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 今日、あたしの兄は出て行ってしまう。これは最後の準備だ。
 兄の部屋は使っていた家具はそのままなのに、その中身だけがすっぽりとなくなっている。中身はすべてダンボール箱の中に移してしまったからだ。
 本やDVDなどは先に新居に送ってある。今日は残りの服をつめるだけ。『楓』と兄の名前がかかれたダンボール箱に荷物をつめる手伝いをしながら、あたしは寂しさをこらえていた。
 兄がこの家に戻ってくる頻度は、きっと少ない。

「美咲、手伝ってくれてありがとう」
「うん」
 別の箱に別の荷物をつめている兄を見ないようにしながらあたしは頷いた。
 本当は出て行って欲しくない。でも、兄がこの家に住み続けることを選んだら、それはそれであたしはツライ気持ちになるはず。
 だからせめて気持よく送り出せるように、あたしは一つずつ大切に荷物をしまう。
 荷物と一緒に、新居でも幸せに暮らせるように願いを込めて。

「美咲は、おれが結婚することにまだ怒ってる?」
 唐突な言葉に驚いて顔をあげた。兄は、あたしに背を向けたまま梱包作業を進めている。
 兄が結婚報告をした日のことが再生される。刹那、胸がきゅっと締めつけられた。でも、あたしはすぐに笑顔になれた。
 恋した相手が結婚すると聞いて、悲しくないはずがない。でも自分の恋が実ることより、恋した相手が幸せになれる方が、あたしにとっては大事なことだ。
「はじめから怒ってないよ」
 喪失感とともに甦る。木洩れ日のように美しい思い出。
[newpage]
「はじめまして。透子と申します」

 兄が初めて恋人を家に呼んだ日は、どんな日だったかハッキリと覚えていない。でも、その人がまるで絵画のように美しいと感じたことだけは確かだ。
 品良くお辞儀をした兄の恋人の長い髪は、ウェーブがかかっていて艶やかだった。透明感のある肌は名前に相応しいし、声だって女性的。兄には不釣合いなほど美しい女性だ。
 でもあたしは、透子さんに関心は持てなかった。兄の恋人は、あたしにはあまり関係のない存在だと思っていたから。

 小さなころから人見知りの激しかったあたしは、初対面の人からいつも逃げていた。だから透子さんからも逃げようとした。
 でも透子さんの方は違っていて、あたしにたくさんの質問をしてきた。
 あたしが中学三年生であること、今年の夏でバスケ部の活動が終わってしまうこと、好きなテレビ番組、恋愛やおしゃれについて。
 たくさんの質問をされたからその時は正直困っていたのだけれど、兄はなぜかあたしたちを放置して親としゃべっていた。
 透子さんは姉妹がいないからあたしの存在が妹のようで嬉しいのだと言っていた。あたしも姉はいないけれど、あたしは透子さんを姉のようには思えなかった。そもそも姉が欲しいという願望がなかったのだ。だから少し透子さんのことが苦手だった。

 その日は透子さんが初めて来た日にも関わらず、透子さんも一緒に夕食をかこむことになった。
 あたしと兄と父は一緒にテレビを見ていたけれど、透子さんは夕食を作る母の手伝いをしていた。料理がへたなあたしとは違い、透子さんは料理が得意だったらしい。母はやたらと透子さんのことを褒め、一日で気に入ってしまった。普段は料理の感想など漏らさない父も、一言「おいしい」と呟いた。
 透子さんは透き通るようにはにかみ笑んだ。
 あたしが透子さんに抱いた最初の印象はこれだけ。あたしは透子さん自身よりも、放ったらかしにしていた無責任な兄の方に腹が立った。だから彼女が帰ったあとに兄を責めた。あたしのことを放ったらかしにしないでと。

