんと考えてた
・推敲してないので文章恥ずかしいことになっている

以上の注意に納得された方のみ続きからどうぞ
 検診室で巨躯の男が待機していた。身の丈十二フィートもあるのは、この研究所で施薬された結果だ。筋肉と骨を常人より発達させ殺戮に適した肉体に仕立て直した。現在開発されている強化兵士の中で一番実用化に近いタイプだ。大抵の銃弾では致命傷を負わすことはできない。
 男は退屈そうに欠伸をした。緑色のモヒカンが男の背をさらに大きいように錯覚させる。
 自動ドアが開きもう一人男が入ってきた。長身だがこちらは常人の範囲内だ。細身の胴は強化男の腕と同じ程度の厚みだ。囚人のようにやたらと大きな手枷足枷を嵌められている。しかし強化男が鼻で嗤ったのはそこではない。
 細身男の頭部には真っ黒な獣の耳が生えていた。脚の後ろからは同色の尻尾が覗いている。殺し合いをするには滑稽すぎる風采だ。
 枷の電子錠が外れ、軽く筋肉を解すように足を振り手首をさする。
「パーティー会場はここじゃねえぜ、ハロウィン野郎」
 強化男のダミ声に嘲りが含まれる。紙を丸める感覚で鉄パイプを歪ませられる肉体に、細身の獣男が傷を負わせられるとは到底思えない。実験ミスで生まれた動物の殺処分が目的だろうか。自らの成果物を保健所代わりに使う暇な研究員のために、片手で頭蓋骨を粉砕するショーを開催してやってもいい。強化男は高揚し、舌舐めずりをする。
 獣男は無言で室内を見渡した。壁も床も天井もいつも通り障害物のない真っ白な空間であること、武器は強化男が背負っている大振りなブーメランだけであることを目視する。
 一瞬だった。
 首を目がけ顎門を大きく開けた獣男が、人では不可能な速さで強化男の眼前に迫っていた。咄嗟に防御した腕に獣男がぶら下がる。人間よりも長く鋭い牙は皮膚を貫き筋肉を穿つ。
 有り得ない光景に強化男は目を剥いた。牙どころかナイフですら裂くことができなくなった皮膚だ。
 雄叫びを上げながら振り払う。獣はあっさりと離れ着地した。獣の風采は噛み付く直前と比べて変化していた。
 確かに人間のものだった手足が、今は尻尾と同じ黒い毛並みで覆われていた。指先から肘、爪先から膝まで変化しているらしく、支給されている衣服をやんわりと膨張させている。爪も獣らしく細く鋭いものに変わっていた。
 強化男の笑みは引き攣り脂汗が滲む。一挙手一投足を見逃さないよう瞬きすら封じ、ブーメランを抜く。構える前に獣の姿が視界から消えた。
 反射的に半歩後ずさり神経を研ぎ澄ませる。自分の体に影が落ちたと気づいたときには遅かった。
 獣はただ跳ねていただけだった。強化男の背を高く越え、伸ばした前足を背中に着地させる。長い鉤爪が筋肉を抉った。大きく開いた口が項に噛み付く。頚椎こそ粉砕できなかったが、体を捻りながら、突き飛ばすように手を離せば肉を引きちぎることができた。足を床に着地させる。
 獣の手と口は赤く汚れ、噴き出した返り血を背と頭髪に浴びる。白かった壁と床も赤く染まった。清潔だった空気は倒れた男と同様に死に、腥羶な空間へと変わり果てた。獣は肉片を吐き捨てる。
 強化男と対峙している間にはほとんどなかった殺気が突如質量を増し、室内を圧迫した。
 四方のうち、唯一強化ガラスが嵌めこまれている壁を睥睨する。獣の眸は強化男と相対したときより強烈な怒りが込められていた。ガラスの奥は様々な測定機器が収められている小部屋に通じ、数字を記録していた測定係が小さな悲鳴を上げる。その後ろに立っている二人の研究員のうち、老年の男は無表情なまま獣を観察し、若い男は祈るような眼差しで睨み返していた。スイッチを握っている若い手が汗ばむ。
 獣は人間にあらざる脚をバネにして跳んだ。ガラスを突き破り、男たちを皆殺しにしようと手を伸ばす。
 しかしその手が届く前に、殺意が込められていた眸は驚いたように見開き、次いで苦痛に歪んだ。空中で勢いを殺すことはできず、泣きそうな測定係の目の前のガラスに派手な音を立てて衝突し床に落ちる。
 獣に苦痛をもたらしたのは、被験者全員に着けられている首輪だ。遠隔操作で動きを封じるほどの激しい電流を走らせることができる。市販されているスタンガンをより強力にした代物だ。被験者が反抗的な行動をとった場合などに、研究員が所持しているスイッチで黙らせる。正規の手続きを踏まず首輪を外した場合、施設から脱走した場合にも自動的に流れる。ここの被験者たちは兵器に限りなく近い兵士として能力開発されているため、このような処置が採用されている。
 痙攣している獣もそのことは学習済みのはずだが、殺そうとする態度は変えなかった。そもそも特殊加工されたこの強化ガラスを、能力開発されているとはいえ一人で壊すことなど不可能だ。獣もそれを悟れないほど低い知能は落ちていない。
 若い研究員――ミッドバレイはスイッチを握ったままデスクに両手を置き消沈した。スイッチはもうオフにしているが電流の影響はまだ残っており、防護服を着た職員たちが枷を嵌め直している。もう幾人は死体の状況をマイク越しに報告し、ボイスライターが自動的に文章化する。
 ミッドバレイが手を置いているデスクには獣の電子カルテが広げられていた。被験者名欄に『ニコラス・D・ウルフウッド』とあり、005とナンバリングされている。
 一番古い日付と共に『狼の細胞を移植』の記載がある。数日に渡って獣の耳と尻尾が生える様子が写真付きで観察されていた。ミッドバレイが二年前に記録したものだ。その後も投薬内容やグラフ化した数値などが細かく並べられている。
 そのグラフの一つを皺が寄った指が撫でた。
