たまたまチョコを食べていたのがきっかけだった。
 一口サイズのチョコを口に入れているとき、ソファを背もたれにして床に座っていたウルフウッドが呻き声を絞り出した。ゴーストに生気でも吸い取られているかのような濁った声だ。仰け反った顔を、ソファに腰掛けていたヴァッシュが背中を丸めて覗き込む。
「大丈夫?」
「疲れた」
 彼らしくもない素直な愚痴だった。
 新年を迎える以前から大きなプロジェクトが始まったのだという。社内を走り回るのはもちろんのこと、外出や出張も多い。動き回るだけなら体力のあるウルフウッドはこなせただろうが、ミーティングの回数も格段に増え、こちらがウルフウッドを参らせた。考えるよりまず本能で動く男だから、神経のすり減り方が大きいのだろう。
 ヴァッシュは口の中のチョコを転がした。
「ハグしてあげようか」
「いらん」
「じゃあチョコ食べる?」
「……食う」
 提案しておきながら予想外の回答に面食らった。幻聴だったのかと目を瞬かせる。ウルフウッドは不機嫌そうに見上げてくることをやめなかったから、事実で間違いないようだ。ヴァッシュは箱をスライドさせチョコを一粒取り出す。
「疲れてるときに甘いものはいいからね」
 鬼の霍乱、悪魔も日射病にかかる、ウルフウッドもチョコを欲する。
 本人に聞かれたら怒られそうなことをこっそり胸中で呟きながら、チョコをウルフウッドの方へ差し出した。途端に、あぁ? と借金取りのようなドスの利いた声で威嚇してくる。心の声が洩れてしまったのか。ウルフウッドの眉が釣り上がる。
「疲れとる言うてるやろ。なにこれ以上働かそうとしとんねん。気の利かんやっちゃなぁ」
「ええっ」
 驚いたのは理不尽なことを言われたからではない、食べさせろと命令してきたからだ。ヴァッシュはピラニアが生息している池でも覗き込むように恐る恐るウルフウッドを見下ろした。よく観察すると瞼のあたりに疲労が溜まっており鈍い目つきになっている。前言を撤回するつもりはなさそうで、病気ではないようだが、症状は重いみたいだ。
 天から硬貨、いや瓢箪から駒だろうか。
 気が変わらないうちにと、口の真上にチョコを持っていった。ウルフウッドはそれに合わせて大きく口を開く。
「……あーん」
 反抗されることも覚悟したが、チョコを落としても動かなかった。口を閉じ、噛む。あっま! と文句を言っただけだ。
 噛んだのは一度きりで、あとは自然に溶けるに任せたらしい。眉間にシワを寄せたまま瞼を閉じる。ヴァッシュはそのシワを伸ばそうと人差し指と中指で撫でる。すぐに腕を叩かれた。これは気分ではないらしい。
 黙って見守っていると、怒っているような鼻息は寝息へと変わった。ゆったりとしたリズムになっている。ヴァッシュは起こさないようにそっと指先で黒髪を撫でた。
「お疲れ様」
 ウルフウッドの眉間のシワは徐々に薄れていった。


 次の日には別のチョコを買って帰った。二日連続で気まぐれを起こしてくれる保証はなかったけれど、食べてくれなかったら自分が食べればいいだけだ。あとはどのタイミングで与えるかだ。
 僕の帰宅よりもウルフウッドの方がプロジェクトを終えるまでは当然遅く、ご飯も外で食べてくる。食後のおやつと容易くはいかない。
 ヴァッシュは先に食事を済ませシャワーも浴びた。ウルフウッドがいないと時間の経過は遅く、やりたいことも沢山あったはずなのに妙にやる気が出ない。端的に言ってしまえば張り合いがない。早くプロジェクトとやらが終わってくれないだろうか。
 ソファで帰りを待っていたらいつの間にか寝てしまったらしい。目を開けるとウルフウッドの背中が見えた。髪が濡れていて、肩にタオルを掛けている。テーブルの様子を伺うに、どうやら晩酌をしているようだ。
 ヴァッシュは手を伸ばそうとして、毛布に包まれていることに気づいた。彼の手間を減らすつもりが、うっかり増やしてしまったらしい。情けなさから鼻まで毛布にもぐる。
「……おかえり」
「起きたんか」
 つまみのスモークチーズを咥えたままウルフウッドが振り返った。表情は明るく、今日は元気そうだった。そのことに安堵する。
「チョコ食べる?」
「いま酒飲んどるんやけど」
「知ってる」
 ウルフウッドは面倒臭そうに、テーブルの隅に置きっ放しにしていたチョコの箱へと手を伸ばした。毛布越しにヴァッシュの胸元へ投げる。彼が帰宅する前にいくつか食べていたため封はもう開いている。
