ウルフウッドがソファを占領していた。黒い柔らかなクッションを肘掛けと背中の間に挟んで、僕が買い足した『Hug Me』と書かれたクッションを抱き締めながら横になっている。二人で座る分には余裕があるのだけれど、一人で寝転ぶには小さくて、脛から先は肘掛けの外にあふれていた。まったく緊張感のない、だらだらとした様子でテレビを見ている。
 買ってきた当初はHug Meクッションに興味を示さず、床に落ちていることも多かったのだけれど、最近はどういう風の吹き回しなのかそばに置いて活用している。僕が使い馴染みだした頃になって横取りしたから、嫌がらせの一種だったのかもしれない。
 でも買った目的はウルフウッドに持たせることだし、もっと言えばクッションの文字を口実に抱きつくことだったので、遠慮なく両腕を広げてハグしようとしたら、脚を伸ばして拒否をした。彼の大体の思考回路というか感情は理解できるのだけれど、この辺の気まぐれさと野生の勘のようなものは、もうちょっと入り組んだところにある回路のようでまだ理解しきれていない。
 彼のことを誰よりも理解していると自負していただけに悔しかったけれど、これらは一緒に暮らすようになってから発露し始めたのだ、これからゆっくりと把握していけばいい。
 まずは一緒にテレビを見ようと、本来僕が座る場所にまで伸びている両脚をぐいぐいと押しのけ、ちょびっとだけ生まれたスペースに腰掛ける。ちょこんと座っていては寛げないので、遠慮せずに背凭れに寄りかかった。ごつごつした脚が邪魔だけれど、これぐらいは甘受しよう。
 そこまで体重はかけていなかったけれどウルフウッドは嫌だったようで、もぞもぞ動くと脚を引き抜いた。そのまま下に降ろしてくれると期待したのだけれど、容赦なく僕の膝に置かれた。足首のあたりで組んで偉そうだ。これも仕方ないと諦めて、脛の上に腕を置く。ウルフウッドは鬱陶しそうに、抱き締めているクッションの向こうから顔を生やした。
「オンドレ、邪魔なんやけど」
「それは僕の台詞だよ」
 あまりの言葉にぺちんと膝を叩いた。ウルフウッドは鬱陶しそうなまま浮かした頭を元に戻す。最近のウルフウッドは我儘というか、いちゃもんをつけて僕を困らせることを覚えた。僕が怒ると嬉しそうにするのだからタチが悪い。ここで放置すればどこまでも増長する。
 被害が小さなうちに戒めようと、ウルフウッドの両脚を抱え、上体を倒して顔を近づける。
「ちょっとぉ、僕の抗議は無視するの?」
 もちろん本気で怒っているわけじゃない。じゃれ合いも多分に含んでいる。
 乗り気じゃないウルフウッドは抱き締めていたクッションを盾にして隠れたけれど、なにを閃いたのか突然、そや! と叫ぶと腕の中のそれを僕の顔に押し付けてきた。力を込めているので息苦しい。容赦のない両手首をつかむ。
「ちょっと、なにするのさ!」
「これしばらく持っとき。肌身離したらアカンで」
「なんで」
 窒息死させるのが目的じゃないと判ると素直に受け取った。クッションの裏表を確認する。ウルフウッドが力任せに持つことがあるからくたびれかけているけれど、不審な点や壊れている箇所もない。なぜ寄越したのだろうか。
 両手で持っているのが不満だったようで、僕の腕をつかんで抱き締めるポーズに変更してきた。その出来栄えに納得すると満足げに頷く。ついでに鼻の穴もちょっと膨らんでいる。僕はそのまま、わざとらしく首を傾げてみせた。
「写真撮って待ち受けにする?」
「せぇへん」
 ウルフウッドは未練が残る面持ちどころかスッキリした表情で黒いクッションに頭を戻した。そのまま瞼を閉じる。それ以上の襲撃の気配はないため、そっと顔を寄せて様子を窺った。呼吸がゆったりとしている。
「僕のことハグしないの」
「せぇへん」
「抱き枕にしてもいいよ」
 返事はなかった。意地悪でも照れ隠しでもなかった。肩透かしを食らった僕は背を真っ直ぐに戻し、鼻から息を吐く。
 ウルフウッドは健やかに眠ってしまったのだ。


 ウルフウッドが僕にクッションを持たせる攻撃は長く続いた。手ぶらのまま床で寛いでいるとすぐにクッションを拾って押し付けてくる。その意図はいまだに読めていないけれど、クッションにすぐ反応する挙動がおもちゃみたいで可愛くって、途中からわざと忘れたフリをした。
 今日もウルフウッドは、ソファの隅っこで待機しているクッションをつかむと、僕の腕の中に突っ込んだ。それを緩く抱き締める。ちなみに持つことを拒否すると、寝間着にしているシャツをめくってお腹か背中に無理やり擦りつける。地味に痛いので好ましくない。持つからやめてとお願いしてもすぐにはやめないので、どうやら僕に持たせることが最終目的ではないらしい。それでも持たせようとする攻撃はやまなかった。
「肌身離さず持て言うてるやろが」
「なんで持って欲しいの」
 当然の質問にはそっぽを向いて知らんぷりされた。堂々と襲撃するくせに中途半端に秘密主義だ。それほど迷惑な内容でもないためしばらくは見逃すことにするけれど、僕だって少しは攻撃したい。
 クッションを抱いたまま、隣に座るウルフウッドの耳に後ろから唇を寄せる。
「クッションより君を抱き締めたいんだけど」
 いつもなら顔を赤くして怒るか、無言で距離をとるか、レアな反応として逃げずにそこにいる、という三パターンに別れる。どれになるかはウルフウッドの気分次第だ。
 今日は幸運なことにレアケースの派生だった。首をひねってちょっと考える素振りをすると、ええよとあっさり了承してくれた。ここまで真っ直ぐな反応は滅多にない。恥じらいはないものの、今夜はもっと親密になれるんじゃないだろうか。
 膝を揃えて正座すると背筋を伸ばし、神妙にクッションを床に置いた。ウルフウッドの真後ろに移動し、両腕で包み込む。フェイントで腕をはたき落とされることも想定したけれど、抵抗は一切なかった。軽く引き寄せると体重を預けてくれる。ウルフウッドの体温と重さが心地良い。
 両脚を崩して太腿で体を挟んだ。緊張なんてものをしながら黒髪に鼻をうずめる。慕い合っている二人が一緒に暮らしているというのは、勿論そういうことなわけで、雰囲気とか合図とかは経験から察することができる。
 うなじや耳にキスをして、腕の力をちょっとだけ強くしてみた。抵抗はなかった。頬へ鼻先を擦り寄せる。
「ベッドに行こうか」
 んーっと甘えるような返事があった。
 腹の底からせり上がってくるはやる気持ちを抑え、紳士的な余裕でもってにっこりと微笑む。
 寝室へ移動しようとしたけれど、ウルフウッドの体は重く、立ち上がってくれなかった。恥が残っているのだろうかと、訝しがりながら腕の中の顔を覗く。
 赤く、伏し目がちになっていると予想していた顔は、伏し目を通り越して瞼は重そうに閉じていた。油断しきった唇は半開きになっている。
 想像していた未来とは違う展開になっていることをやっと理解して卒倒しかけた。慌ててウルフウッドの両肩を揺さぶる。
「ちょっと! 寝るの意味違うから!」
「やかましい」
 おざなりに僕の腕を叩くと、体勢を変えて僕の胸にこてんと頭を置いた。ごく稀にしかしてくれない可愛らしい態度に全部を許しそうになる。けれど僕にも男としての気持ちとか期待とか心の準備とかはあって、それらはもう万全の状態になってしまっているので、ここでほだされる訳にはいかない。そんなゆとりはないのだ。
 焦れる両腕で引き寄せると額にキスを贈る。体にはまだ触らずに、髪を優しく撫でて機嫌を窺う。
「ねぇ、ウルフウッドォ」
「いやや」
「そんなこと言わないで。僕頑張るから」
 甘えた声で粘ってみた。うとうとしていたウルフウッドはそれに反応したようにパチッと目を開けてくれたけれど、その表情には色気とか恥じらいとか僕が期待したものはなく、代わりに不満と怒りが乗っていた。
 顔を背けるとさっさと腕の中から逃げ出して、空っぽになった所に目も合わせずクッションを放り込んだ。リビングの出口へと向かう。
「眠い言うとるやん」