「数値は伸びているが、血の巡りは相変わらずのようだな」
 老年の男――チャペルは無感動に呟く。自分が率いるチームの研究対象にも関わらず、何の熱意も憂いもなかった。しかし枷をかけられた獣が職員に首を伸ばし牙を剥くと、声に面白そうなトーンが加わる。
「回復が早くなったな。しかし頚椎は噛み切れなかったか」
 カルテに次の投薬内容を走り書きし検診室を出ていこうとする。ミッドバレイがその投薬量に息を止めた。
「待ってください。これでは筋力に骨が追いつきません」
「なら骨も強化しろ」
「そんな無理をしたらどうなるかぐらい、あなたならお解りになるでしょう。次の検診を受けさせることができるかどうか」
「受けさせろ。実際の戦場ではそんなこと言ってられん」
「実験段階で殺すおつもりですか!」
 退室しかけた足を止め、怒りを耐えているミッドバレイを一瞥し、強化ガラス越しに獣へ視線を移した。人間の身体を獣のパーツで飾った生き物が、抵抗しきれずに台車で運ばれていく。薄っぺらで醜態極まる赤貧劇団の裏側のようで、チャペルは失笑を洩らしながらドアを開けた。
「死んだらまた次を探せばいい」
 白衣の裾が未練なくドアの向こう側に消える。
 徐々に狭くなるドアの隙間を、ミッドバレイは拳を握り、沈黙したまま睨み続けた。


 この星は戦争をしている。兵士たちは日々戦場へ赴き、銃を撃ち、爆弾を落とし、ある者は死体となり、ある者は生存者として基地に帰還する。生存者に安らぎはない。自分が殺した魂を背負い、更に重荷を増やすため新たな武器を手にし再び戦場へと赴く。
 痛みや精神的ショックで動けない兵士には麻薬を与え、クラッカーの紐のような気軽さでトリガーを引かせ、そこから飛び出す紙テープの如くあっさりと敵兵の四肢を宙に舞わせる。
 兵士も国も消耗し疲弊しきっていた。しかし一度振ったサイコロは、地獄の底へ転がり落ちるまで止まることを許さない。国は腕を伸ばし狂乱の叫びで求める。もっと強力な兵器を! もっと強靭な兵士を!
 その狂濤をこの研究所が受け取った。通常の治療では完治不可能な負傷兵を、倫理も人道も人間の尊厳さえも無視し、ヒトとは呼び難い姿になることを代償に完治させ、また戦場へ送った。その兵士は死亡したが、予算の増分申請の書類を国はろくに読みもしないでサインするだけの戦績を残した。
 ミッドバレイもその治療に参加していた。しかし国からはもっとハイクラスなものをと求められ、治療チームは腐敗前の死体をリサイクルする狼男型兵士研究チームに吸収された。量産を目的としているが、保存状態の良い献体が手に入りにくいこと、知能・精神年齢が著しく低下し、生前の記憶をほとんど無くすなどの問題を抱えており、実用化が目前となっている研究よりは予算も人員も少ない。ミッドバレイはそのチームの中で二番目の地位を得ている。
 その彼のサックス演奏を遮った時計のアラームが投薬の時間を知らせた。ミッドバレイはアラームを止め楽器をケースに戻し、いつでも取り出せる位置に畳んでいるストレッチャーを引っ張り出した。フックに個人モバイル端末をぶら下げ、割り振られている個室を出る。正面の飼養室の前でストレッチャーを起こした。
 研究員の寮は別の棟に設けられているが、自らの意思で飼養室正面の倉庫に移動した。研究対象にもしもの事態が生じたときに対応しやすいのと、寮では楽器の演奏を禁じられているのが理由だ。ストレッチャーも毎回持ってくるのは面倒だからと、いくつかの薬品と一緒に部屋に常備している。
 飼養室の鍵を開ける。中には大小様々な檻が四方の壁に沿って並び積まれているが、使用されているのは一つだけだ。一際大きな獣が放つ敵意が大きすぎて他の動物にストレスが溜まり、実験に支障をきたすため、移動しやすい小動物は別の飼養室に隔離されたのだ。他の動物がここに戻ってくるときは、この大きな獣が移動するか死ぬときだ。
 狭い隙間を通り、一番大きな檻の前で膝をつく。鍵を開け不気味な金属音を響かせながら出入口を引いた。中では獣が犬のように丸くなって寝ている。
「ウルフウッド、出てきてくれ」
 呼びかけるが起きる様子はなく、獣の耳もピクリとさえ動かない。慎重に息を吐き、格子を指で叩くとやっと瞼が開かれ億劫そうに睨まれた。
「出てきてくれ。お前だって痛いのは嫌だろう」
 スイッチを見せて脅す。実験を開始してから彼が喋ったことは一度もない。身体のベースは人間のままだ。反抗か、狼の意識が喋るという行為を理解していないのが原因だろう。だが言葉は理解できている様子は数値が証明済みだ。
 職員が無理やり出させようとしたとき、檻の中へ入れた手に噛みつかれ、指が何本か持っていかれたことがあった。それ以降はスイッチを所有しているミッドバレイが連れ出すことになった。瑣末な面倒を見る職員たちは防護服を必ず着用するようになり怯えている。チャペルもスイッチを持っているが好まないらしく、使ったところを見たことはなかった。
 ウルフウッドに関しては実験当初からミッドバレイが直接管理をしているが、良好な関係とは呼べない。
 チャペルの指示を跳ね返し、ウルフウッドにも最初は人間の被験者用の個室を充てていた。本質は狼に近くなっても彼の体は人間であり、尊厳はあるのだと。しかしウルフウッドは常に脱走を試みて室内を破壊しつくした。ミッドバレイの説得は言葉としてすら認識してくれず、修理代へ予算を消費し尽くすわけにもいかないためこの檻に閉じ込められた。
 人間の頃の記憶を思い出してくれないウルフウッドは長い牙を剥き、獣の唸り声を喉に溜める。
「ウルフウッド」