 ヴァッシュは億劫そうに毛布の下から両手を出し、もたもたと一粒取り出した。包み紙をほどき、背中をソファから引き剥がしてウルフウッドへ腕を伸ばす。
「あーん」
「これ終わったらベッド行きや。運ばんからな」
 鬱陶しそうに目を細めるくせに今日も素直に口を開けてくれたのが嬉しくって、チョコを食べさせた後は再び毛布の中へ緩んだ顔をもぐらせる。チョコを噛み砕くウルフウッドは鼻の頭にシワを刻み、怪訝そうな表情をした。
「甘いんか苦いんか、変な味やな」
「昨日のとは違うブラックチョコだよ。砂糖は入ってるけどミルクが入ってないんだ」
「ふぅん」
 もうとっくに噛み切ったはずなのに、いつまでも口の中を動かしている。味わっているというより掃除をしているようだ。
「もう一個食べる?」
「いらん。ちぅかさっさと寝ろ言うてるやろ」
「一人で寝るのは寂しいだろ」
 だからもう少しキミを観察すると告げてソファに居座った。


 それから数日はブラックチョコを与えていたのだけれど、飽きてきたようなのでまた新しいチョコを買ってきた。こっちの方が気に入るはずだ。
 ここしばらくの習慣通り、先にシャワーを済ませて一人で食事をする。洗い物を済ませた頃にウルフウッドは帰ってきた。シャワーが面倒だという彼をなだめてバスルームへ押しやる。シャワーを浴びる条件として提示した酒とつまみの準備を始める。その中に当然のようにチョコのパッケージも混ぜた。ヴァッシュが食べさせるため未開封の状態だ。丁寧に皿の上に出しておいても自主的に食べることはしないのだけれど、箱からチョコを取り出す手つきをウルフウッドが何か期待でもしているような視線で観察するのが面白くって、フィルムが巻いてある状態で用意しておく。
 シャワーで汗も機嫌の悪さも洗い流したウルフウッドは、スッキリした表情で濡れた頭を拭いていた。テーブルの上の酒を確認し、つまみへ視線を移し、最後にチョコを見遣る。
「昨日と違うやつやな」
「うん。こっちの方が君の好みだと思うよ」
 ウルフウッドが腰を落ち着けた隣でパッケージを手にする。フィルムの端っこを爪で引っ掻いて剥がす仕草を、ウルフウッドは未知の動作のように見つめていた。ヴァッシュは小さく笑みを乗せる。これは個別包装していないタイプだから、ケースをスライドさせると敷き詰められたチョコがすぐに現れた。一粒取り出す。
「はい、あーん」
 酒を飲むより先に素直に口を開けてくれた。ここのところ毎日食べさせているからか、チョコを食べさせてもらうことに対する抵抗は皆無らしい。口の中に押し込むと、ウルフウッドはすぐに噛み砕いた。
「……ん、酒?」
「そう。ラム酒が入ってるチョコだよ」
「こういうんがあるんやったらさっさと出せぇや」
 一口サイズのチョコに含まれたアルコールの量なんて微々たるものだけれど気に入ったらしく唇が綻んだ。機嫌良さそうに缶ビールのプルトップを開ける。それに口をつける前に、やたらと憂えしそうなヴァッシュに気づき睥睨した。
「なにニタニタしとんねん」
「なんか小動物みたいで可愛いなぁって」
「はぁ?」
 缶を握ったまま動きを止めた。アルミがへこむ嫌な音がする。飲むことより小動物という発言の方が気になったようだ。無言で先を促すが、ヴァッシュは悪びれもせずに笑顔のままだ。
「ほら、動物って餌を目の前にやると口を開けて食べようとするでしょ。それに似てるなぁって」
 ウルフウッドは片眉を上げると牙を剥いた。挑発するように笑う。
「はっ、誰が小動物や。そうやって油断しとると指食い千切られるで」
「じゃあ食い千切ってみる?」
 チョコを新しく出し、ウルフウッドの口元にまで持っていった。唇とチョコが触れる。そのまま数秒経っても口は開かない。ヴァッシュは穏やかに見つめていたが、ウルフウッドは顔を逸らした。
「ンな甘いモン仰山食えるか」
 ずっと持っているだけだったビールにやっと口をつけた。一気に煽る。ヴァッシュは肩を竦めてチョコを自分の口に放った。
「明日の分もとっときや」
「あ、明日も食べるんだ」
 その呟きに対する答えはなかった。


 これまで買ってきたチョコの中ではアルコールを含んだのが一番好んでいたから、今日もそういうのがいいだろうと、いつもよりだいぶ予算をとって一箱用意した。今日もウルフウッドは遅い。いつもなら玄関が開く時刻に長針と短針がたどり着いても家は静かだった。