「待ってよー」
 前のめりになって声を掛けてみたけれど、無情にもドアは僕一人だけを残して閉じてしまった。前のめりになった勢いのまま床に倒れる。
 追いかけたいけれど、一緒のベッドではまだまだ食い下がってしまいそうなので、燻っている情熱が冷めるまで転がっていることにした。渡されたクッションを顔へ引き寄せる。
 最近のウルフウッドはやたらと寝ている気がする。帰りはそんなに遅くないし、休日もこれといってエネルギーを使うようなことはしていないのだけれど、どうして眠ってばかりいるのだろうか。
 考えて正解にたどり着けるものでもない。大きく深呼吸をする。
「明日は絶対やらせてもらおう」
 強い決意を胸に、瞼を閉じた。


 ウルフウッドが頻繁に眠ってしまう現象はそれからも続いた。仕事が忙しいのかと訊いてみたら、不思議そうな顔でなんでと訊き返されたので原因は違うようだ。仕事仲間と飲みに行っていることもあるけれど、体力が枯渇するほどの深酒はしていない。
 もしかして病気なのだろうかと注視した。自覚症状があるならもちろん、なくても異変があればすぐに病院に連れて行くつもりだった。しばらく用心していたけれど、幸いなことにどちらもなかった。杞憂に終わった観察は、しかし無駄ではなかった。寝転んだり欠伸したりするタイミングを脳内に記録していたら、やっと法則のようなものが浮かんできたのだ。
 僕が床に座っていると今日もウルフウッドは寄ってきた。右手で持っているHug Meクッションを僕に渡し、左手の黒いクッションを枕にして横になった。僕の膝のすぐ近くに頭がある。無防備な姿が可愛らしい。
 寝る準備を始めた黒髪を指で梳く。
「ねぇ、いつまでこのクッション持ってればいいの」
「あ?」
 ウルフウッドは瞼を開けると、寝転んだままがさつな手つきでクッションを取り上げた。顔に持っていくと鼻を動かし、満足したように緩く口角を上げた。僕に戻さず胸元に収める。
「もうええよ。ご苦労さん」
「……なに。匂いで判断してたの?」
 どんな匂いがしているのか。
 ちょっと貸してと腕を伸ばすと、ハエをはたき落とす勢いで手を叩かれた。大切そうにクッションを抱き締める。
「ワイのや」
「さっきまで僕に押し付けてただろ」
 僕に対してだけとる理屈の通らない態度で押しきると、再び目を閉じた。悪びれている様子は一切ない。クッションに未練はないから構わないのだけれど、ほんの少し腹が立つ。
 指先で軽く頬をつっつく。
「キミさ、僕の傍にいるときだけ眠そうにしてるよね。僕の傍にいると安心するの?」
 閉じている瞼がかすかに反応した。それでも寝息のリズムは崩れない。ゆったりと呼吸を続ける。
「あー? 倦怠期や倦怠期」
「なにが倦怠期だよ。僕に懐いてるくせに」
 嫌がらせで鼻をつまむと、首を左右に振って追い払われた。抱っこしていたクッションを鼻先に持ってきて防御する。子供じみててちょっと可愛い。自然と僕の頬も柔らかくなる。
 ウルフウッドはそのまま寝てしまうと予想していたのだけれど、その前にぽつりと呟いた。
「オンドレは眠くならへんの」
「僕? 眠くならないよ。どちらかというとドキドキする。あと、」
 人差し指と中指を軽く曲げ、その背でウルフウッドの頬を優しく撫でる。起こすつもりはないから掠めるような動きだ。
 鼻はガードしたまま、ウルフウッドがこちらに目線をやった。言葉の続きを待っているらしい。
 好奇心の塊みたいな様子に目を細めて微笑む。
「ムラムラもする」
 爆発したかのようにウルフウッドが飛び起きた。盾にしていたのと枕にしていたのと、二つのクッションを握り締め、ソファに急いで逃げる。こっちには顔も向けてくれない。
「たらしや、すけこましや。いやらしい!」
「今更なに言ってるのさ」
「触んなや。すけこまし菌が伝染る!」
「子供じゃないんだから」
 僕の位置からでは、座ったままだとソファに届かない。安全地帯に避難完了したウルフウッドは、背を向けて横になった。それでも全身の筋肉は心なしか強張っている。
「同じ家にすけこましがおるとか怖いわー。魔除けの札貼らんと」
「そういうこと言ってるとあとで泣かすよ?」
 ウルフウッドは答えず、そのままうたた寝をしてしまった。
 その日からウルフウッドはちょっとだけ僕を避けるようになった。と言っても一緒にご飯を食べるし、夜になればそれなりのこともする。変わったのは隣に座るとすぐに逃げることだ。最近はろくに目も合わせてくれない。あまりにもよそよそしく、理由が判らなかったら僕への情熱が薄れてるんじゃないかと疑うところだ。お風呂から出てくるときも、以前はタオル一枚で済ませていたくせに、ちゃんと寝間着姿で出てくるようになった。僕を意識している行動は憎らしいし愛らしい。
 僕の視線を気にしている仕草を観察するのも楽しいけれど、会話もあんまりしてくれなくなったのは寂しい。なにより、スキンシップが減ったのは由々しき問題だ。
 そろそろ事態を収拾しようと、まずはソファに座っているウルフウッドに声をかける。
「ねぇ、最近僕のこと避けすぎじゃない? 寂しいんだけれど」
「ちっとも避けてへんわ。オンドレの意識しすぎや」
 身じろぎすらせず、拗ねた口調で切り捨てられた。断言している割にはウルフウッドの居心地は悪そうだった。それには気づかないふりをする。
「じゃあ隣に座ってもいい? 逃げない?」
 小さな呻き声が洩れたのを聞き外さなかった。けれどここで配慮をしていたら事態は改善しない。拒絶はされなかったのだ、堂々と隣に座る。二人の間にはそれなりに空間があるにも関わらず、怯えたようにウルフウッドは縮こまった。上体を曲げて、逸し続ける眼を近距離で覗き込む。
「触ってもいい?」
「アカン」
「なんで」
 返事の代わりに足を寄越された。僕の腹筋を膂力で遠ざける。力比べを始めてもよかったのだけれど、この体勢と状況では逃げられる恐れが高いためやめておいた。体を引くと、腹筋に置かれた足はどかされないものの力が抜けた。ウルフウッドが呆れたように溜め息をつく。
「オンドレが傍におると迷惑なんや。せやからあっち行っとれ」
 彼らしくないボソボソとした声で命令されるけれど、そんな説明で納得できるわけがない。僕だって怒るのだ。
 物理的な距離は詰めないけれど、言い方はいつもよりキツくなる。
「なんで迷惑なの? 僕のこと嫌い? 愛想尽かした? 触られるのイヤ? キスもしたくない?」
「いっぺんに訊くなや」
 もちろん全部本心から訊いたわけじゃない。でもほんのちょっとでも鱗片があったら? かつては狂おしいほどだったのに、家族としての関係性が濃くなって、いつしか熱意が薄れてしまったというのはよくある話だ。
 落ち着いた絆も素敵だとは思うけれど、僕はもうちょっと情熱的でありたい。というか、今はまだ耐えられない。
 視線をそらさず折れない意思を表明していると、ウルフウッドのうんざりしたような顔からはやがて力が抜け、仕方がないと言外に告げる笑みになった。こんなときに、彼が孤児院で兄と慕われていたことを実感する。
「なにムキになっとんねん」
「だって触りたいしキスしたいしそれ以上のことだって沢山したいもん」
「駄々っ子が」
「そうだよ。だから足どけて」
 ちょっとだけ身を乗り出して、腹筋に置いたままの足を思い出させる。僕が乗り出した分だけ曲がった膝を見ると避ける理由まで呼び起こしたのか、抜けたはずの力が戻った。Hug Meクッションを二人の間に置いて盾にする。顔を背けた。
「うつってもうたから嫌や」
「うつった?」
「……すけこまし菌が、伝染りよった」
 クッションの盾で守っていたのは、僕との距離ではなくウルフウッドの表情だったようだ。
 僕がぱちぱちと瞬きを繰り返しながら凝視していると、ウルフウッドの顔はクッションに沈んでいった。吹き出しの形をしていたクッションはぺしゃんこに潰れている。隠しきれなかった耳が赤い。
