学校のグラウンドで、イルカがジャンプをした。
 バーを睨んでいるのは体操着姿の女生徒だ。体操着は青色――三年生なのだろう。
 力強く地を蹴りバーへ迫る。伸びた背筋、真っ直ぐな指、流れる前髪。その女生徒はバーに肉薄する直前、脚をバネへ変えて高く跳んだ。背面跳び。
 青い空の中で、しなった背中が美しく映える。小学生のときに初めて見たイルカのジャンプのようだ。
 近くのプールから塩素の匂いが漂い、水を彷彿とさせる。
 千苗は小学生に戻り、口を大きく開けたマヌケな表情になった。女生徒が背中からマットに着地した音で我に返る。呆けたせいでずれたメガネの位置を直した。その途端、屋外で部活をしている雑音がよみがえる。
 走高跳に成功した女生徒はマットから上体を起こした。胸につけているゼッケンで神崎という名前なのだと判る。一直線に視線を送っていた千苗に首を傾げた。
「一年生? 見学?」
 筋肉とは無縁な骨の硬さが目立つ千苗に対し、神崎は陸上部らしく引き締まった健康的な体をしていた。憧れの体格に話しかけられると赤面し、目を逸らしてしまう。
「は、はい一年です。でも見学じゃなくて、たまたま見てて、キレイだなって」
「キレイ? あたしが」
 神崎の声には自嘲が含まれていたが、はい! と大きな返事をした。そのままの勢いで深く腰を折り謝る。
「初対面で、いきなりすみません」
「初対面とかは気にしないけど、意見は違うと思う。キレイって言うなら短距離の水森さん、イケメンなら高城くんだよ」
 マットに座ったまま神崎はトラックの方を眺めた。あれが短距離走の選手なのだろう、何名かの生徒がタイムを測っていた。水森のゼッケンもある。ポニーテールが似合っている華やかな顔だ。だが千苗は首を左右に振った。
「違うんです。先輩のジャンプはイルカみたいにしなやかで、映画っていうか、写真っていうか、とにかくスゴイなって!」
「そんな風に言ってくれたの、初めてだよ」
 陰りのある声は千苗にとって冷水になった。もう一度謝ろうとしたが神崎はすぐに笑顔になった。
「あなたは跳ばないの?」
 自分のつむじを見るように目線を上げ、頭を撫でる。
「背が小さくてガリガリだから運動とか苦手で。見るのは大好きなんですけど」
 神崎は正面に立ち見下ろした。かすかに汗と土の匂いがする。千苗の頭の前で手を横にして高さを計った。目の位置ぐらいだ。
「一五〇センチぐらい?」
「に、ちょっと足りないです。一四八センチ」
 ふーんと呟くと、神崎は先ほど跳んだバーを振り返った。
「あれは一四五センチ。次の一五〇が越えられないんだよね」
 声は爽やかだったが、バーを見つめたまま痛そうに眉根を寄せた。
「もとは短距離だから、ジャンプ力がなくて」
 イルカの姿とは結びつかない弱々しい姿。
 千苗は背伸びをしてほんの少しだけ近づいた。
「じゃああの、応援、とかしに来ていいですか」
 戸惑った神崎はトラックの方を伺った。水森と一瞬だけ目が合うが互いにすぐに逸らした。
「えっと、金曜の放課後練習だけなら大丈夫。自由練習なんだ」
「判りました。じゃぁ金曜日に来ますね」
 眉尻を下げた笑顔に、千苗は首を傾げた。


 千苗は図書室で本を数冊抱えたまま他の本も物色していた。書名にはすべて『走高跳』と入っている。抱えている数冊を借りてグラウンドを目指した。
 神崎はすでにグラウンドに来ていた。だがマットの上でバーを背中に敷いたまま、青空を眺めていた。うっすらと滲んだ汗が太陽を反射している。
 千苗は駆け寄ると、驚かせるため勢いを殺さずに真正面から覗き込んだ。
「先輩! 休憩している場合じゃないでしょっ!」
「わぁ。千苗ちゃんは今日も元気だねぇ」
 神崎は大して驚かなかったのかくすくすと笑った。緊張感のない態度に、千苗は腰に両手を当ててお母さんのようになる。