 退屈を持て余したまま一人で待っていると、長針が予想より一周多く歩いてからウルフウッドが帰ってきた。今日は上機嫌だ。飲んできたのか顔が赤い。惜しみなく笑顔を振りまく。
「ただいま」
「はいはい、おかえり」
 ソファに座ったまま、両腕を広げてハグを要求する。ウルフウッドは鞄を床に置き、ネクタイを緩めた。
「そんな気分やないんやけど」
「僕がハグして欲しいの」
「しゃーないなークソガキが」
 アルコールでよほど機嫌がよくなっていたのか、気前よくハグをしてくれた。ぽんぽんと背中を二回叩いてくる。
「お酒臭い」
「飲んできたからな」
 離れると大きく息を吐き、ネクタイをするりと解いた。ソファにどかりと座り、背もたれに両腕を回した。天井を仰ぐ。
「お水取ってこようか?」
「ん」
 コップに水を汲んで戻ってくると、ウルフウッドは先ほどと同じポーズのままうつらうつらとしていた。頬骨をつついて起こす。
「寝ないでよ」
「ええやん。どーせトンガリがベッドまで運んでくれるんやろ?」
「こんなときだけ甘えないでよね」
 それでも水を飲むと多少は回復したようで、座りなおすと焦点がはっきりとした。コップの中身を飲み干す。
「今日もチョコあるんだけれど食べる?」
「食べたってもええよ」
 クッションの裏に隠していた箱を取り出す。いつもみたいな手頃なお菓子の箱じゃなくって、上質な紙で作られたボックスに赤いリボンが掛かっている、ひと目見ただけで高級なそれと判る代物だ。酔っているウルフウッドは、無遠慮にヴァッシュの肩に体重を預けて手元を覗き込む。
「どないしたん、それ」
「買ったんだよ」
「無駄に奮発したなぁ」
「無駄じゃないよ」
 膝の上で丁寧にリボンをほどき、小箱を開ける。中には宝石のように愛された一口サイズのチョコが四つ、仕切りの中で行儀よく食べられるのを待っていた。豊かな香りが広がる。四つとも形は違うがどれも美しい。
「紙皿に入っとるで。ベントーのおかず入れるヤツみたいやな」
「もっと他に言い方あるだろ。ほら、これがブランデー入ってるんだってよ」
 口元にチョコをやっただけで、何も言っていないのにウルフウッドは口を大きく開いた。酔っているせいか指まで咥え、ちゅっと音を立てて顎を引いた。いつものように噛み砕く。
「どう、いつもより美味しい?」
「せやなぁ、多分」
「贈り甲斐ないなぁ」
 小箱はそのままにして、肩にもたせ掛けている頭を撫でる。気持ちよさそうに瞼を閉じた。このまま寝てしまいそうだ。
「ねぇ、僕にはなにかないの」
「あらへんよ。なんでや」
「だって今日はバレンタインじゃない」
「あ?」
 ウルフウッドは眠さを押しのけて瞼を開けた。すぐ間近にヴァッシュの顔があるが、近すぎるせいかアルコールのせいかピントが合わない。怒っているわけでも拗ねているわけでも呆れているわけでもなさそうだったのは判った。ヴァッシュは首を傾げる。
「僕にはなにもくれないの?」
 肩に頭を預けたまま視線を下げた。黙っていると頭を優しく撫でられる。どこを見ればいいのか判断つかないまま目を彷徨わせた。
「トンガリが何か欲しいて言うことなかったやん。オンドレが勝手にすることはあったけど」
「うん。今日も別に強制はしてないよ。訊いただけ」
 しばらく俯いていたウルフウッドは長く沈黙を続けたが、静かに顔を上げた。
「……欲しかったん?」
「あったら嬉しかったかな」
 再び俯く。バレンタインというのはウルフウッドにとってはほぼ無縁のもので、子供の頃に孤児院の家族から貰う程度だった。今の職場には義理チョコの文化もない。これまでヴァッシュに何かを言われることもなかった。それは怠慢だったのだろうか。
 ヴァッシュは不服に思っていたらちゃんと言うだろう。甘いがそのぐらいのことはできる男だ。ただ今日は、少しぐらいは期待していたのかもしれない。
 ウルフウッドはヴァッシュの膝へ腕を伸ばし、赤色でコーティングされたハート型のチョコをつまんだ。自分の口へ放り込む。一度だけ噛むと中から柔らかいチョコがあふれた。ヴァッシュの両頬を手で挟み、唇を押し付け、舌でチョコを押し込む。驚いた気配が伝わったけれどすぐ腰に両腕が回った。顔を離す。
「これでええやろ」
 羞恥心から体を離そうとしたがヴァッシュは許さなかった。唇をもう一度重ねてくる。逃げようとすると後頭部に手を回された。渡したチョコが返ってくる。それで終わりかと思ったが舌は居座っている。人の口の中でチョコを味わってくるから腹立たしい。溶けきるまで離さないつもりか。それならさっさと食べきってしまいたいのだが、ヴァッシュの舌が邪魔で噛みづらい。