 期待していた以上の収穫に自分の聴覚を疑ってしまったけれど、どうやら勘違いではないらしい。この体勢のまま、改めて正確に確認をする。
「僕の傍にいるとドキドキするの?」
 肯定も否定もない。マネキンみたいに硬直している。僕もまだ、動けない。
 軽く間を開けた次の質問には、ちょっと望みを託してみた。
「ムラムラも?」
 やっぱり肯定も否定もなかった。ただ、指がほんの少し、クッションに食い込む。それが引き金になった。
 僕は両腕を伸ばしてウルフウッドに飛びかかった。顔を隠していたウルフウッドは当然防御が遅れる。遁走の余裕なんてもっての他だ。
 ウルフウッドが押し退けようとするより僕が捕獲する方が速かった。両腕ですっぽりと包み、押し倒した。ついでに頬ずりもする。ばたばたと悪あがきを続ける両脚を絡め取って捻じ伏せた。ウルフウッドの呻き声が低く轟く。
「トンガリ臭い! トンガリ臭がしよる! 最悪や!」
「僕の匂い好きでしょう?」
「ワイに匂い移ったらどないするつもりや!」
 無視をして頬ずりを続けた。約ひと月ぶりのウルフウッドの体温なのだ、彼の都合など知ったことじゃない。
 僕のホールドを解けないと観念したウルフウッドは、小さい子みたいな呪詛を呟きだした。僕は頭や耳にキスをして大切な時間を堪能する。ここしばらく不足していた分を補っておきたい。油断すると反撃されるので体重は全力でかけたままだけれど。
 ひとしきり罵倒し終えたウルフウッドは、僕に絶対に顔を見せまいと意地悪な方向へ首をひねった。口にキスされそうなのを妨害しているのかもしれない。完全に抵抗がなくなったら解放しようかと考えていたけれど、もう少し待つ必要があるようだ。
 ウルフウッドは恨みがましく僕を責め立てる。
「ちぃと前まではよぉ眠れとったのに、オンドレのせいで寝不足や。安眠妨害やで安眠妨害」
「安眠妨害ねぇ」
 拘束したままずり上がった。ウルフウッドの頭に顎を乗せる。案の定クレームが飛んできたけれど無視をした。頭を両腕で抱えて嫌がらせをする。自分だけがつらい気持ちを強いられていたと思い込んでいるのならとんだつけ上がりだ。
 耳元でゆっくりと囁く。
「あのね、僕はキミが傍にいてもいなくても、眠れないの。傍にいたらドキドキするし、いなかったら寂しくてそわそわするし。安眠妨害してるのはキミの方だからね」
 ウルフウッドは絶句した。呼吸まで止めてしまったようだ。硬直した体が愛おしい。僕は幸せなまま頭に頬を寄せる。
 僕らの安眠は、まだ取り戻せそうにない。
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 ミュージアムショップの中でウルフウッドは足を止めた。商品のひとつを黙って睥睨する。
 今日博物館へ来たのは、恐竜の化石の展示会へ僕が誘ったからだ。恐竜大集合とダイナミックに書かれたポスターを街中で見つけたとき、真っ先にウルフウッドの顔を思い出した。普段は博物館に興味なさそうで、誘ったときも退屈そうな顔だったけれど、二つ返事で承諾してくれた。
 当日までほとんど話題に出さなくって、展示室内で本物を目の前にしても無表情だったけれど、さっさと順路を進まずに、化石を色んな角度で見上げながらうろついていた。僕とはぐれるのも構わずにマイペースに観察していたから、楽しんでくれていたのだと思う。
 たっぷりと時間をかけて観覧を終えると、ウルフウッドはいつもよりスッキリしたというか、わずかながらエネルギーに満ちているような気がした。表情も心なしか柔らかい。だからかミュージアムショップへも快く付き合ってくれた。
 ショップに陳列してある商品は、展示物の図録やオリジナルの一筆箋などの他に、今回の展示に合わせた化石のチョコやおもちゃの発掘キット等もあった。ウルフウッドはそれに興味を持ったのか、パッケージの裏を確認していた。
 しかしそれらはすぐに戻して進んだ。一番足を長く止めたのは意外にも雑貨コーナーだった。
 科学などを応用したインテリアが並んでいる。カラフルなボールが水の中で浮かんでいるガリレオ温度計や、三つの輪が回転しながら揺れるモビールコスモなどだ。ウルフウッドはその中の一つを凝視している。どれに関心を寄せたのだろうと隣に立ち、視線を追う。この中では比較的地味な、しずく型のガラスだった。大小二つのサイズが並べられている。ウルフウッドは大きい方へ顔を近づけた。ガラスの中身を、未知の生命体が閉じ込められてでもいるかのように睨めつける。実際には異常な物なんか入っていないのだけれど。
 ガラスの中はほとんどが透明な水分で、下の方で白い結晶がわずかに沈んでいるだけだ。じっと観賞していても動くようなものではない。僕は黒い後頭部を観察する。
「これ、何なん?」
「ストームグラスだよ。気圧によって結晶の様子が変わるんだよ。テンポドロップって言い方もするね」
 気に入ったの? と問うとストームグラスを手に取った。顔先数センチの距離にまで近づけて、寄り目がちに睨む。シダの葉みたいな結晶の形が面白いのだろうか。
「美味そうやん。かき氷みたいで」
「今日は晴れてるから少ないけど、嵐の日にはびっしり結晶ができるらしいよ。買う?」
 ウルフウッドの眼が好奇できらめいた。そのままレジに進みそうだ。財布を持っているのは僕だから一緒についていこうとしたけれど、ちらりと値札を確認した途端に好奇は消えた。商品を戻し、ふいと顔を背ける。
「いらん」
 振り返ることなく雑貨コーナーから離れてしまった。まだ見ていない商品を軽く流し、さっさとショップから出ていってしまった。僕はもうちょっと見ていたかったのだけれど、断腸の思いで店を去ったウルフウッドが可哀想だろうと僕も出た。
 待っていてくれた彼は肩が並ぶのまでは待ってくれず、出口に向かって歩きだした。そのまま博物館を終わりにするのだろうと予想したけれど、館内の案内板を前にすると止まった。親指でくいと喫煙所を示す。返事を聞かずに行ってしまった。化石を見終えた直後とは違って、ずっと仏頂面だった。
 普段なら近くまで着いていくか、その場で待っていることが多いのだけれど、今回はミュージアムショップに急いで戻った。ストームグラスの元へ悩まず進む。大小二つのサイズがあったので、大きい方と、今回の図録をレジに持っていった。会計を済ますと案内板の下へ早足で向かう。行って戻るまでおおよそ三分。いい記録じゃないだろうか。
 マイペースに一服したウルフウッドは、穏やかさを取り戻していた。どこか眠そうでもある。だけど僕がぶら下げているショップの袋に気付くと目を見張った。赤い袋だから中身は見えないはずだけれど、膨らんでいる大きさで予測がついたのだろう。眉根を寄せた様子は不機嫌や不快と表現するのがピッタリのはずだけれど、眼だけは期待に満ちた子供でアンバランスだった。僕は笑顔を浮かべる。
「帰ろう」
 無断で買い物したことへのお咎めはなく、ウルフウッドは黙ってついてきてくれた。
 家に着くとテーブルの上に袋を置いた。どうぞと告げてキッチンへ向かう。僕がそばにいたら箱を開けないからだ。
 湯を沸かしてマグカップを用意している間に、ウルフウッドは黙って袋からまず図録を出し、その隣に箱を並べた。セロハンテープを親指の爪で切ってフタを開ける。肺にたっぷりと空気を吸い込んで、慎重に中身を取り出す。クッション材に包まれているからまだ姿は確認できない。彼にしては珍しく、壊れるのを恐れるように繊細な手つきでクッション材を留めているテープを剥がした。曇りのないしずく型のガラスが顕になる。
 ショップに並んでいたときと同様に、家でも結晶は少なくてほとんどが透明な水だけれど、充分魅力的に映っているのかウルフウッドの鼻の穴が膨らんだ。両手で掴み、いささか乱暴な手つきで、当人からすればいつも通りの力加減で揺すると、理不尽な暴力を受けた結晶はゆったりと崩れた。飽きもせずにそれを繰り返すと、満足したのか近くの棚の上に置いた。