 もう一度呼びかける。祈りと期待と諦念を込めて。獣は大きく顎門を開いた。牙に篭った殺意が強く光る。躊躇いはない。
 目を閉じスイッチを押した。ウルフウッドの牙はミッドバレイにまで届かず痙攣する。罪悪感が両肩にのしかかり溜息が重たくなった。
 毎回痛みがあると解っているのに出てこない理由は、その先にさらに強い痛みがあると知っているからだろう。自然に逆らい、骨を筋肉を内臓を作り変えられるのはどれだけ苦しいだろうか。内部の仕組みを観察するために開腹したこともある。
 ウルフウッドが抵抗できないうちに引きずり出し、ドアの脇に固定していたストレッチャーに乗せ、のちに追加した革ベルトを四肢に巻きつけた。そのまま治療室へ運ぶ。治療室と名付けられているが本当に患部のケアをすることは稀だ。もっぱら行われているのは投薬と経過の観察であり、多数の薬品があることと、被験者に心肺停止などのトラブルが起こった場合にすぐさま対応できる器具が揃っていることからそう呼ばれているだけだ。
 チャペルは今日もいないだろう。あの男の本命研究は別にあるが手が届かない内容のため、腥いことを企んでいるともっぱらの噂だ。真偽の程は定かでないが、顔を出さないのは好都合だ。
 薬品の臭いが充満する治療室に入り明かりをつける。ストレッチャーを中央に置きタイヤを固定した。首輪の電流から解放されたウルフウッドは手足を獣に変え力ずくで拘束を解こうとするが革ベルトは自分の役割に忠実だ。手足の細胞が狼化するのは肘・膝までが限度なのが救いだ。だが壊れてしまう日は近いだろう。新しい対策を考えなければならない。
 電子カルテを開き、チャペルが書き込んだ内容を確認する。投薬量ぐらいは誤魔化してしまいたいが点滴は自動で管理されているため不可能だ。露見すれば審問会議にかけられ、強制状態で同意書にサインさせられ被験者側に回りかねない。薄汚いドブネズミの姿であっても裏側を自由に歩けなくなるのはごめんだ。
 獣の静脈に点滴の針を刺した。投薬量が多い分、血中濃度はあまり高くならないように設定する。薬品が混じった血液はおよそ一分間で全身を巡り、一時的に感覚を麻痺させる。獣の抵抗は時間と共に小さくなり、消え、手足は人間に戻った。殺意が込められていた双眸も今はぼんやりと虚空を見つめている。
 ミッドバレイは点滴終了時間を確認し、ストレッチャーにぶら下げていた鞄を持って奥の狭い機械室に入り内側から鍵を掛ける。補佐の役割が大きい職員には、いつもの処置のみなので来ないでいいと伝えてある。庶務の仕事も負わされている多忙な彼らはまず来ない。
 個人モバイル端末を開く。
 この研究所を強制収容所と同じだと感じるのは研究員も同じだ。機密情報を握っている者に外出許可など簡単におりない。
 戦争が終わればここの研究はすべて悪の扱いに変わる。そのことに誰もが気づいているはずなのだ。人体改造など神への冒涜に他ならない。戦争が終われば汚穢の烙印を焼き付けられ殺処分だ。それでも平気な顔をしているヤツは、どうにかなるさと脳味噌にウジ虫湧かせている楽天家か、脳味噌が腐りきっているマッドサイエンティストぐらいだ。
 ミッドバレイはそのどちらでもなかった。生きて二人でここから逃げ切るのだ。ウルフウッドと再会したあの日から、それだけを願い罪悪感を凌いで生きてきた。
 研究施設では警備システムが稼働している。外敵の侵入を防ぐというのは建前で、内部の人間が逃亡しないように見張っている役割の方が大きい。逃走者を直接目撃したことはないが過去に警報が鳴り、照明が赤色に変じたのを体験したことはある。逃げたのは被験者だったのか研究員だったのかは知らないが、行く末にあまり違いはない。
 警備システムの仕組みを把握するのは何とかできた。あとは一時的でいい、無効化させるだけだ。
 ミッドバレイはキーボードに指を走らせ、個人端末上でシミュレーションを繰り返した。


 男は夢を見た。子供たちの天使の賛美歌がステンドグラスのように教会を彩る。聖書を開き説教をする。ベンチにまばらに腰掛けているのは老人か幼い子供らだけだ。老人らは絶望が重いとばかりに十字架に頭を垂れる。枯れ枝のような細い指を組み、子が孫が生きて帰ることを静謐に祈る。幼子らは父が母が兄が姉が家にいない事由を理解していない。ただ祖父母の木枯らしのような悲しみを悟り、若い枝を同じように組む。餓えた幼子らは司祭服を引き、ねだる。本能的な欲求すら乞うことを躊躇う時代。男はしゃがみ、配給されたひとつのパンをちぎり三人で分ける。男は願う。せめて子供らには愛を、平和を、安らぎを。それらを与えられるだけの力を。
 狼は夢を見た。春の草原を蝶が舞う。黒い毛並みに覆われた肢体で地を力の限り蹴り獲物を追う。息づく獲物に近づく高揚感。兎の喉首に牙を立て、柔らかく温かい生の味を享受する。渇きを池で潤すと疲れが癒え、春の陽光に微睡む。季節は移ろう。雪が積もった深閑としている森。警戒しつつも能天気な鹿をじっと目で追いながら、静かに身を伏せる。己の呼吸音のみの世界。鹿の首がそっぽを向いた途端走る。枯れて凍った木々の間を縫い、脚が沈む雪を蹴散らし、悲鳴を上げて逃げる獲物との距離を詰める。狩りをする楽しみ、生きている実感、この森の覇者だという自覚。狼は願う。いつか己も朽ちたとき、骸は他の動物に食われ、地に崩れ、草となって循環することを。
 夢は途切れ、空白。
 ウルフウッドは目を覚ました。
 天井が高いことからここが檻の中ではないことを知る。見慣れた治療室だ。起き上がろうとして手足を拘束されていることに気付き、腕を獣化させがむしゃらに引っ張った。いつもより力が強い。歯を食いしばり渾身の力を込め続けていると、ブチッと鈍い音と共に革ベルトがちぎれた。鋭利な爪でもう片方の手と両足のベルトも裂き、まだ薬液が残っている点滴の針を乱暴に抜く。辺りを警戒しながらベルトが擦れて赤くなった手首を舐める。