 やっと解放されたと思ったらただの息継ぎで、少しずつ噛み砕くしかなかった。固形物がなくなっても歯の窪みや裏側にこびりついたチョコを舌が丁寧に拭う。背中を叩いて抗議しても無視された。
 ヴァッシュの気が済んだのは口内からチョコの名残が完全に消えてからだ。ウルフウッドは熱い息を吐く。
「しっつこいねん! ダアホ!」
「だって足りなかったんだもん」
 ヴァッシュは涼しい顔で自分の唇を舐める。自分だけが精一杯だったのが屈辱的だ。悪態をつき、さっさと寝てしまおうと背広を脱ぐ。
 その様子を眺めながらヴァッシュは目を細めた。わずかに身を寄せる。
「ねぇ、あと二つ残ってるんだけど」
 絡みつく視線を無視して、スラックスを蹴飛ばすように脱ぎ捨てた。
「チョコは一日一粒って決めとったやろが!」
「じゃあ残りは明日と明後日だね」
 ヴァッシュは大切そうに小箱へ蓋をした。
スポンサーサイト

「しばらく遠くに行くことになっちゃった」
 会社から帰ってくるなりヴァッシュはそう告げた。鼻まですっぽり覆っていたマフラーを取り、丁寧にたたむ。先に帰っていたウルフウッドは、ソファから感慨もなさそうにその様子を眺めていた。ヴァッシュの両肩は分厚いコート越しでもガックリと落ちているのが判る。
「……とうとう左遷か」
「違うよ! 出張!!」
 不名誉な勘違いにはさすがのヴァッシュも怒った。鼻息荒く、乱暴にコートを脱ぐ。
「一週間北の方に出張することになったの。冬なのに北に行けってひどいよね」
「土産は地酒でええよ」
 ウルフウッドっはさっさとテーブルの上に広げていた酒とつまみに顔を戻した。サラミを手にすると口に放る。素っ気ない態度はいつものことだ。ヴァッシュは隣に座ると、遠慮なく両腕で抱きついた。
「だから一週間分の補充—」
「ガキやないんやからシャキッと行けるやろ」
 最初から甘やかすとすぐ調子に乗るのだ。冷たい態度で丁度バランスが取れる。放置していると、抱きつく強さそのままに体重をかけてきた。肘掛けとヴァッシュに挟まれて潰れる。それでも構わずにいるとぐりぐりと頭を押し付けてきた。甘やかさない程度で引き下がるような男ではないのだ。
 ウルフウッドは鼻から諦めの溜め息をついた。片手でおざなりに金髪を撫でる。
「ガキか」
「極寒の地で一週間乗り切るにはこれが必要なの」
 拗ねた子供の口調だったが、相手されて満足なのか抱きついてくる圧力は弱まった。リラックスしたように瞼を閉じる。ウルフウッドは指で梳ながら、金髪の中なら白髪は見つかりにくそうだなどと関係のないことを考える。
「そうだ!」
 勢いよく頭を上げたヴァッシュに驚き、ウルフウッドは手を引っ込めた。何事かと細かく瞬きをする。澄んだ碧色の双眸には珍しく真剣な光が眩しく宿っていた。真っ直ぐに黒い眼子を貫く。
「今夜はいっぱいえっちしようね、充電のために!」
「出張は明日からとちゃうやろ」
 ウルフウッドはバッサリと切り捨てた。


 出張当日のヴァッシュは面倒臭かった、というのがウルフウッドの正直な感想だ。いつもより着込んだヴァッシュのシルエットはもこもこと丸く愉快だったが、靴を履いてから家を出るまでに三〇分もかかった。別れの挨拶と、何故か戸締まりの注意と、ハグと両頬のキスと唇へのキスを丹念に繰り返されたのだ。
 休日であったウルフウッドは早くベッドに戻って二度寝したい気持ちもあったけれど、真面目に仕事に取り組む男にそれは酷な態度だろうと、満足するまで付き合ってやることにした。いつもはされるがままだったこともあってか、特別にハグを返してやったのは効果が大きかったようで、メソメソしていたヴァッシュは笑顔で手を振りながら家を出た。それを見送ったウルフウッドも、呆れを滲ませながらも柔らかい微笑みだった。
 その後予定通りに二度寝しスッキリと目覚めると、ちょっとした解放感が満ちていた。久しぶりの一人暮らしに、自覚していた以上の期待が発芽したらしい。ヴァッシュは決して神経質な方ではなく、ウルフウッドも大抵のことは自分でこなしていたため二人暮らしに窮屈さを感じたことはなかったが、スムーズに生活するための遠慮ぐらいはしていた。この一週間ぐらいは意図的に自堕落な生活をしてもいいはずだ。