 見慣れたその棚はもはや背景の一部と化しているのだけれど、その日からウルフウッドは時折顔を上げてストームグラスを観察していた。


 最初は、僕がそばにいるときに観察はしていなかったのだけれど、隠すのが億劫になったのか毎朝出かける前に確認し、帰宅しては確認し、暇なときにも確認するようになった。休みの日には、床にごろんと寝そべると、へその近くにストームグラスを置いて丸くなり、だらだらとテレビを見たり日向ぼっこをしたり僕が買った雑誌を読んで過ごしたりしていた。一緒に買った図録を開いているときもあった。なんとなく、鳥の抱卵を彷彿とさせる姿だった。
 夏に近づく暖かい季節だから中の液体は透明で、晴れの日には見応えがちょっと足りなかったけれども、雨の日には様子が変わった。結晶は細かな星のようになり、スノードームさながらに液体の中を舞った。
 この変化に真っ先に気づいたウルフウッドは、無言ではあったけれど、喜びと驚きが混じった興奮を発散させていた。顔を近づけて、一粒一粒の形を捉えるように瞬きすらせずに凝視している。僕の位置からは背中しか見えなかったのだけれど、思わず笑いそうになるぐらい愛らしかった。
 雨の日の外出はいつも面倒臭そうだったのに、この日だけは機嫌よく傘を差して仕事に向かった。
 しばらくそうやって可愛がっていたのだけれど、晴れの日の様子は見慣れてしまったようで、早く冬にならないかと、澄んだグラスを退屈そうに眺めるようになった。動物と違って鳴いたり動いたりしないのだから自然なことかなと肩を竦めたけれど、観察はやめなかったから愛情はまだあるのだろう。
 ウルフウッドのやや後ろに立って、物静かなグラスを一緒に眺める。
「冷蔵庫に入れる? 冬みたいに白い水になるんだってよ」
「入れへん。人工的に操作してどないすんの」
 怒った様子につい和んでしまい、頭を撫でたら牙を剥いて威嚇された。噛みつかれる前に笑って手を引く。


 そうやって過ごしていると待望の日が訪れた。タイフーンがやってきたのだ。
 朝の段階では、まだ雨は降っていないけれども、風はひたすら強くって窓ガラスがガタガタ鳴った。外ではビニール袋や空き缶が飛んでいる。被害に遭う前にと、僕は雨戸を閉めた。強すぎる風のせいで滑りが悪く、いつもより力が必要だった。窓も閉めるとぐちゃぐちゃになった前髪を整える。暴風の音が少しだけ遠くなった。
 ウルフウッドは、ローテーブルに置いたストームグラスを、床に座って一心に見つめていた。災害なんか頭の端にも引っ掛かっていない。彼の周りだけやたらと熱が高かった。サーモグラフィーを使ったら、興奮が赤いオーラとなって映るんじゃないだろうか。
 好奇心は猫をも殺すなんてことわざをふと思い出した。僕は隣に座る。
「ずいぶんと育ったね」
 グラスの中身はてっぺんまで硬そうな結晶がはびこっていた。晴れの日はほとんど透明な水なのに、どこに隠れていたのかってぐらいだ。シダの葉に似た結晶はその指を大きく伸ばし、重なり合い、氷のようにも映った。両手の中に収まる世界が激変するというのは眺めていて楽しい。ウルフウッドは両手でグラスをつかむと揺さぶった。一部は衝撃でゆっくりと崩れたが、ほとんどは力強く枝を張っている。まだまだ気圧は落ちていくのか、大きく深呼吸するように体積を増やしていく。
「やっとやな。台風が来るのが遅すぎるっちぅねん」
 今の季節なら例年並みだと思うのだけれど、それだけ結晶の変化を楽しみにしていたのだろう。
 ウルフウッドの背中の方に片手をつき、そっと顔を寄せる。
「そんなに台風が待ち遠しかった?」
 やっと目を合わせてくれたウルフウッドは、一つ呼吸をすると赤くなり、もう一つすると青くなり、最後にやっぱり赤くなった。グラスを腹の上で抱え、腰を捻ってじりじりと逃げ始める。
「ち、ちゃうねん。ワイが言うてるんは本物の台風の方やから」
「うん」
 反対側にも手をついた。これでウルフウッドの体をサンドした形だ。両脚の間に片膝を置いて、伸びた距離を詰める。ウルフウッドは俯いて視線を彷徨わせた。
「せやから、ちゃうねん」
「危ないからこれはテーブルに戻そうね」
 ウルフウッドの腕からストームグラスを奪い、ローテーブルに置く。ウルフウッドは空になった腕を見下ろし、指を軽く開閉させた。
 手持ち無沙汰になって困っている手首をつかみ、僕の項に導く。
「オンドレ、ワイの話聞いてへんやろ!」
「ちゃんと聞いてるよ」
 目が合うと、ウルフウッドは呼吸を止めた。
「台風が待ち遠しかったんでしょ」
 そのまま押し倒したけれど、抵抗はされなかった。


 台風が直撃した時間帯は豪雨と暴風で家全体が揺れているんじゃないかと錯覚するほどの騒がしさだったが、今は目に突入したのか凪いでいる。それももう暫くすれば喧しさが戻ってくるのだろう。ウルフウッドは床に転がったまま鼻を鳴らした。
 この家の台風は、タオルを取ってくると言って洗面所の方へ消えた。飄々とした表情だったのが腹立たしい。
 横向きに寝そべったままテーブルを見上げる。奪われたストームグラスが鎮座していた。テーブルの天板に遮られて下半分は隠れているが、こちらのことなど素知らぬ顔で、台風に大喜びして結晶を伸ばしているのは丸分かりだった。忌々しいと舌打ちをする。
 ドアが開く音がした。部屋の空気がわずかに動く。すぐ傍でヴァッシュがしゃがむ気配がした。
「お待たせ。拭いてあげるからこっちむいて」
「待ってへん」
 もともと背けていた顔をさらにそっぽへ向けた。ヴァッシュは構わず肩を掴み、仰向けに転がす。
 碧色の目と視線がぶつかった。外の台風と同じく、そこは静かで穏やかだった。ふんわりと優しく微笑む。
 ウルフウッドは諦め、溜め息と共に全身の力を抜いた。お湯で湿らせた温かいタオルが頬を撫でてきて、安心する。
 つまるところ自分もストームグラスと同じく、台風が近いと結晶が大きく育つのだ。

 進行方向とは九〇度外れた方角をヴァッシュは指差した。起きているんだか寝ているんだか判らないぼんやりとした顔でサイドカーに座っていたが、今はしっかりと目を開き、は滑舌もはっきりとしている。
「誰かいるよ」
 指の先には地平線しかなく、村の姿すらない。ウルフウッドはバイクを走らせたまま目を細めて誰かを見つけようとしたが、青空と砂しかなかった。片手をハンドルから離し、サングラスを親指で持ち上げるがやはり変わらない。進行方向に顔を戻す。
「気のせいやろ。あっちはワムズの通り道や、人がおるはずない」
 ワムズと人間はそれなりに共存できている。ワムズの活動エリアに踏み込まなければ案外大人しい生命体だった。代わりに縄張りを人間向けに開発しようものなら、子供が積み木を崩すようなあっけなさで破壊する。だから街もサンドスチームの類も縄張りを侵すことはしない。一人旅でもそれは同様だ。大きかろうが小さかろうがワムズは簡単に平らにならす。一人旅の場合は、単に人間が小さすぎて気づかずに轢き殺しているだけと分析されているが。
 なんにしろ、まともな人間なら行かないエリアだ。ウルフウッドは無視するつもりだったがヴァッシュは引かなかった。ウルフウッドを見上げる。
「でも青いなにかが沢山あるよ。キミを見つけた経緯も考えると寄らないわけにはいかないよ」
 ウルフウッドは唇を捻じ曲げた。あのときは一人でも生き延びることはできたが、喉の渇きを癒せたのは有り難かった。もし同じように行き倒れた人物が自分ではなかったら。度胸試しだとか正体をなくすほど飲む馬鹿はどこにでもいる。
 唇を捻じ曲げたままハンドルを切った。
 ウルフウッドには青い人影などちっとも見えなかったが、ヴァッシュは明確に捉えているようで、タイヤの方向を細かく指示した。しばらく走り続け、やっとウルフウッドにも青い物が見えてくる。
 本当に行き倒れがいたのだとスピードを上げたが、近づくにつれ、人でないことが明らかになった。シルエットが大きすぎるのだ。