 でも兄は、
「透子なら大丈夫だと思ったから」
 と、全幅の信頼を彼女に寄せていた。兄が妹よりも恋人のことを優先したように感じられて、あたしは静かに怒り続けた。

 だから別の日に、兄としっかりと話し合おうと、兄がお風呂から上がった後に部屋に入った。兄の部屋に入るのは久しぶりだ。
 あたしが小さな頃から兄の部屋は大人っぽい印象があったけれど、今はそれに無機質という雰囲気がプラスされている。兄が大学に入ったあたりから、あたしへの関心が薄くなったように思う。
 十も歳が離れているから、兄が高校生ぐらいのときまではよく可愛がってくれた。でも今はあたしのことをどう思っているのだろう。
 あたしは家具から兄へと視線を移し、力強く眼を見つめた。

「お兄ちゃん、透子さんがあたしに構ってくるのをやめさせてくれないかな?」
「なんで?」
 兄はちっとも動揺した素振りを見せずにタオルを動かしている。その反応がつまらなくて、あたしはわざとぶっきらぼうに言葉を出した。
「あたしが人見知りしやすいの知ってるでしょ」
「なら、それを直すいい機会じゃないか」
 あたしはそれ以上抗議の言葉が思い浮かばなくて、仕方なく兄の部屋を出て行った。
 兄は家族より恋人をとったようで、それが少し悔しかった。

 それからも透子さんは何度か我が家に遊びにきた。透子さんはいつもあたしに構ってくるから、人見知りの激しいあたしはその前に自室に逃げるようにした。
 今になって思えば、そのときのあたしは愚かだ。
 透子さんの印象が一変したのは、透子さんが家に遊びに来るのが当たり前になってきてから。
[newpage]
 その日は両親がそろって出かけていた。だから家にはあたしと兄と透子さんの三人だけ。
 あたしは自室に逃げたかったけれど、事前に兄に止められていた。あたしと透子さんが、不仲とまではいかないけれど、あたしが避けていることが気がかりらしい。兄はどうしてもあたしと透子さんに仲良しになって欲しかったようだ。

 あたしはなるべく関わらないで済むように友達から借りた少女マンガを読んで距離を置く。兄はそんなあたしを少し意識しているみたいだ。兄の声がいつもより大きい。
「ねぇ透子、前に言ってたドーナッツ作ってよ」
「そうね。お台所かりてもいい?」
「美咲、手伝ってやれよ」
 唐突な言葉にあたしは兄を睨みつけた。あたしがお菓子もへたなのは兄も知っているはずだ。
 だけど、兄の言葉よりも柔らかく微笑んでいる透子さんの笑顔に負けてあたしはマンガを閉じた。お菓子作りも苦手なあたしは、自信がないまま透子さんと並んでキッチンに立つ。

「なにをすればいいの?」
「まずは小麦粉か、ホットケーキミックスのある場所を教えて」
 普段から料理の手伝いをしないあたしには、言われた物がどこにあるのかわからなかった。素直にそれを告げると、透子さんは柔らかく笑んで「じゃあ一緒にさがしましょう」と言ってくれた。

 狭いキッチンだから、棚やカゴを調べているとすぐに両方とも見つかった。透子さんの判断でホットケーキミックスを使うことになった。
「じゃぁ、粉と卵と牛乳をボールの中で混ぜて」
 透子さんはあたしに指示をだしながら、ヘアゴムで長い髪を一つにまとめた。白い首筋があらわになる。血管が透けて見えそうなほど白い首筋は、同性のあたしですら見惚れてしまった。

 そして、白い首には似つかわしくない痣を見つけた。
 髪を下ろしているときには見つからない箇所に隠れていた痣は、さっきまで読んでいた少女マンガに出てくる『所有印』というものだろうか。だとしたらそれをつけたのは兄に相違いなく、身近な人から淫靡な香りを感じとってしまい、あたしは顔をそらした。でも透子さんに対して嫌悪感はなかった。

 あたしは指示された通りに、卵や牛乳をボールの中で混ぜあわせた。それを輪っかにしたりお団子にしたりする。
 正直、自分で作るよりも駅前のドーナッツ屋さんで買ってきたほうが、簡単だし美味しい気がした。でも自分で一から作ると少し、女の子らしくなれた気がする。いつも見た目は男の子のようだと言われるからそれは嬉しいことだった。