 ヴァッシュからまめに連絡があったため日常の延長線という雰囲気は免れなかったがベッドは広々と使えた。食事の内容も就寝時間もわざとズラした。どちらかというと両親が不在の子供のようであったが、ちょっとした非日常に変わりはない。
 順調な一人暮らしだったが、三日目から違和感を覚えた。何かが足りない。
 酒と煙草は充分用意してあるし、食事も支度こそは手を抜いているものの量は不足していない。ならば睡眠時間だろうか。
 眠気はないのだが、とソファに凭れたとき唐突に気がついた。自分を動かす部品が足りていないのだ。どうして思い至らなかったのか自分でも不思議だ。そこにあるのが当然だと慣れきっていたのだろうか。
 背中で潰した二つのクッションのうち、赤い方を引っ張り出した。普段はヴァッシュが使っているため二つとも独占し続けるのは彼が不在のときでないとできない贅沢だ。
 赤い無地のクッションは受け止めた体重で歪な形になっていること以外は正常だ。中綿がヘタれているわけでもない。だが、と顔面に押し付ける。
 嗅ぎ慣れている匂いが薄れていた。いつもどこかしらに漂っていたあの匂い。ゼロではないが鼻を近づけないと判らないほどだ。
 自分の行動から我に返り、驚愕した。絶望とともにクッションを手放す。今は空っぽのソファの半分へぽとりと落ちた。ウルフウッドはそこから体ごと目を逸らす。
「ワイはそこまでベッタベタとちゃうわー」
 誰も聞いていないのに言い訳するのは白々しいと自覚してはいる。それでも言わないと落ち着かないと思ったのだ。結果は、言っても落ち着かなかった。恥ずかしさも物足りなさもそのままだ。
 どうすればこの呪いから救われるのかと眉間にシワを寄せていたが、ふと閃いた。物足りなさだけなら補えそうだ。だがその思いつきは妙案と呼ぶにはほど遠く、むしろ自分の愚かさに頭を抱えたくなる。そこまで自分は馬鹿ではない。だが手っ取り早い解決方法ではあるし、今なら誰にも目撃されることはない、絶対に。
 ウルフウッドは口に手を当て、無言で熟考したのち立ち上がった。ヴァッシュが毎朝使うヘアスタイリング剤が並べてある棚へ向かう。ワックスだのスプレーだのの間に、ぽつんと小瓶が置かれてある。最近ヴァッシュが使い始めた香水だ。
 なにに感化されたのか、少し前に香水を買ってきて嬉しそうに報告をしてきた。見て見て、と手の平サイズの小箱を親指と人差し指で掲げる。新しいおもちゃを自慢するちびっ子のような笑顔だった。
 それがなんなのか、ウルフウッドには判らなかった。赤いパッケージは彼らしいと思っただけだ。ヴァッシュは細い指で封を開け、中身を取り出す。小ぶりな瓶が手の平に飛び出してきた。ヴァッシュの笑顔は最高潮に達した。
「香水買ったんだ!」
「ンなモン買うてどないすんねん」
 ウルフウッドの日常には存在しない代物であった。匂いに金を出すとはどういう心境なのか。同じ嗜好品でも酒や煙草の方がずっとシンプルだ。
 ヴァッシュは香水を買ったことがよほど嬉しかったのか、気を悪くした風でもなくにこにことしている。
「女の子にそそのかされたとかじゃないから、心配しなくても大丈夫だよ」
「誰がンな心配したっちぅねん!」
「適度につけるのは、身だしなみの一つだよ」
 ヴァッシュは蓋を取ると、予告もせずにウルフウッドの腰のあたりに一吹きした。メンズ物らしいすっきりとした香りが立ち上る。これに金を出そうとは思わないが悪くはない。
「僕の匂いになるんだから覚えといてね」
「覚えるかいな!」
 そう反論したのはまだ記憶に新しい。それが今ではすっかりヴァッシュの思惑通りになってしまっている。忌々しい。
 ウルフウッドは香水を持ってソファへ戻った。自分が捨てたクッションを睨めつける。
 蓋を取るだけなら抵抗はなかった。だがその先が進まない。やっぱり戻そうかと弱気になるが、誰も見ていないのだからと自分を奮いたたせる。そもそもこれからやろうとしていることは、どうあがいても滑稽なのだ、と自覚しながらも、後戻りするという選択肢を消し去った。
 躊躇いがちに香水をクッションへ向けた。それだけで羞恥心で体温が上がり、汗ばむのが判る。大きく深呼吸をしたのち、息を止めた。
 隠れて淫らなことをしているような背徳感を押し込め、ノズルを押した。逡巡していた時間に比べ、香水が吹き出たのは一瞬だった。呆気ないほど容易かったが、スプレーの音は大きく聞こえた。