 それなら引き返した方が理にかなっていると判断はできているのだが、青の正体が気になり進路を戻すことができなかった。青色の自然物はそうない。砂漠のド真ん中なら尚更だ。止めないということはヴァッシュも同じことを考えているのだろう。
 何メートルもある長い青の群れが鮮明になってくる。風に揺れる影の形まで捉えられるようなり、それらが何なのかやっと検討がついた。しかし予測を真実だと認めるのは難しかった。二人は無言のまま近づき、得体の知れない物体の目前でバイクを止めた。砂が舞う。
 果てしない砂色の中、青と緑のそれだけが幻のように浮いていた。
「なんやの、これ」
 砂漠のド真ん中としては、異質以外の何者でもない代物だった。
 地に根を生やし、水と養分を吸収する動かない存在。
 青い花。
 ウルフウッドはバイクに跨ったまま、自分の腰よりも低い花を見下ろし続けた。慎重に呼吸をする。これは本当に花なのだろうか。ジオプラントがどこかにあるとは思えない。幻影にしては出来すぎている。なんなのか、これは。
 警戒しているウルフウッドに対し、ヴァッシュはあっさりとサイドカーから降りて近づいた。真上から青い花を覗き込む。
「おい、なにしとんねん!」
「大丈夫だよ。これは多分、薔薇って花だと思う」
 なんとなく謎がひとつ解けた気がして、ウルフウッドはバイクから降りた。ヴァッシュの隣に並ぶ。
 青の群れからは初めて嗅ぐ匂いがした。強いていうなら甘い香りか。水分も含まれているようで、砂漠にいるにしては奇妙な感覚だった。その中に、皿の上に並ぶ青臭さと同じものも混じっている。これが植物特有の匂いなのだと理解した。動物とは違う生命の匂い。
「こないなところでも平然と咲く花なんか?」
「いや、むしろ育てるのは難しいって言ってた気がするけど……」
 やはり不可解な状況は変わっておらず、ウルフウッドは片方の眉をしかめた。
「なら、なんでこないなところにあるん」
 不可解は不愉快でもあった。
 花びらの青は深く濃く、空の清々しさとは似つかなかった。まったく違う色だというのに、どろりとした血液を彷彿とさせる。本物の花などほとんどお目に掛かったことがないせいか相容れない。異質なそれを睨み続ける。
 ヴァッシュは隣の警戒に気づいているのか無視しているのか、地面をブーツの爪先で叩いた。
「砂が固まってるね、なんだか黒いし。これが花を咲かせてるんだと思うんだけれど……」
 独り言ちながら地面の黒を目線で追う。てらてらと光る油に似た塊が溜まっている部分もある。黒い砂は広く長く伸び、曲がりくねり、巨大な縄を放置したようだった。この形と類似するものは一つしか心当たりはない。
「ワムズの死体跡、かなぁ」
 遙か先にまで続く黒い跡を見ながらヴァッシュは呟いた。そのうち青い花が咲いているのは半分ほどの範囲だろうか。
 ワムズの生態は知らない。しかし人の形をした存在とは言葉を交わしたことがある。ならば植物を生かす能力ぐらいあるのではないか。厳密には養分になるの方が正しいのか。ウルフウッドは片脚に体重をかけた。
「なら、ワムズから生えたっちぅんか」
「だとしたらもっと見かけてもいいと思うから、シップに積んでたのが奇跡的に生き延びたんじゃないかなぁ。青薔薇は自然界には存在しないって言うし」
「なんでや」
「青い色素がほとんどないって言ってたよ。だから淡いのしか品種改良では作れなくって、真っ青な薔薇は遺伝子組み換えでしかまだ存在してないって教えてくれたんだ」
 言ってた、教えた、誰が。
 ウルフウッドは動かず花を見下ろし続ける。
「イデンシ組み換えてなんや」
「えっとねぇ、平たく言うと人工的に無理やり作ったってことだよ。本来存在しなかったものを強制的に生み出すんだって。もちろん言うほど簡単には作れないんだけどね」
 ヴァッシュはしゃがみ、自分の両膝を支えにして頬杖をついた。花と目線の高さが揃う。穏やかに観賞する横顔を、ウルフウッドはサングラスの隙間から覗いた。
 この男は人間が強制的に作り上げた存在になにを思うのか。
 視線を花に戻す。
「青い花なんぞ拵えて何になるん? 食えるんか」
 真剣な問いにヴァッシュは吹き出した。子供みたいに純粋に笑うものだからウルフウッドの口角は厳しく下がった。ごめんごめんとヴァッシュは笑いながら手を振る。
「キミらしいなと思っただけだよ。これは食べられないよ。純粋に、眺めてて美しいなって、そのために作ったんだと思う。もしくは技術力の向上のためとかかな」
 ヴァッシュは穏やかな笑みのまま眼を細める。
「自然界にない存在だから、他の植物との交配は禁じられてる特別な花なんだって。偶然受粉しちゃうこともあるらしいけれど、新しい種から芽吹いた花がどうなるか予測つかないから、故意にやったらダメなんだって」
 ウルフウッドは疲れたように短い溜め息をついた。ヴァッシュがにっこりと微笑む。
「植物学者がどんな希望を抱いてシップに乗ったか判らないけれど、ここの先住民が育ててるのはその意思を引き継いでいるようで素敵だよね」
「育てる?」
 どこまで脳天気で都合のいい妄想に浸れるのだろうかこの男は。それとも韜晦しているのか。ウルフウッドの眉間に皺が寄る。
「ここで死んどるだけやろ、死んで地面がカチカチになるんやったら移動の邪魔やからな。目立つモンをマークにしとる。おセンチな感情なんぞあるわけないやろ」
 ヴァッシュは刹那目を見開いたが、反駁することはなかった。視線は地に落とすが笑顔で立ち上がる。
「夢がないなぁ。キミらしいけど」
「夢で腹が膨れるかいな」
 サイドカーへ未練なく戻る背中を、肩越しに振り返って見遣る。
「これどないするん?」
「どうって?」
「札束の山やろ。言うなれば」
 毒々しい青を一瞥する。
 この惑星で植物を手に入れるには、プラントに生産させるかジオプラントで整えた土壌で育てるしかない。無限の寿命を持たないプラントにただのお飾りを生産させるリソースはほとんどなく、そもそも生きたものは作り出せないようであった。根がある花は贅沢な高級品なのだ。それが数え切れないほどある。遊んで暮らすことに興味はないが、何かを考えることぐらいは普通ならばするはずだ。
 立ち止まったヴァッシュは首を傾げながら振り返る。本当に考えているのかポーズなのかは判らないが、やや間を開けてから脳天気に笑んだ。
「どうもしなくていいんじゃない? 僕達の手に余るし、奪っていいものでもないよ。だからこのまま」
 予想通りの答えであったし、自分が問われても同じ結論を述べたが、ウルフウッドは呆れてみせた。
「オンドレの見間違いのせいでガソリンも時間も浪費したわ。無駄骨やん。ほんっまオンドレと一緒におると損ばかりや」
「ええー。損は言い過ぎだよ、行き倒れがいなかったのはいいことじゃないか。それに、さ」
 ヴァッシュは軽く腰を折り、下からウルフウッドの顔を覗き込む。
「この花を見たことあるのが僕ら二人だけだったら、二人だけのヒミツができただろ」
 ウルフウッドは軽く顎と肩を引いた。サングラス越しに瞬きを一つする。イタズラっぽく笑うヴァッシュから視線を外すと早足で追い抜き、バイクへ向かった。
「嫌やわー。たらしやたらし。油断も隙もあらへんわ」
「何がだよー」
 追いかけてくるヴァッシュを無視し、先にバイクに跨った。サイドカーも埋まったことを確認すると、青い花の群れを見遣る。
 動かず、変わらず、せいぜい風に揺られるだけの存在だが、こんな旅を続けていたらもう二度とここには戻って来られないだろう。
 それは勿体無いことのように今更思えたが、無言でエンジンを掛け、バイクを走らせた。


 予定していた街に着くと腹を満たし、宿でツインルームを取った。ウルフウッドはまっすぐにベッドの一つに向かい、うつ伏せに倒れ込んだ。安い宿ではあったが粗悪ではなかった。長時間の運転で強張った筋肉をスプリングは柔らかく受け止めた。
 戦闘はなかったし簡単に疲れる体でもないが、食後にベッドの組み合わせは流石に効いた。瞼を閉じるのが心地よい。このまま仮眠を取ってしまおうか。