「大会、来週じゃないですか。一五〇センチの壁越えましょうよ」
 運動部といえば厳しい練習のイメージが強かったのだが陸上部は緩やかだった。金曜日は自由練習と称して顧問はほとんど顔を出さない。走高跳は神崎以外に選手がおらず、常に自分で準備をし、一人で跳ぶだけになっている。そんな状況で、制服姿の千苗が見学をしたり片付けを手伝うのは目立っていた。神崎も戸惑いながら短距離の選手たちへ逃げるように視線を送ることが多々あったが、回数を重ねるにつれて視線は減り、曇りのない笑顔を千苗に向けるようになった。
 のんびりとした環境に千苗もくつろいでいたが、先週の帰り際に地区大会があると聞いて背筋を伸ばした。どうしてそんな重要なことを黙っていたのかと怒ったのだが、うちの陸上は弱いから誰も期待してないよ、と苦笑された。だが負けたくはないと千苗は闘志を燃やす。
「図書室で借りてきました。このページとか参考になると思います。一緒にあがきましょう」
 本を受け取ると、神崎はうつ伏せで教本の文字を指でたどる。雑誌を読むような気軽さだが、脚が時折動いていた。
「足は四十五度、上へ行くようへ……」
「できそうですか?」
「読むだけじゃね。やってみないと」
 マットから降りると軽く屈伸をし、千苗がバーを設置し直す。真剣な目付きでスタート地点に立った。
 助走から踏み切り、ジャンプ。
 青い空を泳ぐ姿は、千苗も跳んでいるのだと何度も錯覚させた。夏の暑さも喧騒も止む。
 息まで詰まったが、バーが滑る音で洩れた。かかとが引っかかったぁ、と間延びした声が宙に浮く。マットに近づき、再現するように千苗は片足を持ち上げた。
「でも後もうちょっとでしたよ。足が、あと数センチこう」
「パンツ見えちゃうよ」
 指摘され慌ててスカートを両手で押さえた。神崎の高い笑い声が響く。イルカの姿はいつでも小学生に戻した。
 顔を赤らめてプリーツを整えていると手招きされた。緩やかな風が吹く。近づき、寝転んでいる姿を見下ろした。
「大会、応援に来てね」
「もちろん行きますよ。そして跳んでください、私の身長」
「うん!」
 神崎の笑顔が太陽のように輝いた。


 地区大会は土曜日に行われた。そのため保護者の姿も多く見受けられたがグラウンド内に入れる雰囲気ではなく、遠巻きに応援していた。複数の競技が同時に行われているため雑然としている。千苗はグラウンドの縁を歩きながら走高跳の場所を見つけた。緊張気味の神崎と目が合い、両手を上げてジャンプする。笑顔で手を振り返してくれた。
 神崎の順番が来て身軽にバーを跳んだ。姿は小さかったが、やはり息が詰まる。マットから起き上がった神崎は安堵の表情で近づいてきた。
「今の一四五センチ。次が一五〇だよ」
 学校で見るときよりも自信に満ちた笑顔につられ、千苗の両手に力が入った。気合を渡すように神崎の手を握る。
「先輩なら跳べます! ここから応援してますから、格好いい姿見せてください」
「ありがと。今日はすごく調子がいいの。期待していいよ」
 強く手を握り返され頷いた。
 「次のジャンプまで時間があるから他のも見てきなよ。放送かかったら戻ってきてね」
 手を振り、日陰へ避難した神崎を見送ってから千苗は歩き出した。陸上部で他に馴染みのある生徒はいないが、見慣れた体操着を見かけるたびに胸が熱くなった。グラウンドを覗き込み知らない生徒にも声援を送る。
 トラックを一周するころ、女子の走高跳の放送がかかった。小走りで先ほどの場所まで戻る。手を祈りの形に握って姿を捜すが、数人の女生徒が列をなしている中にはいなかった。日陰にもいない。一人目が跳び始めている。
 放送がかかってすぐに来たつもりだがもう跳んだ後なのか。だとしたらどこにいるのか。焦り始めたころ、苦味のある声に呼ばれた。
「千苗さん?」
 短距離走に参加している水森だった。不機嫌そうに顔を歪め、しかしどこかバツが悪そうに目線を逸らしている。