 クッションから目を離さぬまま、慎重に香水瓶をテーブルに置いた。クッションの端をつまみ、警戒しいしい引き寄せる。なんとなく、右を見て、左を見て、大きく息を吐くと同時に覚悟を決めた。クッションを顔の近くで抱き締める。覚えた香りが鼻から体の中に入ってくる。
 全身の緊張が緩んで力が抜けた。強張っていた筋肉に潤滑油が差され、スムーズに動く感覚。
 機嫌が回復したと自覚したのは、数時間経ってからだった。


 正気に戻ってからは自己嫌悪と敗北感に打ちのめされた。仕事でミスをしたときでもここまでの後悔はない。二度と同じことを繰り返すかと固く誓う。その誓いは禁酒禁煙と同じぐらいの強度だった。
 クッションの匂いが薄れると、またぞろ落ち着きがなくなった。二度とあの屈辱を味わいたくないという怒りが真っ先に出てきたが、飢えというのは存外強く、少しぐらい使ってもバレやしないという事実もチクチクと自分を苛んだ。
 自分を戒める鬼と誘惑する悪魔。普通は天使と悪魔だろうと思うのだが、この状況で天使の出番などあるはずもない。
 カレンダーを見れば、同居人が帰ってくるのは明日だ。一日ぐらいなら待てる。そもそも自分は焦がれてなどいない。
 そう結論づけて風呂に入り、上がるといい気分で缶ビールを開けた。いつもより飲みすぎたのは、家には自分しかいないという解放感からか、それとも奥底でわだかまっていたストレスによるヤケ酒だったのか。
 手足の指先から脳髄までアルコールによる支配が完了すると、つまみを取りにいく要領で香水瓶を持ってきていた。鼻歌を奏でながらクッションの一吹きする。陽気に鼻を押し当てた。肺を空気で満たす。
 香水の匂いは取り込めたが、いくら肺が膨らんでも期待していたような満足感は得られなかった。首を傾げる。酒で鼻が鈍っているのだろうか。もう一吹きしてみたがやはり足りず、面倒になって追加で三回吹いたら香りが強烈すぎて悪臭と化した。鼻をつまんでクッションをほっぽる。今日は運が悪いらしい。      その日は散らかしたままベッドに倒れ込んだ。
 アルコールの抜けた翌朝はもちろん後悔のし通しで、窓を開けて空気の入れ替えをし、クッションもよく日光に晒した。それでも香水の匂いが停滞している気がして、コーヒーを多めに沸かして追い払うことにした。どの程度効果があったのかは定かではないが、やらないよりは増しであったろう。
 日が傾き始めるとクッションを取り込んだ。なぜ干しているのか質問されたら答えようがない。
 部屋を整え、愚行などなに一つなかったと自分を納得させた頃、ヴァッシュは帰ってきた。ドアを隔てた玄関先で、ただいまと怠そうに告げる声が聞こえる。ウルフウッドは狼狽して左右を見渡し、ソファに腰を落ち着けた。いつものように肘掛けで頬杖をついて、テレビもつけて、興味なさそうに装う。
 ドアを開けて部屋に入ってきたヴァッシュはまともに歩くつもりはないようで、ふらふらとゾンビみたいな足取りでウルフウッドに近づき、災害のようにのしかかった。肺が潰れたウルフウッドは呻き声を洩らした。
「疲れたぁー。一週間は長いよねぇ」
「重いっちぅねん!」
 外気がまだへばりついているコートは冷たい。肩を押して剥がそうとしたが、ヴァッシュに離れる意思はなさそうだったので諦めた。こういうときは梃子どころか重機を使っても動かない。飯の時間になれば自然と退くだろう。
「……僕の香水使った?」
 不意打ちどころか死角からの襲撃だった。
 油断していたところで心臓を冷たい指が撫でてきて、つい硬直してしまったが認めるわけにはいかない。ふいと顔を背ける。
「ンなわけあるかい! 気のせいや」
「でも匂いするよ?」
 首筋に鼻をうずめると大きく蠢かせた。服の上から体をなぞるように下っていき、セーターの裾にたどり着く。遠慮なく裾をたくし上げると、肌に鼻を寄せた。
「ちょぉ、嗅ぐな。気色悪い」
「脱がしてるのはいいの?」
 まだ温まっていない指先が腹筋を撫でた。へそのくぼみに到達する。
 ウルフウッドは視線を彷徨わせ、小さく身じろぎをした。顔を逸らしたまま小さく呟く。
「それはええよ、別に」
 空気が一瞬にして変わった。
 むせ返るほどの獰猛な匂いが体中を覆う。香水よりももっとずっと先に覚えた匂い。この肌に一番馴染んだ体臭。
 視線だけをヴァッシュに向ければ、痛みを堪えたように笑っていた。この男はこんなときだけ凶暴な顔をする。
 首に噛み付いてくるのを好きにさせた。この体臭を自分のものにする方が先だ。
 香水では騙しきれなかった。この身体はちゃんと覚えていた。