 倒れたまま動かないウルフウッドの足首をヴァッシュが掴んだ。膝を曲げさせて持ち上げ、靴を脱がす。両方共脱がすと揃えてベッドの下に置いた。ウルフウッドは動かなかった。ベッドのスプリングがもう一人の体重を支えて軋む。黒い前髪を細い指が梳いた。
「懐くな」
「いいだろ、少しぐらい」
 声色で不快さを表したものの、瞼を開けるまでには至らなかった。放っておけばやがて飽きるだろう。呼吸を深くする。
 ウルフウッドの意識がとろける頃、あやすだけだった指が意思を持った。額からこめかみ、頬へと滑る。頬を包む手の平の熱さと、こめかみの辺りで留まる指先が煩い。無視し続けると、甘ったるい声が落ちた。
「ねぇえ」
「嫌や」
「まだなにも言ってないよ」
「言っとる」
「じゃぁさ」
 ヴァッシュは背を丸め、顔を近づける。太陽と甘い匂いの体臭が強さを増した。ウルフウッドは咄嗟に息を詰めた。肩から手にかけての筋肉が硬直する。
 ヴァッシュの声に熱と湿り気が帯びる。
「どうして抵抗しないの?」
 睨んでやろうと瞼を開けた。緩やかに微笑む顔を眼球だけで見上げる。いつも通りの人畜無害そうな笑みの奥に、粘っこいものが潜んでいた。捉えて逃がさないと言わんばかりに見えない手が纏わりついてくる。
 温厚を通り越し、情けない印象さえあるこの男が我欲を出すのはこんなときだけだ。一体どれだけの人間にこの顔を見せたのだろうか。
 黙って睨み続けていると頬を包んでいた手が動いた。肩を掴み、仰向けに転がす。首筋を撫で、鎖骨を通り、ワイシャツのボタンを外した。ウルフウッドは睥睨するだけで抵抗しなかった。
 もつれ合うとヴァッシュはそのまま寝てしまった。散々人の体を好きにした獰猛さは消え、同一人物とは思えないほど健やかに眠っている。
 ウルフウッドは絡みつくヴァッシュの腕の中で体を反転させ、煙草とマッチを床に落ちたスーツの中から探して火を着けた。月明かりしかない青白い室内を紫煙が濁す。
 砂漠のド真ん中に生息する異質な青い花は、これからもワムズが生かし続けるのだろう。それぞれの意思に関わらず。シップが墜ちて、人間が欲のために作り上げた花は根付き、今日に至るまで残っている。
 ワムズの寿命など知らないが、星暦から計算すれば、自分の身を栄養として渡したのは一体か二体ぐらいだろうか。人間の寿命はもっと儚い。自分は何人目だろうか。
 煙草を持つ手をベッドの外に出し、ゆっくりと息を吐く。くだらないし意味のない疑問だ。本人に問えば渋々答えてくれそうだが、それで何かが変わるわけでもない。
 益体もないことで煩わせる男の呑気な寝顔を見ていると、鼻をへし折ってやりたくなる。
 寝て、明日になればこの苛立ちは忘れる。花を見つけたことも数年後には記憶に残らない。死ねば、自分が何代目のワムズだったのかも考えなくて済む。
 人間の単純さに縋り、煙草の火を床に押し付けて消し、瞼を閉じた。


 ご飯だよと呼ぶ声に起こされた。起きると、熟睡した子供みたいにさっぱりした顔のヴァッシュが立っていた。コートこそは着ていないが身支度は整えてある。自分がいるベッドに目を落とすと、掛け布団の上に新しい下着とスーツが畳まれて置いてあった。ヴァッシュが用意したのだ。
 下着を穿き、そのままテーブルにつこうとしたが、ワイシャツの袖に腕を通した。ボタンは留めずにテーブルへ行く。にこにこと立ったまま待っているヴァッシュとは目を合わせず椅子に腰掛けた。
「自分で作れば材料費だけでいいって言われたから作ってきたんだ。美味しそうでしょ」
 トレーにはトーストしたパンに野菜やチーズを挟んだ鮮やかなサンドイッチと、芳ばしい珈琲が二人分載っていた。几帳面な男らしく、具だくさんのサンドイッチには、崩れないようにピンを刺していた。
 しかしウルフウッドが目を奪われたのはそれではなかった。皿と皿の隙間にぽつんと立っている陶器の筒を凝視していた。布で造られた小指ほどの花が活けられている。
 造花と呼べるほど大した代物ではない。青いチェックの端切れとワイヤーをボンドでくっつけただけだ。葉脈もデザインされており丁寧な仕事ではあるが、売り物にはならない。
 ウルフウッドの視線に気付いたのか、ヴァッシュも椅子に掛けながら説明をする。
「ここの奥さんが趣味で作ってるんだって。たくさんあったから一つ借りてきたんだ」
「わざわざ青を選んできたん?」
「うん」
 晴れやかな肯定に力が抜けた。ウルフウッドの眉尻は下がり、唇も緩やかになる。
 トレーの上から自分の分のサンドイッチと珈琲を取った。ヴァッシュも同じようにして、二人の間に手製の花を置き、トレーを脇へよける。小さなテーブルを温かな陽射しが照らした。
「オンドレ、アホやアホやよぉ言われとるけど、やっぱりアホやなぁ」
「なんでだよ」
「いらんことばっかり覚えとるから」
「記憶力の話なら普通は頭いいって言うと思うんだけれど」
 いつだったか酒飲みの男も似たような指摘をしていた。さっさと忘れてしまえばいいと。
 対し、しつこく思い出すとヴァッシュは断言した。おそらく昨日一緒に本物の花を見たことも、こうして同じ色の花を飾ったことも、なにかの折に思い出すのだろう。それが苦しくなるだけのときがあると判っていても、それ以上の喜びがあると愚直に信じているのだ。いま一緒に食べている相手とのやり取りが遥か遠くの出来事になっても。
 さっさと忘れてしまえばいいとウルフウッドも思う。それは本気だ。だが覚えていたいという気持ち自体は不快ではない自分もいた。つまり自分も愚か者なのだ。
「アホと一緒におるとアホになるっちぅんはホンマやったんやなぁ」
「どういう意味だよ、それ」
 不服そうなヴァッシュに唇の片側だけで笑い、幸福そうに口を開いてサンドイッチにかぶりついた。

 賭け事で最も重要なのは引き際だ、とは誰の言葉だったか。誰でも良かったが一理あるとウルフウッドは評価していた。カモにされやすいタイプは皆同じだ。自分が乗せられている事に気づかないまま勝ち続け、ペテン師の仮面を女神が微笑んでいると勘違いして賭け金を増やし、脳みそが熱で馬鹿になったところでゴッソリと奪われる。
 今、目の前でカードを落とした男もその類だった。
 ウルフウッドは灰皿の中で死んでいる吸い殻を、数え棒代わりにテーブルに広げ、相手が支払うべき金額を口にした。先程までアルコールで顔を真赤にして豪快に笑っていた男も土気色に変わっていた。手品のように器用な体だと薄情なことを思う。だが一時とはいえ良い夢を見させてやったのだ、ちょっとした余興に金を払ったと思えばいい。劇団やサーカスと同じだ。
 ウルフウッドは新しく煙草を取り出すと、火を点けゆっくりと肺に満たした。演技の緊張が解けると途端に眠くなるが、ここで油断すると踏み逃げされる。ふてぶてしく煙を吐いた。
「財布、さっさと出しや」
 脂汗を浮かべるだけで動かない男に焦れ、空のままの相手のグラスをつかんでテーブルを叩いた。それなりに重たい音が響く。他のテーブルで酒を飲み交わしている客達が、話を続けながらもこちらに耳をそばだてている。見世物ではないのだが、わざわざ追っ払うのも馬鹿らしい。少なくともこちらは穏便に済ませたいのだ。
 ソーセージの残りを食べながら待ってやると、硬直した男は、意を決したとばかりに引きつった顔で前のめりになった。
「も、もう一戦!」
「また明日な」
 目も合わせずに断ると、脱力したように椅子に戻った。戻ったというよりは落ちたの方が適切か。ウルフウッドは口の端についた脂を親指の腹で拭う。
「無一文で賭け始めたわけやないんやろ」
 稀にそんな輩もいるが、こいつの賭け方にそんな度胸は見られなかった。全額は無理でもそれなりには持っているはずだ。
 血走った眼を彷徨わせていた男は、名案が閃いたとばかりに顔を上げた。自身の服を両手で慌ただしく叩き、目的の物を見つけると取り出す。
「代わりにこれでどうだ」
