娘の両手足にフジツボが生えた。始めは指先だけだったのだが僅かずつだがフジツボの数は増え、娘は痛みのあまり歩けなくなった。村の医者に見せても首を左右に振られ、娘の父親は海の魔女に頼った。
 話を聞いた魔女は慈愛の眼差しで答えた。
 北の森へ行け。沼に住んでいる魔物の腹の水を娘に飲ますのだ。それが薬となる。
 魔物をおびき出す餌を貰い、男はバケツと瓶と猟銃を持って森へ向かった。
 北の森は鬱蒼と茂っており陽の光が入らない。昼と夜の境目を奪う。森の入り口にいた蛇や蛭の気配は沼に着くまでに消えた。風も通らず生き物の音もせず、腐った沼の悪臭が男にまとわりつく。生き物が棲んでいるとは思えない。
 男は銃を片手に餌を放り投げた。餌が沈んでも魔物の気配はしない。騙されたのか。いや、違う。沼の表面が泡立ち、男は一歩後退った。沼の縁を赤い鰭がつかんだ。頭部が現れると悪臭が増す。片腕で鼻を覆いさらに下がる。魔物は全身を沼から這い出すと地面に横たわった。喘息患者のように大きく喘いでいる。
 魔物の姿は醜かった。頭部はぶよぶよと膨らみ赤い鱗がびっしりと生えている。魚の両眼は顔の半分ほどの大きさがあり、どこにも焦点を合わせていない。二本の触覚が蠢いている。そして腹部。肝心の腹部は硝子でできていた。中の澄んだ水が揺れている。
 あの水で娘を救える。あの水があれば。あの水があれば。あの水があれば。
 銃を構えたと同時に魔物が顔を男に向けた。ひっ、と悲鳴が喉を突き、引き金にかけた指が硬直する。
「おじさん何しに来たの」
 魔物は意外にも子供の声をしていた。娘より幼い少年の声。発砲を躊躇ってしまう。
「言葉が、判るのか」
「当たり前だろう」
 魚の頭部にも関わらず、厭らしく笑っているが判った。化物の癖に。鳩尾に重たい熱が湧き上がる。
「腹の水を寄越せ。素直に渡せば殺さないでやる」
「こんなものどうするのさ」
 魔物は鰭で硝子を撫でた。汚い水が表面に膜を作る。
「娘の薬になる。海の魔女がそう言った」
「海の魔女」
 魚の瞳孔が縮まり爛々と輝いた。口に小さな泡がいくつも張り付く。
「あの女が何を言っていたの! 娘の薬って何!」
 魔物の顔が紅潮し更に膨れ上がった。臭いも増す。
「娘の体にフジツボが生えた。お前の水が薬になるのだと魔女が言ったんだ」
「そうだねそうだね。それは普通の病じゃないね。協力するよお水をあげるよ。娘はどこ?」
 呪われたように魔物は興奮した。口角の泡が飛ぶ。
「……村だ」
「じゃぁ一緒に降りよう」
 魔物は細い脚をもつれさせながら立ち上がった。脚だけは人間とほぼ変わらないが、透明の鱗が皮膚を覆っている。立ち上がると子供の背丈ぐらいしかない。人間の倍ぐらいある頭部が不安定に揺れる。
「ああ、歩くのは何年ぶりだろう。何十年? 何百年?」
 魔物は眼を爛々とさせながら歩く。頭部が重いのか何度も転ぶが、その度にけたたましく笑った。これを村に連れ込む訳にはいかない。銃把を強く握り締める。
「ボクはねぇ、昔にんげんだったんだよ。でもね、悪い事をして魔女に呪いをかけられてしまったんだ。この腹に水がいっぱい溜まる前に呪いを解く道具を手に入れたら人間に戻れるって言われたんだけどねぇ。いひひ。だから、娘がフジツボになっちゃう前に助けないと。この腹の水ならきっと魔力があるよあるんだよ」
 いひひ、と笑うとまた転んだ。男は不気味そうに見遣るだけで助けなかった。ただ、銃把を握る力を弱める。
 麓に着き、男は魔物を待たせて家に戻った。娘を毛布でくるみ、なるべく痛みを与えないようにゆっくりと麓に戻る。あと少しで娘の病は治る。
 戻ると魔物は娘の顔を覗きこんできた。娘を守るように抱き寄せ睨む。
「早く水をくれ」
「顔にはフジツボ付いてないねぇ。見せてよ見せてよ。フジツボどこにあるの?」
 赤い鰭が娘に触れようとして男は一歩引いた。そっと地面に下ろし毛布を広げる。
「娘には触れないでくれ。見たらさっさと水を寄越すんだ」
 毛布から開放された娘は、指先から肘、つま先から膝にまでびっしりとフジツボが生えおり、その部分だけ肌色が見えない。痛みのせいで熟睡できずにいる娘は、夢と現を曖昧に行き来している。
 その憐れな姿に魔物は大粒の涙を流した。悲しみや同情ではない、悦びだ。興奮が蒸気のように立ち昇ち、叫ぶ。
「にんげんだ、にんげんだ。ボクと同じにんげんだぁっ!」
 魔物はしゃがむと脚に生えているフジツボを食らいだした。骨を砕いているような音が響き、夢を彷徨っていた娘が絶叫する。
「痛い痛い痛いっ!」
 魔物は食らうことをやめない。男は気がつけば赤く膨らんだ頭部を銃で殴っていた。腹に銃弾を放つと硝子が割れ、水と共に跳ね上がる。光を反射し、意外なほど美しく煌めく。
 魔物は倒れ笑った。口の周りに泡とフジツボが纏わりついている。
「呪いを解く道具なんてね、なかったんだよ。初めから存在してなかったんだよ! 魔女は希望と絶望を同時に渡して楽しんでたんだ。ボクがにんげんじゃなくなるのを楽しんでたんだ!」
 魔物は哄笑する。深く。五月蝿く。
「君も魔女に騙されたんだよぉ。君はボクを殺した。にんげんだったボクを殺した。君はもうにんげんじゃないよ、魔物だよ。ボクと一緒で魔女の暇潰しにされたんだよぉ。もう戻れないよ。一生魔物だよぉ」
 どこまでも笑い続ける魔物の頭部にもう一撃放った。血液と、脳漿と、鱗が飛び散る。それらが男にかかり悪臭が染み付く。魔物は動かなくなった。
 男は娘を強く抱き締める。腹の水が触れた脚部のフジツボは剥がれ落ち、壊死した灰色の肌が顕になった。
 男はそのまま魔物を睨みつけ、しらばく動けなかった。
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