 ずっと足りなかったものは、この匂いなのだ。

 二人部屋にしてはやたらと狭い宿の一室に、テーブルの代わりに不釣り合いなほど大きく場所を取っている一人掛けのソファがあった。革張りで一見すると上等な拵えのようでも、肘掛けの部分は破れて中のスポンジが覗いている。安宿の客にマナーを求める方が愚蒙だ、サービスとして用意されたのではなく、大方いいとこの家が廃棄したのを持ち帰ったのだろう。その割にこの部屋からは歓迎されていないらしく、窓の傍の壁際に押しやられている。丁寧に日光浴をさせれば上品な飴色に育つはずなのに、ただ放置しているだけのようで色ムラになっていた。
 部屋に一脚しかないそのソファに、ウルフウッドは当然のように座った。ヴァッシュの座る場所がベッドしか残されていないのはどうでもいいらしい。肘掛けを使って頬杖をつき、背面の窓を振り返るけれど、高さのある背凭れに邪魔されるようですぐに諦めた。横向きになり、頭と脚を肘掛けからはみ出させる。関節や筋肉に無理を強いている姿勢に見えるけれどそれなりに寛げるらしい。呑気に瞼を閉じる。ベッドは三歩の距離にあるのに物好きだ。
 毛布を掛けるべきか逡巡し、やめることにした。手頃な大きさのがなかったのだ。ベッドのを剥いでも大きすぎる。
 ヴァッシュは荷を解き、ベッドの一つに座って銃の手入れを始めた。太陽はすぐに傾いた。
 細かい作業を終えて集中が切れたときには、室内に差し込む鮮やかなオレンジ色の陽光は細く僅かなもので、殆どがオレンジがくすんで黒に近い茶色になった陰か、夜を帯びた藍色に覆われていた。自分の着ているコートの赤は闇に溶けまいと抗っている。
 黒いスーツは勿論暗がりと同化している。背凭れの影も彼の体を隠す手伝いをしていた。顔だけがオレンジの光を強く浴びている。流石に眩しいようで眉間の皺は深く刻まれていたが起きる気配はない。あまりにも顔の陰影がくっきりしているものだから彫り出した石像じみている。本当に寝ているのだろうか。
 太陽が地平線に蕩けるこの時間帯は静かだ。星が出てしまえば家庭なり酒場なりは賑わうのだけれど、昼と夜の境目は中途半端なのだ。耳を澄ませば遠くからの声がちらほらと聞え、一層の静寂をもたらす。昼は終わったのに夜はまだ始まっていない。エアポケットと呼ばれるものはこんな感じなのだろうか。
 呼吸をしているのかと憂慮するほど動かないウルフウッドと、細長い凶悪なオレンジ色は、今という時間を凍らせて自分だけを置いてけぼりにしてしまった。だからこんなにも肋骨の中身は空っぽで指先は冷たいのではないか。空気まで冷える。
「お酒買ってこよー」
 わざと大きな声を出してみても時間は溶けなかった。
 部屋を出て、扉を閉じる。


 永遠に居座り続けるのではないかと危惧されたオレンジ色は刻限通りに撤退し、野太い声が闊歩し始めた。夜が始まるまでの間、足早に人気の少ない大通りをぐるぐると周回し、無駄な時間を過ごしていたものの、店に灯った光と喧騒がこぼれてくると、緊張した面持ちも足取りも緩んだ。人工的な照明には人の温かさも含まれているのかもしれない。
 ぶらりと酒場で飲んでしまうか迷ったけれど、置いてきた男が忽然と姿を消しているかもしれないなんて不安が、空っぽだった肋骨の中に小さく残っていたから、いつもより階段一つ分景気のいい値の酒瓶を抱えて戻った。外から自分達が使っている部屋の窓を見上げる。出てきたときと同じくカーテンは開けたままで真っ暗だった。不安を追い払うためにほんの少し早く歩いて部屋を目指す。
 開け閉めするだけでミシミシと呻く木製のドアを開けた。途端に喧騒が消える。部屋の殆どは陰で満ちていて生き物の気配はない。動くものもない。外より室温が低い気がした。本当に宿の一室だろうか。試しに一歩踏み出してみる。床が鳴った。当然のことに安堵の溜め息がこぼれた。手探りで電気のスイッチを入れる。そこここに蔓延っていた幻惑の煤は消え、立体感のない薄っぺらな現実が浮かび上がった。相変わらず音はない。
「消せ」
 突然の声に顔を向けると、部屋を出たときと同じポーズでウルフウッドはソファに凭れていた。壁の方を見ているため表情は判らない。
「なんだ、起きてたの」
「消せ」
 僕はまだ起きていたいんだけど、と応えたけれど無視をされたので諦めてスイッチをオフにした。一度光を浴びた瞳孔は闇への適応が遅れ、室内から一切のシルエットは消えた。ベッドがあった方を目指して歩く。目を凝らすと、夜空の明かりを反射したウルフウッドの白目が輝いていた。眼の縁はくっきりとしており眠気とは無縁そうだ。彼の傍に立つ。