 室内には誰もいない。薬品の臭いが強く、鼻の付け根に皺を寄せる。獣の耳を澄ますと部屋の奥からわずかに人の気配を感じるが歩いている音ではない。眩暈は緩く、本格的な副作用が出るにはまだ時間がある。
 ウルフウッドは脚も獣化させ足音を消し、静かに部屋を出た。
 施設の出口がどこにあるのかは不明だ。人の気配を探るため常に耳をそば立てる。機械が稼働する小さな音の中に、ときおり話し声や足音が交じる。それを避けるように廊下を何度も曲がるが、施設はよほど巨大なのか窓は見当たらない。壁も各部屋へ通じるドアも特徴のない似たような造りで、同じ所を巡回していないかは自分の匂いが残っているか否かだけが頼りだ。それでも獣は進むことをやめなかった。この先に外へと続くドアがあることを信じて。
 ひたすら真っ直ぐな廊下を歩いていると、少し先の部屋から人の気配がした。ドアが開くまであと数秒。全速力で走れば悲鳴が上がる暇なく殺せる。しかし死体を作るのは得策ではないという知性も残っていた。
 人の気配がしない部屋のドアを押す、開いた。転がるように飛び込む。
 そこに、天使がいた。
 薄い緑色の液体が満たされたシリンダーの中で直立するように浮き、眠っている。ウルフウッドは瞬きを忘れ一歩、近づく。
 教会の中で天使は何度も見たが、ここにいるのはそれらよりも強い引力で惹きつける。溶液の中で金色の髪はゆったりと揺蕩い柔らかに輝く。溶液にも細かい鱗粉のようなものが混じっているのか、呼吸するように光を反射し天使を包んでいた。もう一歩、近づく。
 天使はのっぺりとした奇妙な服を着ており、そこから伸びている幾本ものコードが彼も研究対象であることを証明していた。シリンダーの土台部分にも機械が埋め込まれているのか高さがあり見上げる形になる。さらに一歩、近づく。
 天使は夢見るように薄く瞼を開けているが瞬きも身じろぎもしない。これは人形なのだろうか。それでももっと近くで見たいと魂は求め脚が動く。
 シリンダーの正面に立ち、頭一つ分高い位置にある顔を見つめる。無意識のうちに人間の形に戻した両手がガラスの表面に乗ったとき、人形のようだった眸に強い光が灯った。金色の睫毛で丁寧に縁どられた碧色が焦点を絞り、重たげだった瞼が持ち上がる。天使はうたかたの吐息をつき、片手ずつ伸ばして狼のそれに重ねた。絡まった二つの視線は逸れることなく瞬くことなく、さらにその奥を望むように顔を近づけ合う。
 狼は碧色の奥に待ち構えている痛みを予感し胸が迫った。彼も研究対象ならば、身体を切られ、植えつけられ、元の細胞とは全く別の何かに作り変えられるのだろうか。その苦しみを消し去って助けてやりたいと切望した。
 天使は暗色の奥に隠された哀しみが漣のように伝わり溶液に涙を落とした。彼は何に嘆き、堪えているのだろう。何度も奈落で絶え果て見限ることを覚えた中、それでも諦観しきらない光が握られているのを感じ、幸福を与えたいと熱望した。
 ガラス越しに重なった手に互いの体温がわずかながら届く。二人の願いはリンゴが落ちるより純粋に引きつけ合い、口づけを交わすようにゆっくりと顔を寄せた。
 もっと近く、もっと熱く、もっと互いの内側を、その心を、魂を、願いを、祈りを、希望を、悲しみを、苦しみを、痛みを、生を、それら一切を残さず汲みとり全てを分かち合い共に歩きたい。
 ガラスさえなければ、吐息さえも触れ合う距離。
 ウルフウッドの身体は吹っ飛び壁に衝突した。
 肩が激烈に熱く、大振りの杭がそこに突き刺さっていた。座り込んだまま引き抜こうと腕を持ち上げるが、上手く力が入らず肘の高さまでが限界だった。神経を走る痛みに歯を食いしばる。
「嫌ね、ゆっくりと紅茶も飲めないじゃない」
 甲高い靴音を立てながら、白衣を着た人間が大きなトランクを片手に近づいてくる。女の容貌をしているが声は低く骨格も硬い。喉の奥に唸り声を溜めながら睥睨してくる男を威嚇する。
「あの男のペットね。あなたの飼い主は何をやっているのかしら」
 自分の頬に指を当て優雅に呆れる。
 緊迫感とは無縁だった男が唐突に張り詰めた。身じろぎを躊躇うほどの圧迫をウルフウッドも受ける。殺意に至るほど凶暴ではないが、強く純粋な怒りが白衣の男突き抜いた。
 男は振り返り、ウルフウッドが立っていた場所よりさらに奥、シリンダーの内側からガラスに手をついている天使にまで視線を伸ばす。
「……起きたの?」
 シリンダーに接続しているパネルまで足早に歩き素早く操作する。何をしているかウルフウッドは知れないが天使に痛みは伴っていないようだ。狼を見つめたまま焦った様子でガラスを叩いている。
「こっちに集中してちょうだい」
 苛立ちの混じった声は天使に届かず、男は舌打ちをこらえてシリンダーを見上げた。その先の動けぬ狼に溜息をつき、パネルのボタンを押し、顔を近づける。
「犬っころが一匹紛れ込んだの。もう動かなくしてるから運んでちょうだい」
 ほどなくして防護服を着た職員が二名入室した。一瞥すらしない白衣の男に話しかけたのち、ウルフウッドの方へやってくる。
 抵抗はしたくてもできなかった。手足が上がらないどころか唸り声を出すことも睨むこともできない。今までの副作用よりも強力な違和感。弛緩しきった全身からか細い呼吸を洩らすのと眼球を動かすのがやっとだ。
 天使は痛そうに哀しみを抱え、呼ぶ名を持たずにガラスを叩いている。
