「なんでよっ!」
 お姉ちゃんの声であたしは産まれた。昨日もおとといもお姉ちゃんは怒っていたけれど、産まれたのは今日がはじめて。
 居間にふたつの人影。ひとつはお姉ちゃん。長い髪と着物姿だっていうのが影だけでもわかる。もうひとつは旦那さん。こっちはワイシャツと眼鏡をかけた姿で見下ろしている。
 悲しくてつらいお姉ちゃんは非力なこぶしでぽこぽこ叩く。旦那さんは困った顔をするだけで、労るつもりはまったくなさそう。あぁ、腹立たしい。
「どうしてよっ……どうしてぇっ!」
 必死で泣き叫んでいるのに、ぼそぼそと何か応えるだけ。旦那さんは、お嫁さんを守るためにいるんじゃないの?
 あたしも加勢して、ぽこぽこぽこぽこ殴りたい。
 旦那さんは両肩をつかんで説得しようとする。違うの、お姉ちゃんがほしいのはそんな言葉じゃないのよ。
 お姉ちゃんは大きな涙をぽろぽろ落とす。
「奪わないでよ、私の赤ちゃん……とらないでよっ!」
 とっても辛そう。あたしが守ってあげなきゃ。世界中のみんなからあたしが、あたしが。


 あたしはお姉ちゃんの刺しゅうをしている姿が大好き。あかーい糸、あかーい糸、きいろーい糸、みどりーの糸。床の上に寝そべりながら、お姉ちゃんの手の中で咲きはじめる花の刺しゅうを眺める。針が動くのに合わせてあたしの首も動く。あかーい糸、あかーい糸、いつまでも飽きないでいられる。
 お姉ちゃんは妊娠していて、お腹がとってもおおきい。両腕をめいいっぱい伸ばして抱きしめても、右手と左手の指はくっつかない。たぶん、西瓜がみっつぐらい入る大きさ。普通のお洋服じゃ入らないから、お相撲さんが着るようなおおきな浴衣を羽織ってる。でも、あんな可愛くない柄じゃないのよ。白地に藤のお花がかかれてる布で、お姉ちゃんの手作り。刺しゅうだけじゃなくて服をつくるのも得意なの。じまんのお姉ちゃん。
「あら?」
 お裁縫箱にのばされた指がとまった。中をのぞくと、あかい糸、きいろい糸、みどりの糸、あおい糸はあるのに、ももいろの糸だけがなくなっていた。これじゃ新しいお花を咲かすことができない。
 お姉ちゃんは眉をきゅっと寄せて、今にも泣き出しそうな怒った顔。見ていたくない。守ってあげるよ。
「手芸屋さんに行こうよ」
 げんきな声で提案するとお姉ちゃんはやっと明るくなった。立ち上がると裾がめくれ上がる。
 去年よりもおおきくなったお腹は、おおきな浴衣でも前を合わせることができなくて、仕方なくすこしはだけたままで帯を締める。あたしはひらひらしたブラウスと、赤いスカートと、ぴかぴかのハイヒール。毎日着ているお気に入りの服装。お姉ちゃんにぎゅっと抱っこしてもらって手芸屋さんへ。
 いつも行っている手芸屋さんはデパートみたいにおおきい。たくさんの刺しゅう糸やかわいい柄の生地、もこもこの毛糸がずらりと並んでいる。上の方からはカタン、カタンって機織りの音も聞こえてくる。
 お姉ちゃんはここのお得意様。結婚する前のおおきなお屋敷に住んでいたころからいつもここで買い物をしていた。お店に入ったとたんにベテランの売り子さんが笑顔で駆けてくる。
「いらっしゃいませ。本日はなにをお求めでしょうか」
「桃色の刺繍糸がほしいのよ」
「かしこまりました。ただいまお持ち致しますので少々お待ちください」
 衝立で他のお客さんと区切ったちっちゃな応接室に案内される。お姉ちゃんがいつもの椅子に腰掛けると、新米売り子さんが紅茶をひとつテーブルに置いた。本物みたいなお花がかかれてる、うすい陶器のティーカップ。とっても綺麗なのに、新米さんは緊張してるのか手が震えてて台無し。ちっとも目を合わせないし。接客へたっぴ!