 突き出されたのは小瓶だった。黒く干からびた細長い物体が収まっている。持っている知識の中では萎びた人参を更に乾燥させた物に近いが、それでもこうはならないだろう。
 訝しげな視線に自信を得たのか、男の口は笑みを作った。
「これを売ればかなりの値がつくぜ。これで手を打たないか」
「なんやのこれ」
「プラントの肉片だ」
 反射的に体が退いた。ただの瓶だったはずだが、中でねっとりとした黒い靄が蠢いている代物に変わった。ベーコンが腐ったのとは訳が違うのだ。眉間に皺を寄せる。
「プラントなわけないやろが。仮にそうやったとしても、んなモンどないせぇっちぅねん」
「プラントの死骸は高値で売れるんだ」
 男は声のトーンを落とし、ひそめた。テーブルの上に両肘をつくと裏取引でも持ちかけるように猫背になる。
「もちろん生きてるのに手を出すヤツなんかいないさ。だが死んじまえば問題はないだろ? あれだけの力を持ってるんだ、死骸にだって養分がたっぷり詰まってるに決まっている。大っぴらに売ることはできないが、研究やコレクション目的で欲しがってるやつはゴマンといる。あとは万病を治す薬になるってぇ話だ。漢方薬ってやつだな。だが、高値がつく一番の理由は別だ」
 男は更に声量を絞る。酒で濁った眸が暗く光った気がした。
「肉片を摂れば不老不死になれるって話だ。金だけは余らしてる連中が、気も狂いそうなほど欲しがってる。なんてったって寝食もいらなくなるって話だからな。これを売ればさっきの賭け金なんて端た金だ。どうだ?」
 身を引いたまま、不穏な瓶に目を細める。
 プラントの死体処理の仕方は知らなかった。調べればすぐに判るのだろうが専門家に任せればいいことだ。たとえ厳重に保管されるモノだとしても、抜け道があるのはお決まりだが。何にせよ頭を使うべき場面ではない。
 ウルフウッドは視線を逸し、深く吸い込んだ煙を気怠そうに吐き出した。
「せやったら今から金持ちに売っぱらってきぃや、そのぐらいは待ったる。その前に、財布は人質として置いてき」
 当てが外れた男は息を止め、やがて諦めたのか肩を落とした。大人しく財布を取り出す。立ち上がる気配はない。
 ちまちまと小額の札を数え出すものだから、財布ごと奪って中身をいっぺんに広げた。擦り切れてヨレヨレになっている財布にしては肥えていた。賭け金と比べるとそれでも足りないが、こっちだってハナからそこまでのカモだとは思っていない。ウルフウッドの分を含めたこの店の払いだけを財布に戻して男のグラスの横に置いた。残りは自分の財布に食わせる。これも年季は入っているが太るとそれなりに映える。
 店を出ようと立ちかけたところで、男が空のグラスをテーブルに叩きつけた。威嚇や攻撃の意図はなく、ただの当たり散らしだったのだろう。繊細ではなかったが重厚でもないグラスは割れ、細かい破片が飛んだ。その一つがウルフウッドの指を切り、裂けた皮膚から一条の血が流れた。それだけだ。男がなにもしてこないのを確認すると、手を振って血を払った。かすり傷とも呼べない程度だ。
 ウルフウッドは財布をしまうと男を一瞥もせずに店を出た。
 宿に戻ると、ヴァッシュが上半身裸のまま濡れた髪をタオルで拭いていた。こちらを見ると朗らかに微笑む。機械の片腕は外したままだった。ウルフウッドの眉が曇る。
「……負けたの?」
「勝ったわ。大勝ちや」
 舌打ちするとドアを強く閉め、傍の壁に立ったままもたれた。その割には機嫌悪いねぇとヴァッシュはのんきに述べる。ウルフウッドは鼻を鳴らした。
 この男の体は見栄えが悪い。抉れた深い傷、無骨なネジ、金属のプレート、失った片腕。名誉の勲章と言うには脳天気すぎる顔をしている。間抜けな事故に遭ったという態だ、見ていて楽しいものではない。食用に加工しても筋ばかりで不味そうだ。こんな肉のどこに価値があるというのか。
 水気を拭き取ったヴァッシュは義腕を手にした。足りない部分を補おうと左腕にあてがう。
 その背後にウルフウッドは音もなく立った。ヴァッシュは首だけで振り返り、瞬きをする。
「なに?」
 この男の意志に興味はない。目を合わせず口を大きく開き、剥き出しの肩に歯を立てた。僅かだが血の匂いと味が広がる。
「ぎゃぁぁっ!」
 予想していたより大きな悲鳴に驚き、離れた。歯型が残った肩には、八重歯二本の位置でぷっくりと血が球を作っている。垂れるほどの量ではない。この男は大げさすぎるのだ。
 肩に触れたヴァッシュは、赤いシミができた指先を見ると嘆いた。
「動物じゃないんだから不満があるなら口で言いなよ。なんで嫌がらせしたの」
「別に」
 ウルフウッドはベッドの一つに仰向けに倒れ込んだ。片手をかざす。鉄の味が残る牙を舐めた。血が滲んでいる傷は消えない。
「こんなんで不老不死になったら苦労せぇへんと思っただけや」
「はぁ?」
 怒っているヴァッシュには取り合わず、ウルフウッドは溜め息と共に瞼を閉じた。

「なんで食べてるの」
 マグカップを持ったまま僕は固まってしまった。この世の物理法則を無視しているような奇妙奇天烈な光景に直面したわけではないのだけれど、目の前で起こっているのはそれに近い状況だった。
 今日は職場でケーキを貰ったのだ。豪華なホールサイズじゃなくって、一切れの小さなチョコレートケーキだ。同僚のミスをフォローしたらほんの気持ちだけどってくれたのだ。それを食べるのを楽しみに、小さな箱を大切に抱えて帰宅した。
 先に帰宅していたウルフウッドは寝間着に着替えて寛いでいた。髪が濡れているからお風呂はもう入ったのだろう。缶ビールのプルトップはもう開封済みで、ぼんやりとテレビを見ている。僕の帰宅に気付くと挨拶というよりは生返事のようなものをした。
 僕はテーブルにケーキをひとまず置いて、キッチンでケトルにお水を注いで火にかけた。小皿とフォークを持ってテーブルに戻る。ケーキを箱から皿に移してお湯が沸くのを待った。
 コーヒーを淹れることが一番多いのだけれど、ケーキならやっぱり紅茶だろうか。ティーバッグだけれどアールグレイがあったはずだ。頃合いを見てウキウキとキッチンに戻る。棚を探すと期待通り紅茶が出てきた。沸騰する前に火を止め、自分のマグカップにお湯を注いだ。ティーバッグを入れてケーキの元へ向かう。
 一番大好きなのはもちろんドーナツだけれど、仕事で疲れた体には甘い物全部が沁みる。チョコレートケーキだって仕事の後のご褒美としてはやっぱり嬉しい。口の中にはもう唾液が出ている。
 鼻歌でも奏でたくなる気分でテーブル前のソファにたどり着き、硬直した。息を止めて同居人を凝視する。慎重に、時間を掛けてだ。でもどれだけ見つめても当たり前ながら彼は彼だった。
「なんで食べてるの」
 何が起こったかはご想像の通り、そういうことなのだ。
 僕は衝撃のあまりマグカップをテーブルに置く余裕すらなかった。つまらなそうにテレビを見ながら勝手にケーキを食べているウルフウッドはぼんやりと僕を見上げたけれど、ケーキにすぐ戻った。一口が大きい彼はもう半分ほど胃袋に収めている。慌てて隣に座って顔を近づける。
「それ僕のなんだけど!」
 抗議なんかちっとも聞こえていないみたいだ。まるでそうしろと誰かに命じられたかのように黙々と食べ続けている。頭でも打ったか宇宙人に体を乗っ取られたのだろうかと、怒りは心配へと変わり、おずおずと顔を覗き込む。彼は相変わらず無表情だ。
「キミ、甘いの嫌いだったよね?」
「コーヒー」
「え?」
 ウルフウッドはマグカップの中身を窺うと興味なさそうに顔を背けた。もう一度同じ言葉を繰り返す。どうせなら紅茶もどうぞ奪ってと、マグカップを目の前に置いてみたけれど眉すら動かさなかった。大仰に溜め息をつく。
「もう、ちゃんと味わって食べてよね」
 諦めて立ち上がると、もう一度お湯を沸かしにキッチンへ戻った。


 ウルフウッドのあれは、不定期に訪れる僕への嫌がらせかと思ったのだけれど、ケーキを食べた以外は至っていつも通りで拍子抜けした。イタズラしやすいように隠れて様子を窺ったのだけれど、のんびりと自分のことをしているだけだった。無意味に足でちょっかいを出してくることもない。なら違う理由で彼は僕のケーキを食べたのだ。