 手だけでも伸ばしたいが指先さえ動かせず思いを伝えることもできず、ウルフウッドの視界は闇に閉ざされ捉えられた。


 唐突に自由時間を得ることができたが、サックスを演奏する指はいつものように動かなかった。諳んじている曲は無意識でも演奏できるはずだが、音は音符を無視して間延びしメロディーも崩れ、溜息とともに中断してしまう。
 数日前、ウルフウッドが失踪した。ストレッチャーの革ベルトは無惨にちぎれており、薬液の残量から随分前に逃げたのだと知れた。投薬濃度が薄すぎたのか耐性ができたのか判別不能だが問題はそこではない。研究所のスタッフには護身用として小型の銃が配布されている。オモチャのような拳銃なら急所を撃たれない限り簡単には死なない体だが、反撃は間違いなくするだろう。騒ぎが大きくなれば、無事に確保できても廃棄処分の可能性がある。化物を勝手に生み出しておきながら、上官に逆らうような不良品はゴミと見做すのがここだ。
 警報はまだ鳴っていない。施設から出ていないことは確実なのだが捜索範囲が広すぎる。ミッドバレイ以外の人間が傷つけずに捕らえられるとは思えない。誰よりも早く密かに見つける必要があった。
 だが、丸一日経っても見つからなかった。それだけの時間があれば逃走した被験者がいると誰かが騒いでもおかしくないのだが、いつも通りの無表情な日常だ。ミッドバレイは冷静さの奥に冷や汗を滲ませながら適当な報告をでっち上げて狼の不在を誤魔化し、捜索の日々を送った。
 居場所が判明したのはまったくの偶然だった。
 栄養バランスは考えられているが味と盛り付けが不評な食堂でトレーを持って並んでいるとき後ろから声をかけられた。
 女性そのものの顔立ちをした艶やかで優雅な物腰の男、エレンディラだ。
 一度だけ、チャペルと移動をしているときにすれ違ったことがある。チャペルから二、三差し障りのない会話をしただけだったが、割れたガラスの破片を突き付け合っているような剣呑さがあった。
 そして彼は食堂を利用することなどないほど隔たりのある人物だ。自然と身構え、近くの人間も遠巻きに様子を伺っている。呼吸一つが長い。
 エレンディラはハンカチの忘れ物を教えるようにあっさりと、ウルフウッドの居場所を告げた。
「あなたのところの犬っころ、懲罰房に入れといたわよ」
 料理を盛られた皿ごとトレーを放り投げ、地下室へ急いだ。息を切らしながら扉を開けさせると、拘束衣を着せられたウルフウッドが暗闇の中で丸くなって寝ていた。充分な食事も僅かな光も与えられない環境は獣の身体をも憔悴させたようで、肩をつかんでも抵抗しなかった。
 懲罰房の管理人に訊くとウルフウッドは二日間ほど放置されていたらしい。最初は抵抗していたらしく腕や脚には大きな痣があったが、まだ薄くて柔らかく皮膚が引き攣れている肩の傷跡の方が目立った。背中の方にまで傷穴は貫通した形跡から考えると、エレンディラの釘だろう。この傷だけで捕縛されたのならば毒が塗られていた可能性がある。
 この研究所でエレンディラは特別扱いを受けている。幹部の親戚で、一般研究員と同じ狭い寮ではなく瀟洒な調度品の整えられた個室で生活し、身の回りも使用人が世話をしているとの噂だ。味にもこだわった料理人が給仕をしているらしい。真偽のほどは定かでないが、食堂で見かけたことがないのは事実だ。
 七光りなのか成果を残しているのか知らないが、この施設で一番金をかけている研究を任されている。ヒラの研究員が会話することなど滅多にないが、真っ当に生きたければ彼には何があっても歯向かうな、は暗黙の了解だ。
 エレンディラが見つけなければ、ウルフウッドは怪我をした挙句に懲罰房で二日間も放置されなかった。エレンディラが見つけたから、逃走したことは誰にも洩れず騒ぎにならなかった。懲罰房の管理人も彼の噂を熟知していたからこそ黙り続けたいたのだろう。
 彼が見つけたのは幸だったのか不幸だったのか判断つかない。
 途切れた演奏をやり直そうとサックスに口をつけたときノックされた。返事を待たずにドアが開く。思いがけない人物に呆然としていると、エレンディラは不服そうに片眉を上げた。
「暇なの?」
「…………おかげさまでね」
 やっと絞り出せた皮肉だが応えた様子はなく、ドアノブをつかんだまま部屋を出るようにと顎をしゃくられた。
「手伝いなさい」
「何を」
「研究に決まってるでしょ」
 先に部屋を出るエレンディラを慌てて追うと、ドアのすぐ横で背筋を伸ばしたまま腕を組んで待っていた。
「俺はそっちの研究のことは何も知らない」
「あなたの脳みそに期待なんかしてないわ、用があるのは犬っころの方。あとで説明するからとりあえず出しなさい」
 こちらにも事情があると不愉快さを顕にするが、それを受け止めた上で無視された。説明ぐらい先にしてくれと言いかけると、自力で開けるわよと軽くスーツケースを持ち上げられた。
 諦めて、ストレッチャーと鍵を取りに戻ってから飼養室へ入る。
 部屋は薄暗く黴臭く、人が健全な生活を送るのに適さない環境だ。だがウルフウッドはこの環境に順応し、ミッドバレイもこの異常さを時折忘れていることに気づきゾクリとする。ここの生活は幸せどころか一般的ですらない。【まだ連れ出すことはできないがいずれは。/原作からセリフ流用できないかなー?】決意を腹の奥に秘めたまま檻の鍵を開けてしゃがむ。
 懲罰房でのダメージが大きすぎたのか、戻ってきてからもほとんど食べず眠り続けている。しかし目の下の疲弊は黒々と留まったままで癒えていない。無茶な実験をさせるつもりならどう誤魔化すか。
「ウルフウッド、出てきてくれ」