 でも紅茶の甘いにおいですぐに機嫌がなおる。誰でもすぐに上等だってわかる香り。味わっているとベテランの売り子さんが戻ってきた。黒い天鵞絨で覆われた台を両手で持っている。それを音を立てないようにテーブルに置いた。
「本日在庫がございますのはこちらの種類のみになります」
 台の上には四種類のもも色の糸が乗っていた。でもどれも強い色ばかりで、お姉ちゃんの好みじゃない。
「もっと淡い色はないの?」
「申し訳ございません、あいにく本日はこれしかご用意できません。明日以降でしたら入荷予定があるのですが」
 お姉ちゃんの眉がまたきゅっと寄った。泣かないで、泣かないでお姉ちゃん。あたしが守ってあげるから。
「お姉ちゃんが欲しいって言ってるのよっ、早くべつの糸を持ってきてよ!」
 売り子さんは申し訳ございませんと重ねるだけ。お姉ちゃんは四種類の糸をわしづかみにすると、ぶんって力のかぎり放り投げた。
「この色じゃやなの、今日じゃなきゃやなの。早く用意てよ!」
 顔を両手でかくして泣いちゃった。大粒の涙があたしの頬や腕にぽたぽた落ちる。世界の終わりみたいな声がお店中に響いて売り子さんは青くなった。やっとどれだけ深刻なことかわかったみたい。
「奥の方を確認致しますので、少々お待ちください」
 ベテランとは思えないほどバタバタと足音を立てて走った。戻ってくるまでになだめるのはあたしの仕事。頭をよしよしってすると、しゃくり泣きになり声が小さくなった。
 汗をかいた売り子さんは、戻ってくるとへたくそな笑顔で台の上に新しい糸を置いた。それは爪のように淡いもも色。
「奥に一つだけございました。こちらでいかがでしょうか」
 手に取ると白い肌によくなじむ色だとわかる。生まれてくる赤ちゃんにぴったりの色。ほかの刺しゅう糸ともきっと合う。
 お姉ちゃんはそれをぎゅっと胸に抱く。
「いただくわ」
 やっぱりお姉ちゃんは笑顔がいちばんすてき。


 手芸屋さんから帰ってくるまでに八百屋さんと魚屋さんにも寄った。今日はお姉ちゃんの好きな白身魚の西京焼。お姉ちゃんは料理が得意で盛りつけまで上手。あたしは食卓の上に寝転がって、おいしそうに食べてる姿を眺めるの。お裾分けって口元にお魚を運んでくれるけれど首をふって断る。赤ちゃんのためにいっぱい食べて。
 ご飯が終わって一休みしたら、洋服を脱がしてもらって一緒にお風呂。お腹は昨日よりすこーしおおきくなったみたい。耳をあてて心臓の音を聞く。早く生まれてこないかな、あたしのかわいい子。
 そのまま眠くなって、湯船にもぐっちゃいそうなあたしをお姉ちゃんが抱きしめてお風呂場から出た。体をていねいに拭いてもらっていつもの洋服を着せてもらう。
 お姉ちゃんは紺地にさくら柄の浴衣。これももちろん手作り。さくらが光ってるみたいで綺麗でしょ?
 お姉ちゃんはつげ櫛でながい髪をとかす。絡まってた髪がするするとほどけて、小さな王国のお姫さまみたい。あたしの髪もお姉ちゃんにとかしてもらう。この時間がいちばん好き。
 あたしたちは一緒の布団に入って眠る。まぶたを閉じたお姉ちゃんのまつ毛はとても長い。とっても幸福そうな寝顔でうれしくなっちゃう。
 あたしがこの幸福を守る。この毎日を守る。だから明日も幸せよ、お姉ちゃん。
[newpage]
 きのう買ったばかりの刺しゅう繍糸であたらしい花を咲かせた。布を縁どるようにいろんなお花が咲いている。まだ半分しか刺し終わっていないけど、お姉ちゃんはどうかしらと自慢気に広げた。それは赤ちゃんのためのおくるみ。お母さんに愛されてるのよってあかし。あたしは畳に寝転んだままニコニコして何度もうなずく。ちっちゃくてふにふにな体を、お姉ちゃんが作ったおくるみで包んだ姿を想像する。ほっぺをつっついたら笑ってくれるかな? 泣いたらミルクを飲ませるの。早く会いたい!