 あたしがドーナッツの形を作っている間、透子さんは鍋に油を満たして熱していた。
「最初にすこしだけ種を入れて、温度を調べるのよ」
 透子さんはあたしに説明をしながら、種を少しだけ、熱した油の中に落とした。それはすぐに浮かんで小さな泡をまわりに作った。
「こういう反応をしたら種を入れて大丈夫よ。美咲ちゃん、好きなのを入れて」
「うん」

 あたしは自分で輪っかにした種を鍋の中に落とした。
 無造作に入れたせいで熱くなった油がはね、あたしの手にいくつも散った。

「あっつ」
「大丈夫っ?」
 火傷を負ったあたし以上に、透子さんの方が動揺した。あたしの手首をつかむと水道の蛇口を開けて流水を出した。そこにあたしの手を入れる。
「ごめんなさいね。ちゃんとわたしが注意しなかったから」
 透子さんが謝りながらあたしの手を冷やしてくれたけれど、その言葉はちっともあたしの頭の中に入らなかった。
 そのことよりも、透子さんの指に見蕩れていた。


 透子さんの細くて長い指が、とても美しかった。


 まるで植物の蔦のようにしなかやで柔らかな指だった。その蔦があたしの指に絡まってくれていることが、息もできないくらい嬉しかった。嬉しすぎて涙が出そうになる。
 なぜ今までこの指に気がつかなかったのだろう。指輪もはめておらず、マニキュアも塗っていない指は、おしゃれに着飾っている女性たちよりも美しかった。

 その美しい蔦で指先に触れられ、身体が甘く痺れた。
「──ッぁ」
「ごめんね、痛い?」
 それは痛みではなく欲望だった。透子さんの声がもっと聴きたい。もっと触って欲しい。その美しい指で。
 身体の芯がこらえがたいほどの熱を帯びてくる。

 でもその熱は、急速に冷まされた。
「どうかした?」
「わたしの不注意で、美咲ちゃんに火傷させちゃって」
「どれ?」
 騒がしくなったキッチンに気づいて、兄が様子を見に来たのだ。兄の介入により透子さんが離れてしまった。熱かった指先が水道水で冷えてゆく。
 透子さんの代わりに触れた兄の指は、男らしく骨ばっていた。この指も嫌いではないけれど、それ以上の感慨はなかった。

「ちょっと赤いけど、大したことなさそうだな。氷で冷やせば充分だろ」
「……うん」
 名残惜しい時間が終わってしまい、あたしはとても残念だった。兄に渡された氷で赤くなった皮膚を冷やす。
 指先を眺めているあたしに、透子さんは眉尻をさげて心配そうに声をかけてくれた。
「美咲ちゃんは休憩していた方がいいわね」
「いえっ、あたしも作りたいです。ドーナッツ」

 透子さんは気を使ってくれたけれど、あたしは火傷の痛みよりも、もっと一緒にいたい気持ちの方が勝った。迷惑だろうかと不安になったけれど、透子さんの微笑はやっぱり柔らかくて安心した。
「じゃぁ一緒に続きを作りましょう」
 続きはなぜか兄も混ざって三人でドーナッツを揚げることになった。兄が混ざったこと残念だったけれど、できあがったドーナッツの味は駅前のドーナッツ屋さんよりも美味しかった。

 不器用なあたしは、透子さんともっと話しがしたくなったのに、なかなか話しかけられずにいた。そのうち母が帰ってきて、母の勧めで透子さんは泊まることになった。たくさん透子さんを見られることが嬉しかった。
 何度も透子さんと食事をともにしたけれど、今日の夕食は特別だった。箸を持つ指、大きく開かれた唇、耳にかけた髪のどれもがあたしを恍惚とさせた。お風呂上りの姿は、羞恥心で見られなかった。
[newpage]
 夜が更け、自室のベッドに寝転がってからもあたしの胸は甘くつまった。いままで男の子に恋をしたことは何度かあったけれど、こんなにも狂おしくなったことはない。
 あたしは友達に借りた少女マンガのことを思い出し続きを開いた。昨日までは憧れだった主人公の気持ちが、今は自分と重ね合わせることができる。
 透子さんのことを思うと、息もできない。