 一度目の呼びかけに反応しないのはいつものことだが、何度呼んでも耳さえ動かなかった。背中は緩やかに上下しているが無理強いはできない。
 ミッドバレイが立ち上がる前に、廊下で待っていたはずのエレンディラがすぐ隣に並んだ。温度も感慨もない眸でウルフウッドを見下ろす。
「天使に会わせてあげるわ」
 ウルフウッドの耳が動き瞼も開いた。威嚇せずただじっとエレンディラを観察する。獣の本能と人間の悟性がチラチラと虹彩に浮かぶ。いくつかの瞬きの後、大人しく自分から出てきた。敵意もまったく漂わせずに立ち上がる。
「何故ウルフウッドが天使のことを知っている」
「会ったからよ」
 部屋を出ていくエレンディラの後をウルフウッドが着いて歩き、ミッドバレイは悩んだが少しでもウルフウッドの殺意を察しやすいように最後尾を歩いた。ウルフウッドはきょろきょろと廊下を確認しながらニオイを嗅いでいる。普段はしない行為だがまだ注意するほどではない。
「あなたは天使のことをどのぐらい知ってるの」
「破壊の天使と呼ばれている開発中の生体兵器。プラントと呼ばれる、物理法則を無視して生産する生体ユニットを軍事開発したもの。核よりも凄まじく、一人で国一つ消せる威力を持つ。開発してから五年間一度も目覚めたことはなかったが、数日前に突然目覚めた」
 ミッドバレイにまで声はかからなかったが地位のある研究員たちは緊急会議に招集され、今後の方針について連日議論を交わしている。ウルフウッドの研究が中断できているのはチャペルも招集されそれどころではないからだ。
「そこまで解っていれば充分じゃない。あと追加することがあるとすれば、個体名はヴァッシュということぐらいよ」
「充分って……」
 足を止めた。この知識は研究所にいる人間なら誰もが知っている程度の内容だ。
 考えるまでもない答えにするすると体温が下がる。
「こいつが起こしたのか?」
「それを確かめるために連れてきたのよ」
 エレンディラは止まることなく一瞥だけする。話の核にいるウルフウッドは内容を聞いていないのか理解していないのか、きょろきょろしているままだ。
 突き当たりにくるとウルフウッドは視線を巡らせることをやめ僅かに顎を持ち上げた。クンッと匂いを確かめるように鼻を鳴らす。エレンディラは勿体ぶるでもなく自動扉を開けた。
 過剰なまでに広い部屋の奥に、天使はいた。
 人工羊水に金色の髪をたゆたわせ、薄く瞼を開いた二十代半ばぐらいの男性。皮膚にまとわりつくようなスーツは、心拍数や脈拍数の計測だけではなくMRIやCT装置の役割も兼ねている高級な代物だ。
 天使が収まっているシリンダーへウルフウッドは駆けた。その姿に向かって無表情のままトランクを構えたため慌てて電流を流す。急に倒れた獣にエレンディラは退屈そうに眉を上げた。ミッドバレイは片手で顔を覆う。
「手荒なことはしないでくれ」
「それはこちらのセリフでしょ」
 エレンディラはコンソールに近づくと椅子に座り、女性のように流線的な脚を組んだ。がらんとした部屋にはそれしか椅子がなく、ミッドバレイは仕方なく隣に佇む。
「天使と呼ばれてるからには小さい女の子だと思ってたんだが、男だったんだな」
「そんなことも知らなかったの?」
「ヒラの研究員が知ってるわけないだろ」
 あまりにも脅威的な生体のため他の研究内容に比べて洩れ聞こえてくる情報は少ない。完全黙秘ではないがミッドバレイが述べた情報が全てだ。エレンディラはそれに関して無知というより興味なさそうに、ふぅんとだけ応えた。
「問題は見た目じゃなくて中身よ。一度はっきりと目を覚ましたのだけれど、また眠りだして元通りなのよ」
 指の背でコツコツと叩かれたモニターには脳波が表示されている。睡眠紡錘波とK複合波が出ている。羊水の中でキラキラと光っている粒子状のマシンが測定を行っているのだろう。
「起きたとき能力を使わなかったのか?」
「使ってたら大騒ぎよ」
「また目覚めたとき、能力を使わないと確信できてるのか?」
 一拍ほどの間を置くと、エレンディラは椅子を回転させ体ごとミッドバレイに向けた。
 赤いマニキュアで彩った細い指を組んだ膝の上に置き、自信に満ちた挑発的な笑みを浮かべる。
「つまり、協力することに反対なのね」
 視線さえも艶かしい。しかし彼が行っているのは誘惑ではなく脅迫だ。
 ミッドバレイは大きな溜息を吐き出しながら両手を上げた。
「死にたくないだけだ」
「大丈夫よ、痛みどころか死んだとすら感じさせずに消せる力だもの」
 懸念点はそこではないが突っかかるほど愚かでもない。何をすればいいと問いかけたところで、エレンディラがモニターに釘付けになっていることに気付く。
 脳波の波形が変わり、覚醒状態を示していた。
 振り向けばウルフウッドがガラスに両手を置いて天使を見上げていた。痛むような眼差しを受けている天使は薄く開いたままの眸に焦点を宿し、うっすらと微笑んでいる。
 あのウルフウッドが大人しくし、天使が目を覚ました。
 絵画と見紛う静謐な情景にミッドバレイは息を止める。
「本当に、あいつが原因なのか……」
 動かない天使に首を傾げながらガラスを叩く姿を呆然を眺める。
 ウルフウッドのどこに反応しているのかは判らないが、上手く利用すればここから出られる鍵になるはずだ。
 期待で手に汗が滲み、喉が渇く。
「壊したら容赦しないわよ」
 構えられたスーツケースの先に、片腕を獣化させたウルフウッドがいた。害意は現れていないが目的は明らかだ。
「ウルフウッド! それを壊したら彼は生きていけない!」
 力の込められた腕はピタリと止まり、ミッドバレイを一瞥した。不満そうな表情だが天使を見上げると大人しく人間の腕に戻す。