 柔らかで温かい想像をベルがけたたましく破壊した。ビリビリって背中がしびれる。電話の音だ。ふたりで見つめ合いながらじっと息をひそめてみるけどやまない。お姉ちゃんは溜息をつくとあたしを抱き上げて廊下に出た。不吉な怪鳥が叫んでるみたいで、抱きしめる腕が強くなる。あたしも怖いかえれど、お姉ちゃんを応援するように手に力をこめる。自分の叫び声で震える受話器を手にとった。交換手の声のあと、いきなり大音響がやってきた。
「もしもしっ!」
 ベルの音以上に耳がキンキンした。とっさに耳を離すけれどまだ声は聞こえる。狂乱気味の叫び。お義母さんだ。
「貴女、ずっと連絡も寄越さないで何してたの」
 電話を切りたい。でも今切ってもまたすぐにかかってきちゃう。どうしよう。
「息子を出してちょうだい。そこにいるんでしょっ」
 頭が痛い。早くこんな電話終わりにしちゃおうよ、お姉ちゃん。
「ごめんなさい」
「ごめんじゃなくて、もう何年息子と会ってないと思っているの」
 お姉ちゃんが謝ってるのに、なんてごーまんな人!
「ごめんなさい」
「直接そっちに行ってもいつも留守だし。何をしているの」
「ごめんなさい」
「人の話を聞いてるの?」
「ごめんなさい」
「ちょっと」
「ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい」
 黙ってください煩いです頭が痛いんですキンキンした声だしやがってもう電話をかけてこないでくださいこんなに謝ってるじゃないですかチクショウお願いしますそれ以上しゃべらないであんたまで子供を奪う気かそんなことさせないそんなことさせないそんなことさせない絶対に。
 …………。
 ……。
 電話は切れていた。受話器を元に戻すけれど体が重たくって、その場にへなへなと座り込む。床にほっぺたをくっつける。ひんやりして心地良くって、お姉ちゃんは目をつぶっちゃった。嫌な電話で疲れたもんね。でも大丈夫よお姉ちゃん、あたしが守ってあげるから。今は寝てて。イヤなことはぜんぶ忘れて。


 カタカタと乾いた音が聞こえて目が覚めた。もう少し寝ていたいのに耳障りでできない。仕方なく顔だけ上げると玄関の戸を黒い影が叩いていた。電話の人はとおくに住んでるから今日はこれないはず。お姉ちゃんはあたしを抱いて立ち上がった。鍵をはずし引き戸をあける。
「こんにちは」
 立っていたのは巡査さんの制服を着ている男の人だった。お姉ちゃんの顔を見て一瞬だけほっぺを引きつらせたけどすぐに笑顔になった。にこやかすぎて怖い。
「お母様から娘さんの様子が心配なので見てきて欲しいと頼まれまして。お体のお加減は大丈夫ですか?」
 なるべく声を出したくなくて小さく頷く。念のため片腕でお腹をかばった。どうしよう、家の中に入ってこないようにしなきゃ。
「それは安心しました。旦那様にも挨拶したいのですが、いまいらっしゃいますか?」
 うつむいて首をふるふると左右に振る。すると巡査さんは家の奥を覗こうと首をのばした。心臓が冷たくなる。
「本日はお休みのはずだとお母様から伺っていたんですが、おでかけですか?」
「いな……いんです、ずっと」
 地面がぐにゃぐにゃと柔らかくゆがんで、足が飲み込まれちゃうんじゃないかと心配になった。乗り物酔いしたみたいに気持ち悪い。
「いない、と言うのは?」
「ほかに、おんなの、ひとが……」
 吐きそうになったお姉ちゃんは口を手でおおったけど、あふれたのは嗚咽だった。小さな声が指のすきまからこぼれる。巡査さんがあわててなだめ出して、あたしはそれをお姉ちゃんの胸からじっと観察する。
「奥さん落ち着いて、泣かないでください。えっとその……事情は判りました。お母様に上手く説明できないのは、そういうことだったんですね」
 巡査さんは目を白黒させてる。しきりに顔の前で手を振っているけど、そんな行為に意味なんてないわ。このようすならすぐに帰ってくれそう。お姉ちゃんにもそれが判ったのか、泣き声が小さくなった。