 マンガを読み進めていると、すすり泣きだろうか。隣室から声が聞こえてきた。隣室は兄の部屋だ。透子さんも同じ部屋で寝る予定だ。
 口論している声は聞こえなかったけれど、もしかしたら静かにケンカをしたのかもしれない。あたしは耳を澄ませて会話を聞き取ろうとする。
「──アァッ」
 その声は、すすり泣きではなかった。

 兄と透子さんは恋人同士で、同じ部屋にいる。
 それならば、この声の正体は。

 マンガの中でしか知らない行為。見えないはずの透子さんの肢体が、あたしの瞼の裏に映る。
 瞼の裏の透子さんは、裸体であたしの身体をまたいで見下ろしていた。蔦のように美しい指先が、あたしの皮膚を撫でる。その跡を追うように、あたしも自分の身体に指を這わせた。
 隣の部屋の透子さんの苦しそうな声がずっとあたしの耳をくすぐる。

 自分が求められているような錯覚を受けて、火傷を負ったときのように身体の芯が熱を帯びた。
 ──透子さん、もっと。もっとその美しい指であたしに触れて。
 瞼の裏の透子さんの指は胸からへそ下まで移動して、さらに移動を続ける。そして美しい指先は、一番敏感な箇所を引っ掻いた。

 足先にまで甘い痺れが貫く。
「んっ」
 自分でも触ったところのない場所だけれど、不思議と怖さはなかった。むしろ瞼の裏の透子さんにもっと触れて欲しいと願った。
 透子さんの美しい指と、白い首筋が鮮明に瞼の裏に映る。

「かえで……」
 隣の部屋の透子さんが兄の名を呼んだ。
 その瞬間、あたしの眼から大きな涙があふれた。
 本物の透子さんに触れられている兄が、本物の透子さんに求められている兄が羨ましかった。
 その美しい指先で兄のどこに触れているの? 白い首筋にはまた兄が痕を残しているの?

 瞼の裏の透子さんの指先とあたしの指が、餓えたように何度も敏感な箇所を引っ掻く。透子さんを求めるたびにその指は濡れ、束の間満たされる。
「と……こ、さん」
 あたしも、透子さんに触れられたい。
[newpage]
 指に火傷を負ったように、その日からあたしの胸も火傷をしたように熱をはらみ、ヒリヒリと痛かった。この痛みを取りのぞく氷は持っていない。

 痛みが増すにつれ、透子さんが遊びに来る日がとても待ち遠しくなった。
 いつ遊びに来るかわからないけれど、兄との会話の断片を聞いて透子さんが好きだというお菓子を常備するように気をつけた。お菓子作りを教えてもらうことも、兄が席を立った瞬間を狙ってお願いした。
 透子さんにとっては些細なことのはずなのに、あたしがしたことすべてに喜んでくれた。あたしにとってそれは、とても幸福なことだった。

「美咲ちゃんは、お菓子作りがとっても上手になったわね」
「本当?」
 それは一緒にシフォンケーキを作っていたときのことだ。写真みたいにふんわりとケーキが焼けてとても嬉しかった。でもそれよりも、透子さんに褒められたことの方が嬉しかったし、少しくすぐったかった。
「今度、美咲ちゃんと、美咲ちゃんのお母さんと、わたしの三人で一緒に料理を作りましょう。きっと楽しいわ」
「うんっ」
 料理に誘ってくれたことが、誰かに自慢したくなった。
 ふとソファの方を見ると、兄はどうやら透子さんと積極的にコミュニケーションをとろうとするあたしに安心してくれたようで、あたしたち二人を笑顔で見守っていた。

 そして約束通り三人で料理をしたときは、母があたしのことを褒めてくれた。
 透子さんが泊まると決まった日は、あたしは期待してしまった。あの日のように声が聞こえてくるのではないかと思うと、それだけで身体の芯が熱をはらんだ。
 隣室から声が聞こえてくると、瞼の裏に映る美しい指があたしの熱に応えて濡れそぼつ。翌朝透子さんの顔を見るのはとても恥ずかしくてできないけれど、夜のできごとがあっても透子さんの透明度はちっとも下がらなかった。
 透子さんのようになりたいかと問われたら、よくわからないと答えていただろう。その気持は今も変わらない。透子さんはいつもあたしを受け入れてくれたから、あたしは自分に劣等感を抱かなかった。こんなにも美しい人が隣にいるのに心地よく過ごせることができたのは、透子さんの魅力の一つだったのだろう。