 エレンディラはミッドバレイにだけ聞こえる声量で呟く。
「死なないわよ。彼が出てくる意思を持ってないってだけで」
「ああでも言わなきゃ止められなかっただろ」
 温度のない眸でミッドバレイを一瞥し、そうねと椅子に戻った。
「これで目を覚ました理由はほぼ確定したわね。次は具体的な理由を追求するわよ。しばらく犬っころを貸しなさい」
 コンソールに表示される数値を覗き込むエレンディラに、ミッドバレイは視線を逸らすことでイエスと応えた。
「準備ができたら教えなさい」
「判っている」
 今までの記録を読み返しているエレンディラに、ミッドバレイは乱暴に返答した。
 エレンディラの予測通り、天使はウルフウッドを認識すると目が覚めた。ウルフウッドを見せずに彼の血液・毛髪を羊水に混ぜても反応したが、どこにもいないと知ると悲しそうに再び眠った。
 驚いたのは天使にも柔らかな表情らしきものがあることだ。兵器と呼ぶにはあまりにも繊細だ。
 エレンディラはそのことより、天使が指一本動かさないことにピリピリしていた。初めて天使が起きた日は確かに動いていたそうだが、今は脳が起きるだけだ。ウルフウッドも動かない天使にしきりに首を傾げている。だが自分の役割と目的は把握しているらしく檻からは一見従順そうに出てくる。
 しかし、採血や行動の制限などストレスの溜まる状況に変わりはない。なんらかの反抗をする示すことは予想していたが、もう少し忍耐は続くと高を括っていた。
 エレンディラに危害を与えれば天使に会えなくなるという分別はついているようで、ミッドバレイが測定器を付けているとき、牙を剥く代わりに唐突に、逃げ出した。
「待ちなさい!」
 呆気にとられたミッドバレイよりエレンディラの方が早かった。
 スーツケースを構え、廊下に飛び出したウルフウッドに巨大な釘を撃つ。
 釘はウルフウッドの肩を貫き、壁に叩きつけた。貫通した釘は壁にまで食い込んでいるのか、ウルフウッドの両手はしきりに動いているが立てずにいる。
「攻撃する必要はなかっただろ」
「逃げられるとつい撃っちゃうのよね」
 悪びれないエレンディラを置いてウルフウッドを助けようと近づくが、ミッドバレイより先に皺だらけの指が釘を引き抜いた。ずるりと重たい音を立て、赤黒い血が滴る。
「チャペル」
「いつの間にか仲良くなったようだな」
 笑っているようにも憤っているようにも聞こえる口調は、死神の冷たい手のようにミッドバレイの臓腑を撫でた。
 ウルフウッドの研究を中止し天使の研究に使用する報告はしていなかったが、チャペルから何かを問われることはなかった。さらに上の人物から指示は降りていたのだろう。
「あなたがこのエリアに近づくことは禁じられているはずよ」
 エレンディラの氷の声が背後から釘のようにチャペルを射る。腕を組んだ彼はこの上なく冷静な目つきをしているが、抑えきれない怒りが滲み出ている。
「儂はただ、自分の成果物がどう成長したか様子を見に来ただけだ」
 肩を押さえ唸っているウルフウッドに注意を払っている気配はない。ひたひたと肌に纏わりつくように、エレンディラの奥にあるものを探っている。
「さっさと立ち去りなさい」
 エレンディラの屹然さをチャペルから奔出された執念が圧倒しかけるが、不意に凪いだ。
 チャペルは背を向けると小さな足音と共に歩み去る。
 その姿が見えなくなるとミッドバレイは歩くことを思い出し、ウルフウッドに近づいて手を差し伸べた。ウルフウッドはフンッと顔を逸らして一人で立ち上がる。
「怪我をしている彼を見せるデータはまだ取ってなかったわね。丁度いいわ」
 研究室へ戻るエレンディラを、唸りながらウルフウッドは睨みつける。肩を押さえている指の間からは血がまだ溢れている。
「手当をしよう」
 研究室へ戻り、トランクサイズの救急箱を取り出した。ウルフウッドは定位置のように天使の前で胡座をかき、穏やかな眼をしている。
 傷口を刺激しないように鋏で服を切る。血をガーゼで拭うとすでに表面は柔らかな皮膚で塞がっていた。しかし筋肉の回復は追いついていない。動かないようにテーピングする。
「チャペルとあんたには何があったんだ」
「このプロジェクトの初期メンバーよ。と言っても一年ぐらいでチャペルがレムを殺したせいで解散したのだけれどね」
「……殺した?」
「そう。レムはあくまで人を生かすプラントの開発をしたかったのだけれど、チャペルは人を殺す兵器にしたかった。表向きは事故という処理の仕方をしたけれどね。あんな男さっさと処分すればいいのに、使えるからって残すヤツの気がしれないわ」
「チャペルは、まだ天使に未練があるのか?」
「じゃなかったら近づかないはずよ。この子に変なことしないといいんだけど」
 重みのない溜息をついたエレンディラは、コンソールのキーをいくつかつつく。
「怪我をしていても予想通りの反応ね。狼や他の人間の体毛や血液では目覚めず、この犬っころにだけ反応をした。他に理由は見つからないから、当初の仮定を正解にしていいかしらね」
「解ったのか?」
 足早に近づきモニターを覗きこみ、天使の脳波が表情と同じく悲しみを示していることを把握する。そのミッドバレイを、エレンディラは珍しく目を丸くして見上げていた。
「……気づいてなかったの?」
 押し黙っていると、エレンディラは前髪を掻き上げながら、対面し合っている二人の兵器を一瞥した。
「彼が起きたのは、馬鹿馬鹿しいほど原始的な理由」
 エレンディラの視線は二人を通り過ぎ虚空へと向かう。自分の生き方に自信と自負を持っている彼にしては珍しい空っぽの表情。