「とにかく泣かないでください。お母様には、わたしの方からその……大丈夫だと、伝えておきますから、ね?」
 泣き声をおさえると小さくうなずいた。しなやかな指で涙をぬぐう。巡査さんは安心したようでほっと笑顔になった。子供みたい。警察でも若い人はだめね。
「その……いろいろつらいとは思いますが、いつでも相談してください。必ず力になりますから」
 そう言ってぎゅっと手を握ってきた。困ったことがあったって、あなたには相談しません、あっかんべーっだ。
 巡査さんが帰るとお姉ちゃんは涙のあともない、お人形さんみたいなつるりとした顔になった。お月さまより冴えてる。
 首をかたむけると、黒くて長い髪がゆれる。
「おかしなひと。旦那なんていないのにね」


 寝て起きて刺ししゅうしてお風呂に入って、寝て起きて編み物をして、寝て起きてご飯を食べて赤ちゃんのために本を読んで。幸せなまいにちが続いた。でも困ったこともあった。
 赤ちゃんのために作ったおくるみや服や靴下が、赤ちゃん専用の収納箱に入りきらなくなっちゃった。中身をぜんぶ取り出してあらためる。きょねん作った手袋はとっておく。それより前に作ったよだれかけは刺しゅうの柄がかわいくないかなぁ? 赤ちゃんができたばかりのころは張り切っていっぱい作っちゃったから、いま見ると薄汚れている気もする。
 お姉ちゃんは古くなっちゃった小物をまとめるとごみ袋に入れた。生まれるまでにまだ何年もあるんだからまた作ればいい。
 トントンっと玄関の戸を叩く音がした。ふすまから顔だけをのぞかせて様子をうかがう。ちっちゃい人影だったからお義母さんかなって警戒したけれど、知らないおじいちゃんの声がした。おおきなお腹とあたしを抱えてお姉ちゃんは鍵をあける。
「はぁい」
「こんにちは」
 声と同じような、しわしわで背中の曲がったのおじいちゃんが立っていた。白衣と黒いかばんを持っていたからお医者さんだって一目でわかる。
 まだ赤ちゃんは生まれないのに。お姉ちゃんと一緒に首をかしげる。
「お前さんの具合が悪そうだと、巡査に言われて様子を見に来たんじゃよ」
 あのお馬鹿な人!
 たちまち不機嫌になったけれどお医者さんはそれに気づかない。
「顔が灰色じゃぞ。ガリガリじゃし、ちゃんと飯食べんと倒れてしまうぞ」
 なにを言っているの。お姉ちゃんの肌は白くてつやつやで、細いけれど不健康なほどじゃない。
 睨みつけてるのにお姉ちゃんのほっぺにしわしわの手が伸びた。止める間もなく下瞼を引っ張る。このお医者さんぜったいに変だ。
「失礼な方っ。お腹に赤ちゃんがいるんですもの、しっかり食べているわ」
 しわしわの手を払い、怒りをしめすために胸を張る。あたしもそれに倣ってえっへん。お医者さんは反省もせずにお腹へ顔を近づけて眼鏡を直した。
「妊娠しとるのか。何ヶ月だ?」
「二十四ヶ月です」
 西瓜が三つも入りそうなお腹を誇らしげにさすると、お医者さんのしわだらけの顔にもっとしわが寄った。
「……逆子かどうか、診てやろう」
 今にも倒れそうなぐらい震えてる声。お腹をなでる指も震えてる。しだいに指の力が強くなってきて、痛い。お姉ちゃんはあたしを盾にするようにお腹の前に持ってきたけど取られてしまった。じたばた暴れてみるけれど、あたしは一尺ぐらいしか背丈がないからお医者さんはびくともしない。
 ぐりぐりと指を皮膚に埋めるような触診が終わると、お医者さんはふぅとため息をついた。さっきまでつややかだったお姉ちゃんの白い顔は、痛みと気持ち悪さで青くなってる。
「腹の上からじゃはっきりとは判らんが、やっぱり妊娠はしとらんよ。代わりにしこりみたいなものがあるから今度病院で検査を受けなさい」
 お腹が大きすぎてしまらない浴衣の衿を、お医者さんがしめようとした。西瓜三つぶんのお腹がするすると小さくなって、ぺたんこになって、腰帯が締まった。あれ?