 でも透子さんの美しさと透明感には、高嶺に生えている一輪の花のように憧れていた。それは、眺めるだけで充分に幸福になれる魔法のようだった。
 あたしのそんな憧れはささやかに降る雪のように、静かだけれどしっかりと積もっていった。もしそれが本当の雪だったら、くっきりと足跡を残せただろう。
 兄から報告があったのは、そのぐらいのときだった。

「みんな、話があるんだ」
 両親とあたしとがそろっているとき、兄は透子さんと手をつないで家族を呼んだ。兄は真面目な顔をしており、母は呼ばれた理由がわかっているのか、なにかを期待しているように眼を輝かせていた。父はいつもと変わらない。
 あたしは呼ばれた理由がわからなかった。
 呼ばれた三人はいつも食事をしている席に座らされたけれど、兄と透子さんは立ったままだ。
 兄は透子さんの手を強く握り、透子さんに微笑んだ。透子さんも優しく微笑み返した。このときの透子さんの笑顔は、いつもより輝いているように感じた。
 そして兄はゆっくりと、だけどしっかりと声を出した。


「僕たち、結婚することに決めました」

 
 兄の言葉が弾丸となって、あたしの胸を貫いた。
 あまりにも強い衝撃でなにもできない。母の歓声だけが遠くに聞こえる。
 透子さんの恥ずかしそうな笑顔が眩しい。
 火傷の痛さより、弾丸の痛さの方が勝る。

 痛みから逃れたくて、あたしは心の中で何度も透子さんの名前を呼んだ。
 透子さんと目が合った。とても嬉しそうな顔をしていた。あたしは、堪えることができなかった。

 不自然さを繕うことができないまま、二階の自室へと走って逃げ込んだ。ドアを閉めたとたん、立っていることができなくなって、ドアに背を当てたままずるずるとくずおれた。
 眼の奥が熱い。弾丸が貫通した穴から血が噴き出す代わりに、眼から涙が溢れ出た。
 透子さんと兄が結婚することは意外でもなんでもなかった。なのになぜかあたしは、このままの関係がずっと続くと信じて疑わなかった。

 自分の気持を伝えたいと思ったことは一度もない。触って欲しいと願い続けるだけで、このままでいてくれればそれで充分だった。
 ただ、兄と透子さんは今の平穏を確実にしただけのこと。それはわかっているのに涙が止まらない。

「美咲ちゃん」
 ドアが優しくノックされ、心配そうな声が届いた。あたしの胸がきゅっと締めつけられる。
「美咲ちゃんは、あたしと楓さんが結婚するのに反対?」
 声が出ないあたしは代わりに首を左右に振って答えた。でももちろん、ドアの向こうにいる透子さんには伝わらない。

 透子さんの声は、とっても悲しそうで、それが弾丸と火傷と両方の傷の痛みを強くする。痛みを堪えるために、胸元の服を強く握った。
「美咲ちゃんにとっては、お兄さんをわたしに取られるようで嫌かもしれないけれど、でも、わたしなりに楓さんのことを、幸せにしたいの。それはわかって」

 違う。違うんです。
 透子さんのことを困らせたいわけじゃないのに、どうしてもその一言が出ない。
「でもね、わたしは美咲ちゃんのことも好きだから、美咲ちゃんに結婚していいって許可が欲しいの。だから、それまで待っているわ」

 あたしは震える脚に力を入れて立ち上がった。透子さんが立ち去ってしまう前に伝えないと、絶対に後悔をする。
 涙で汚れた顔のままドアを開けた。その先では、いつも笑顔しか見たことのない透子さんの表情が悲しそうにゆがんでいた。あたしがこんな表情にさせてしまったのだと思うと、罪悪感で苦しくなる。