 ぼんやりした目つきと諦めた口調で、言葉だけは明確に呟く。
「恋よ」
 プツリ、と糸が切れた幻聴とともに靄が晴れた。
 あぁと呻き声に似た独り言を洩らし、自分で持ち込んだ椅子に倒れ込んだ。背中が急速に重たくなり、背もたれに寄りかかるとギチリと歪んだ軋みを立てる。こめかみを親指と中指で押すようにして目を覆い、天井を仰ぐ。
「……なるほど」
「まさか気づいてないとは思わなかったわ。これだから男って」
 言葉が喉まで出かかったが、指の隙間から万感を込めて睨むだけに留める。
 ウルフウッドも感情は持っている、ということはもちろん把握していた。この研究所に来てからの彼は怒り・殺意・反抗ばかりで、人間と等しい複雑さは失われたのだと無意識の内に思っていた。受動的でしかない天使に対してもほぼ同様だ。
 人で在りながら、人で無し同士の恋。
「世界を容易に滅ぼせるほどの力を持っていながら恋に落ちるなんて、破壊の天使の名前が聞いて呆れるわね。終末の唄が聞きたかったのに、人間と大差ないだなんて」
「初めて対面したときの天使は動いていたんだろ? それは何故だ」
「知らないわよ。一目惚れした瞬間にドーパミンが爆発的に増えたからじゃない?」
 あまりにも投げやりで理屈の通らない説明だが、心情は察せられた。理詰めで仮定し検証を重ね、変わらぬデータに肩を落とす。何年も抱え続けてきたその苦しみが、外部から一瞬でぶち壊されたのだ。科学は奇蹟に劣るのだと思い知らされる。
 鼻歌が聞こえた。エレンディラではない。もう少し遠くの方から微かに聞こえてくる。ゆったりとしたリズムに合わせてウルフウッドの頭が揺れていた。途切れ途切れに届く音が繋がり、メロディを作る。
「覚えているのか?」
 ミッドバレイの疑問に頓着せず鼻歌は続く。確かにあの日に演奏した曲だ。
 エレンディラは怪訝そうな顔をしながらモニターを覗きこむ。
「知ってるの?」
「あぁ。これは終わりの唄じゃなくて、始まりの唄なんだ」
 ミッドバレイはこの研究に携わってから初めて、柔らかな笑みを浮かべた。

 目覚めの理由が判明してからも計測は一応続けられた。数値は予想の範囲を超えず天使も起きるだけでやはり動くことはなかったが、ウルフウッドは天使の前から移動せず、時にはガラスに両手を置き顔を近づけ、天使の表情をつぶさに観察していた。
 二人はアイコンタクトで単純な意思疎通が成立していることもデータから読み取れた。ウルフウッドが鼻歌を歌う回数もかなり増えた。
「完ッ全に二人っきりの世界ね。不愉快だわ」
 脚を組み、ぞんざいに頬杖をついたエレンディラは口をへの字に曲げた。
 彼らは毎日無言で顔を付き合わせているだけなのにも関わらず心を通わせ、飽きもせず傍に居続けようとする。睡眠も食事もここで採りたがるようになった。部屋に戻るよう促すと、ウルフウッドは不満気になり、天使は哀願を湛えた。
 あまりにも甘ったるい蜜月に、兵器として育ててきたミッドバレイとエレンディラは呆れるしかない。
 天使を動かすのが次の課題だったがエレンディラはやる気を失い、ミッドバレイにアールヌーボー調のテーブルセットを運ばせた。そこで一人優雅に紅茶やワインを味わうという絵にならない絵が出来上がった。
 実りのない実験を繰り返すミッドバレイを手招きする。
「これあげるわ」
 エレンディラは悪態をつくのと同じ口調で白衣のポケットから取り出した、やたらと白い棒を受け取る。三つの短い骨が関節部分で接着されたものだ。
「何の骨だ?」
「レムの指よ」
 観察していたそれを落としそうになり慌てて両手で包んだ。簡単に折れるわけはないのだが、不安になるほど細く脆い。
「天使に情報を与えたり投薬するときに必要なアクセスキーよ。彼女のDNAがないといじれないようになってるわ」
 エレンディラは指の背でコツコツとコンソールを叩く。憂いと悲哀と疲労と退屈が横顔に滲んでいる。
「私はこの研究を降りるわ。あなたに全部あげる」
「あげるって、そんな容易にできるものじゃないだろう」
「私ならできるわ」
 ミッドバレイが押し黙ると疲労を残したままゆるく微笑む。
「私がこの子を研究していた理由は、この世界を滅ぼしてもらうためよ。それができないと判ったのだもの、もういらないわ」
「できない? 能力に欠陥が見つかったのか?」
「愛する人間がいる世界を壊せると思う?」
 エレンディラは優雅にティーカップに口をつけた。
 ほとんど聞こえないはずの空調の音が鈍く響く。
「あの子の処遇は好きにすればいいわ。現状維持、知識を与える、殺す、シリンダーから出す。まぁ出しても立てないでしょうけれど、生きることは可能よ。与えた知識は言語と能力の使い方のみ。教え甲斐があるって言えばあるわね。もちろん、その骨を壊すって手もあるわ。今のところそれがなければ誰もこの子にアクセスできないから、慌てる連中が出てくるでしょうね」
 手の平の骨は頼りないほど細く、小さく、軽い。目を逸らしながら軽く握った。
「……重いな」
「壊すのは一瞬よ」
 紅茶を飲み干すと組んでいた脚を解き、背筋を伸ばして立ち上がる。
「私たちに別れの握手なんていらないわよね。せいぜい好きになさい」
 にっこり破顔すると足音高く部屋を出て行った。あまりにも呆気なく、後ろ姿はドアに隠れて消える。
「俺に全部押し付けて、逃げたって感じだな」
 同じ室内には脳天気に見つめ合っている人で無しがいるのみで、目眩を堪え切れずエレンディラが座っていた椅子に倒れこんだ。
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