「だらしない格好をして、体を冷やすんじゃないよ」
 握ったままだったあたしを返し、ぽんぽんっとお腹を叩くとお医者さんは帰った。
 玄関の戸が閉まる、ガラガラピシャンという音が余韻を残しながらおおきく響く。
 お姉ちゃんの息だけが聞こえる。
「赤ちゃん、どこ……?」
 あわてて部屋に戻る。
 押入れの中身とごみ袋に入れたばかりの小物をぶちまける。これは赤ちゃんができたばかりの二年前に作ったものだ。どこにも赤ちゃんはまぎれてない。
 新しめの小物をしまった箱をまた開ける。血眼になって、小物をぽんぽん飛ばしてさがすけれどやっぱりいない。お姉ちゃんがたたみを引っかくと爪が割れ、血が細い糸みたいに流れ出た。
 お腹に赤ちゃんができてから作った浴衣、できる前に着ていたブラウス、スカート、男の人のワイシャツ、スーツ、ネクタイ、冬物の服、帽子、鞄、裁縫箱、本、工具、脚立、たたみが見えなくなってもぶちまけ続けてるのにまだ見つからない。
 どこにいったの、あたしの赤ちゃん。
「返してよ、返してよ、あたしの赤ちゃん……どこに隠したの……」
 弱々しかった声が甲高く強さを増していく。
 太陽が大きくかたむいて、窓から差しこむ橙色の明かりがたたみの上に散らばったいろんなものを照らす。でもそのほとんどは、影で真っ黒になっちゃって何だったのかわからない。ちっちゃい化け物がいっぱい、夜を待ってねむってるみたい。
 風がカタカタと窓硝子を鳴らす。なにかイヤなモノがやってきそう。電話のベルもいびきみたいに鳴りだす。きっと子供をさらう鬼が、すぐそこに。
 太陽はどんどんかたむいて、ぷっつりと消えてしまった。明かりのない部屋の中で、座り込んだまま動かないお姉ちゃんの見ひらいた目玉だけが、青白くかがやいてる。
 聞こえてる? お姉ちゃん。風が牙をむいて威嚇してる。眠っていたちっちゃな化け物たちも体をぶるぶる震わせて身構えてる。
 玄関の引き戸が揺れ、カラカラと開かれた。突風が廊下を走ってお姉ちゃんの元までとどく。ながくて黒い髪が生きてるみたいになびく。それは宙に留まり、黒い流線が四方に広がった。
 静かな足音がちかづいてくる。鬼だ、鬼がやってきたんだ。
 お姉ちゃんはあたしを握りしめて立ち上がった。ちっちゃな化け物たちを蹴散らして鬼にせまる。あたしががんばらないと。お姉ちゃんを守って赤ちゃんを取り戻さないと。
 お姉ちゃんが部屋を出ようとするのと鬼が部屋に入ろうとしたのが同時だった。真っ黒な鬼が目を見ひらく。
「か……金を出せ!」
「赤ちゃんを返せえぇっ!」
 あたしを握りしめたまま鬼の顔を何度も殴る。硬いけれど弾力のある筋肉、殴る手の骨に響く痛み。あたしの体も鬼の皮膚をえぐる。
 鬼が叫びながら腕を振り上げた。長い長い爪が、ビニールでできたあたしの腕を切断する。中身は空洞で軽いから、ぽーんとどこかに飛んじゃった。繕い物みたいに針と糸じゃくっつけられないのに、どうしよう。
 振り上げられた腕はお姉ちゃんの顔に下ろされた。長い長い爪が目玉に突き刺さる。一度固いものに引っかかったけれど、何かが壊れる音が聞こえたあとはずぶりずぶりと奥まで埋まった。
 声にならない絶叫が家を震わせる。視界が半分真っ暗になる。ちっちゃな化け物たちも死んでゆく。
 体を壁にぶつけたり転んだりしながら鬼は家から出ていった。あたしの目玉に爪だけが残っている。歩こうとするがたたらを踏み、倒れた瞬間にビニールでできた人形が床を跳ねた。いつも慰めてくれた大切な片割れ。腕が切断されたそれに、あたしは手を伸ばす。
 返して、あたしの赤ちゃん。奪わないで。


  ×月×日 朝刊
  ××市の住宅で未明、住人の××××さんの遺体が発見された。現場に凶器が残されており、警察は殺人事件とみて捜査を開始している。
  また住宅から夫のものと思われる白骨化遺体も発見された。頭蓋骨は妻の××さんの子宮から発見され、二つの事件の関連性を調べている。
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