「違うんです」
 掠れた声でそれを伝えるのがやっとだった。涙で喉が押しつぶされてそれ以上の声がでない。両手で自分の顔を覆い隠した。

 そんなどうしようもあたしを、透子さんは優しく抱きしめてくれた。
 息が止まる。

「わたしは美咲ちゃんのことも楓さんのことも、同じぐらい大好きよ」
 熱い涙があふれた。
 透子さんが抱き締めらてくれた。それだけでもう充分だった。これ以上なにかを望んだら、きっと罰が当たってしまう。
 透子さんの胸の中で泣きながら、胸に空いた弾丸の跡も火傷の痛みも、癒えてゆくのを自覚した。
[newpage]
 しばらく泣いたら落ち着いて、ちゃんと喋られるようになってから、二人におめでとうの言葉を伝えた。兄は苦笑していたけれど、透子さんはふんわりと微笑んでくれた。
「でも一つだけ、お願いがあるんです」
 あたしの申し出に二人は首をかしげた。あたしは自分の組んだ指に力と勇気を込める。
「透子さんのこと、お姉ちゃんじゃなくて今までと同じように名前で呼びたいんです。だめですか?」
 二人が結婚したら、透子さんとの関係は義姉と義妹になってしまう。それは今より距離が空いてしまうような気がして嫌だった。あたしの願いは意味がないかもしれないけれど、あたしの気持ちを整理するには、これが一番の解決方法だったのだ。
 このお願いにも透子さんは笑顔で快諾してくれた。
「ええ、もちろんよ」

 ただ兄の方は不安が残っていたらしく、その日の夜にあたしの部屋にやってきた。兄は少し怒っているように見える真面目な顔で問いかけてきた。
「美咲は本当に、俺たちが結婚していいと思ってる?」
「うん。だからおめでとうって言ったんだよ」
 あたしは兄を安心させるために笑顔を浮かべたけれど、兄は怖い顔を崩さなかった。
「美咲は、俺のことどう思ってる?」
「どうって……」

 兄はどこまで気がついているのだろう。
 透子さんへの憧れは強かったけれど、兄をライバルだと思ったことはなかった。羨ましい存在ではあったけれど、あたしがその位置に収まりたいと願わなかったからだろう。
 あたしにとって兄とは。
 考えるために視線を巡らせる。そしてピタリと、兄の目へ行き着いた。

「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだよ」
 あたしにとって兄とは、大切な家族だった。だから、この結婚で幸せになって欲しい。
 二人の結婚が確定してからも透子さんは何度も遊びに来てくれた。ときには一緒に結婚情報誌を眺めて、透子さんが着るであろうウェディングドレスに夢をはせた。透子さんは兄にするように、あたしのことも大切にしてくれた。
 両家顔合わせの食事会で初めて透子さんの両親に会った。透子さんはお母さん似のようだ。
 すべての時がきらきらと煌きながら甦る、大切な思い出。
[newpage]
 あたしは兄の最後の荷物を段ボール箱につめ終えると、ガムテープでしっかりと封をした。
 今日兄は家を出て行く。新居はこの家から片道三時間。日帰りできない距離ではないけれど、兄が透子さんを連れてこの家に遊びにくるのは難しい。
 もうきっと、年に数回しか会えない。寂しいけれど、でもそれが透子さんにとって良い選択なのだ。
 まだ作業をしている兄の背中を見つめる。透子さんが選んだ、世界で一番幸せな人。

「お兄ちゃん、ちゃんと透子さんのことを幸せにしてあげてよ」
「当たり前じゃないか。お前に心配されるまでもないよ」
 兄が約束をしてくれたから大丈夫。二人は幸せに暮らせるはず。
 あたしはもう使われる予定のないベッドへ顔を向けた。そこで寝ていた透子さんはきっと幸せそうな寝顔を浮かべていたのだろう。兄だけが見られる、特別な顔。

 ピンポーン。
 間延びしたチャイムが聞こえ顔をあげた。部屋の時計を確認するともう約束の時間だ。
「あたしが出る」
 兄に先をこされないよう慌てて立ち上がる。
 次に会うのはきっと結婚式。そのときの花嫁さんは一番美しい人。
 あたしは玄関のドアを勢いよく開けた。眩しい光とともに、優しい笑顔が視界に飛び込んでくる。

 それは──、
「いらっしゃい」
 この世界で一番大好きな、あなた。
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