 もしかしてケーキそのものに反応したのだろうかと、ショートケーキを二つお土産として持ち帰ってみた。一つのマグカップに紅茶を淹れて、もう一つにノンカフェインコーヒーを淹れる。声をかけることはしなかったけれど、ケーキを載せたお皿にフォークを添えて置いといたら自動的にウルフウッドが寄ってきた。あからさまにじっと観察するけれど、僕の視線など意に介さず黙って食べ始める。甘いなどと文句も言わない。いつもの退屈そうな顔を見つめる。
 急に味覚が変化するなんてことがあるんだろうか。真っ先に閃いたのは催眠術だけれど、どっかで掛けられたなんて話は聞いていない。他には、と考え一つ思い至る。両膝で頬杖をつき、手を組んでそこに顎を乗せた。深刻な表情を作る。
「もしかしてキミ妊娠した?」
「救急車は自分で呼べや」
 なんとなく優しい口調だったけれど、それ以上は相手にしてくれなかった。
 他のお菓子でも試してみた。まずはミルフィーユ。ショートケーキと同じようにお皿に出して置いといた。ウルフウッドは一瞥はしたけれど、それだけで近寄ってくることはなかった。こちらから促す。
「食べないの」
「食べへんよ」
「なんで」
 テレビから顔をこちらに向けたウルフウッドは、邪魔するなとばかりに眉間に皺が寄っていた。
「んな洒落た食いモンいらんわ」
「洒落てるかなぁ」
 どこのお店でも置いてある種類だと思うんだけれど、とたっぷりのカスタードとサクサクのパイ生地とてっぺんに乗っている赤いイチゴを見下ろしながら呟いた。なんとなくきらきらしているそれは、甘い物に興味のなかったウルフウッドからすれば珍しいのかもしれない。ウルフウッドとミルフィーユの組み合わせはアンバランスで可愛らしいと思うんだけれど。
 仕方なくミルフィーユは二つとも僕が食べた。
 ケーキ以外にも興味を示すだろうかとチャレンジしてみて、成功したのはシュークリームとプリンだ。これはケーキ屋さんじゃなくて市販されているタイプだったけれど、そこにこだわりはないようでテレビを見ながら黙々と食べていた。カスタードを口の端につけているのが可愛くって、隣から指で拭ってそれを咥えたら、犯罪者でも見るような目で引かれた。長いこと一緒に暮らしているのだからいい加減懐いて欲しい。
 妙な反応をしたのはマカロンだった。これも知名度はあると思ったんだけれど、ウルフウッドは初めて見たようだ。
 箱に入っているままだと絶対に食べないだろうと、出して小さなお皿に乗せた。ふんわりとしたパステルカラーは優しい雰囲気で、僕はスマホを持ってきてカメラで撮った。そのシャッター音でマカロンに気付いたのだろう。ウルフウッドは見るなり首を傾げた。僕はゆっくり観察するためにお茶を淹れるフリしてキッチンへ隠れた。そこからひっそりと窺う。
 とりあえず食べ物らしいと認識したウルフウッドはマカロンを睨みつけた。腰を折って鼻を近づける。くんくんと動物みたいに鼻が動くのだから面白い。かすかに甘い匂いがする程度のはずだけれど、未知の物体に好奇心が疼いたのか、ピンク色のをつまんで恐る恐るちょびっとだけかじった。渋みはまったくないはずなのに、苦いものを口にしたように顔の中心に皺を集めてすぐに戻した。テーブルから離れる。マグカップを持って戻った僕は一応ウルフウッドに食べないかと勧めてみようかとも思ったけれど、無視されるに決っているのでやめといた。
 スタンダードな甘い物は食べるってことが判ったけれど、お酒があるときはやっぱりそっちの方が好きらしい。
 今日は自分で酒瓶とグラスとビーフジャーキーを用意して飲んでいた。僕が買ってきた小さなミルクレープを二つに切ってお皿を二人の間に置いたけれど、見向きもしてくれなかった。最後まで食べなかったら自分で食べよう。
 僕もお酒を分けてもらいつつ、フォークでちょっとずつミルクレープを食べる。
「ねぇ。なんで甘い物好きだって気づいたの」
「別に」
 ウルフウッドは牙でジャーキーをちぎり、アルコールを口に含む。
「前に家に帰ったやろ。そんときケーキを仰山持ってったんや」
 家とは彼が育った孤児院のことだ。自分が小さかった頃はあんまりオヤツが食べられなかったため、たくさんお菓子を買って行くことがある。しょっちゅう孤児院に寄るものだから彼の言う前がいつのことなのか判らないけれど頷いて続きを促す。
「人数分買うてったんやけどな、ワイの分がないと判るとちっこい妹が分けてくれたんや、いらん言うたんやけど。したら案外美味くて。なんでやろてしばらく考えとったら、家で食うのは美味いんやなって」
 ガキん頃は食っとったからかな。とビーフジャーキーを咀嚼しながら素朴に呟く。お酒を飲んでいるくせにあまりにも幼い雰囲気だったので顔を覗き込んだ。不愉快そうに眉をしかめられる。
「なんやねん」
「ここで食べるのも美味しい?」
「そう言うたやろが」
 鬱陶しい、という感情を微塵も隠さない声色だったけれど、愛おしくて仕様がなくって頭を撫でた。ウルフウッドは抵抗はしないけれど唇を尖らせる。
「なんやの」
 迷惑そうだけれど満更でもない声だ。わしゃわしゃと撫でるのを続ける。
「なんやのっ」 
 やめもしなければ理由も言わないからちょっと怒ってきた。もう少し続ける。
「なんやのっ!」
 本当に怒ってきた。引き際だろうと腕を下ろし、笑いかけた。
「キミがそう言ってくれて嬉しいなぁって」
 ちょっと照れくさかったけれど素直に告げると、ウルフウッドは僕のせいで髪が乱れたままフンッと鼻を鳴らした。ミルクレープをちらりと見て、グラスに口をつける。
「いちいち大げさや」
 彼の中では、大げさなことではないらしい。


 この日はウルフウッドの方が帰りは少し遅かった。リビングへ続くドアが開かれる音がしたのでおかえりと声をかける。揚げ物をしている油の音に惹かれたウルフウッドは、ネクタイを緩めながらこちらにやってきた。鍋の中とクッキングペーパーを敷いた皿の上を見やる。
「……メシとちゃうやん」
「もうちょっとでできるから待っててね」
 メシはと重ねて訊くのでこの後作るから洗濯機を回してくれと頼んだ。もう一回ぐらい小言を呟かれるかと予想していたけれど、素直に退散してくれた。僕は目の前の揚げ物に集中する。
 ウルフウッドは迷ったようだけれど、ビールとソーセージを冷蔵庫から出した。僕の分はと鍋から離れずに問うと、それがあるやんと素っ気なく返された。
 調理が終わると成果を二つの皿に分けた。もちろん僕の分とウルフウッドの分だ。目の前に置くと案の定嫌な顔をされた。コーヒーを飲むかと訊いたらその顔のまま頷いた。ノンカフェインのを二つ淹れて戻った。ウルフウッドは奇っ怪なものと対峙するように目を細め、皿と目線の高さを合わせている。水槽に入っている蛇を観察している子供みたいだ。
 マグカップを彼の近くへ置いた。
「ただのドーナツだよ。食べなよ」
「なんでチョコかかっとんの」
「そりゃぁバレンタインだからね、今年は忙しくてデートできなかったから」
 ウルフウッドは眉間に皺を寄せ、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「メシの前にオヤツ食うとおばちゃんに叱られるんやで」
「そうだね。でも僕らはもう子供じゃないからね」
 ウルフウッドは手作りのドーナツをつまむと豪快にかじった。肉にかぶりついているみたいだ。咀嚼するうちに眉間の皺は薄れていき、小さく頷く。途中でほっとしたように息を吐いた。
「悪ぅないで」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
 彼が食べる姿を僕は上機嫌に眺めた。



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