「伝言。神崎は棄権したわ。部で帰んなきゃいけないから、先に帰ってって」
「キケン?」
 じゃあ、と立ち去ろうとする背中を慌てて呼び止めた。睥睨される。
「棄権って、なんでですか」
「足をひねったのよ。ストレッチ中に」
 そんな。と呼吸のように小さな言葉がこぼれたが、それは誰にも届かなかった。
 水森が去り、自分の手を見る。観客も選手も大勢いるのに孤独だった。
 一番悔しいのは本人のはずだ。そう思うのに、蝉の声が煩わしい。


 神崎とは週が明けてからも会うことはなかった。金曜の部活動以外で会う習慣がなく、千苗の方からクラスへ行くのも躊躇われ、結局金曜の放課後まで待った。いないかもしれない不安を抱きながらグラウンドへ走る。
 いつもの場所に走高跳の準備はされてあったが、誰もいなかった。代わりにトラックの方に人が集まっている。
 首を傾げながら千苗も群れの端に並ぶと、眼前を突風が駆け抜けた。
「えっ」
 声がこぼれたときには、水森が遅れてゴールをしていた。野次馬たちがまばらに拍手をしている。やっぱり神崎には勝てないよな。の言葉を拾い、突風が抜けた方へ顔を向けた。肩で息をしながら神崎が笑っている。
「あたしの勝ち。罰ゲームよろしく」
 同じように息を荒くしている水森は憎悪に近い剣呑さだったが、黙って言葉の続きを促していた。神崎は右腕をまっすぐ伸ばす。
「あれ、一五〇センチに高さ合わせてちょうだい」
「……それだけ?」
 訝しげな様子に、一人でやるの大変なんだよ、と軽く答えた。早足で走高跳の場所へ向かう水森の背を追いながら、千苗の向かって片手を上げる。
「先週はゴメン。せっかく来てくれたのに」
「いえ、それより足は大丈夫なんですか」
「さっきの見たでしょ」
 爽やかに答えると、バーの高さを変えている水森に視線を移した。わざとらしく、いたずらっ子のような含みのある笑みを浮かべる。
「まぁ、ひねっちゃったときはへこんだけどね」
「あれは私のせいじゃないでしょ!」
 バーが不要なほど強く設置され、鈍い音が響いた。水森と神崎のにらみ合いを鼓膜が捉えたようだ。三人とも動かなかったが、神崎が最初に視線を外した。
「そう、水森さんのせいじゃないよ。だってそうする理由がないもの」
 神崎は準備体操の要領で足首を回す。
「あたしは高城くんに告白されたけれど断った。そんな人のこと、恨まないでしょ」
 停滞した沈黙に千苗は動けなかった。そろりと視線だけで水森を伺うだけで精一杯だ。
「できたから」
 水森の呟きが水泳部の声に紛れた。そしてトラックに戻っていく。風が吹き、やっと停滞が飛ばされたがどうすればいいのか佇むだけだ。
「あたしね、走高跳、すごくつまらなかったの」
 弾かれたように顔を上げた。神崎の声は寂しそうだったが、穏やかに短距離走を眺めている。
「もう部活もほとんど終わりってときに種目変えたし、下手だし。だからね、イルカみたいって、すっごく嬉しかったよ」
 風に乗って塩素の匂いも届いてきた。胸が苦しくなる。
「三年の部活はね、今日が最後なんだ。だから、一五〇センチ越えのチャレンジは今日だけ」
 頭をくしゃっと撫でられ、こらえた。鼻の奥が痛い。
「会えなくなるわけじゃないんだからそんな顔しないでよ。とびっきりのジャンプ見せてあげるからさ」
「……はい」
 両肩を押されバーの真横に立った。二センチだけバーの方が高い。
「そこ、特等席」
 神崎はスタート地点に立った。しなやかな体を目に焼きつけようと、ぎゅっと拳を握る。
 早い助走、強い踏み切り、上へ行くようへ、踵を浮かせて。
 細かな汗が舞い、バーを越えた。
 青空を泳ぐイルカの姿は、見てきた中で一番美しかった。
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