「なんだ、寝るんじゃないの」
「こっからやとよぉ見えんねん」
「なにが?」
 しゃがみ、目線の高さを揃えてみた。方角も合わせると窓を透かした先に星空があった。宿よりも背の高い屋根に切り取られた空は、小さな窓より更に小さかったけれど、彼が言っていたものはこれだと迷うことはなかった。砂で書いた線よりも細かい星々が、輝きながら犇めき合っている。
 陽が落ちてしばらく経っている。彼はいつから眺めていたのだろうか。こちらがセンチメンタルに落ち込んでいると、励ましの一種なのか現実と向き合えという意味合いの怒りをぶつけるくせに、彼もこうしてなんでもない休息をとったりするのだ。緊張が溶ける。
「綺麗だねぇ」
 耳元の声でやっとヴァッシュを認識したのかウルフウッドは驚きで身を縮めた。無遠慮に片手でヴァッシュの顔面を押しのける。
「近いっ」
「痛いって。なんだよ今更」
 手首を取って抵抗すると力が弱まった。抵抗が功を奏したのではなく、単に別のことに気を取られただけらしい。顔を鷲掴みにしていた手はするりと懐へ移る。
「酒か」
「真っ暗なのによく判ったね」
 ウルフウッドは奪い取った酒瓶のコルクに歯を立て、首を捻る要領で抜いた。アルコールの芳醇な匂いが漂う。
「どういう歯をしてるのさ、キミ」
「ええから電気点けや」
 消せと言ったり点けろと命じたり身勝手な男だ。
 ヴァッシュは億劫そうに立ち上がるとスイッチをオンにした。瞬いてから安定した明かりが満ちる。薄っぺらいことに変わりはないけれど、ウルフウッドはそんなことよりも酒の方が大事とみえた。頭を振ってグラスを探すけれど無いと判断すると躊躇わず瓶に口をつける。喉仏を大きく上下させ、唇を離すと満足げな息を吐いた。彼にしては珍しく機嫌良さそうに口角が上がっている。そこそこ値が張ったのだ、充足してもらわないと困る。
 また彼のそばに戻り、黒髪を指の腹で地肌を撫でながら梳いた。黒目が心地よさそうに細まる。言葉の割に、リラックスした口ぶりで呟いた。
「邪魔や。触らんといて」
「イヤだ」
 拒否の拒否はされなかった。一番に夢中なのは酒のようで、相好を崩したまま煽った。髪を梳いた親指で目尻を撫でてみる。鬱陶しいという小言以外はなにも返ってこなかった。今夜一晩ぐらいは触らせてくれるだろうか。
「これ旨いな」
「僕も飲みたいんだけど」
 ウルフウッドは酒瓶の口を見遣り、躊躇ってから差し出した。ヴァッシュは遠慮なく口をつける。
 こんな時間が増えればいい。

 天井が高い工場に小さな機械音が反響する。箱詰めにされた状態でベルトコンベアを流れる弾丸が触れ合う音、プールの中に落とされた精肉を真空パックする音、出荷伝票のラベルを貼り終えた木箱を運ぶフォークリフト。小さな村に見合った小さな工場だが、従業員も少ないためそれなりに忙しい。各自で黙々と作業をしているが、胃袋に収まった昼食もこなれる時刻で、集中力のない者はそろそろだれてくる頃合いだ。
「チィーフゥ、俺もそっちの仕事がしたいんスけどぉ」
 中身の詰まった木箱を運んでいた青年が、痛みを訴え始めた二の腕をさすりながら、中二階で作業している男性に不服を伝える。チーフと呼ばれた男性は、本日の生産リストを確認しながらコントロールパネルで数値の調整を続ける。
「引き続き力仕事を頑張ってくれ。若いやつ少ないんだから」
「俺、工場で働くためじゃなくて、プラントの仕事するためにここに来たんスけど」
「プラントの生産物を運ぶのも立派なプラントの仕事じゃないか」
 チーフは一度も顔を上げてくれなかった。
 小さな村はどうしたって娯楽も夢も乏しい。多くの若者達は都会に憧れ、住み家を移す。鄙びた村で働くプラント運営技師は極少数だ。生産物も村を賄うだけで、都会で活躍する花形職業のイメージとは程遠い。
 プラントと直結している太いパイプから流れてくる様々な商品を、リスト通りの個数ごとに木箱へ詰めて集荷場まで運ぶのが青年の主な業務になっている。大きな街ならば、運営技師は調整のみに専念し、仕分けは別に雇われた人間が担当するのだろうがこの村では不可能だ。一基しかないプラントの運転を任されたことはあまりない。これではなんのためにお金を貯めて都会の学校に入ったのか。
 青年は帽子を外し、ファンのように顔へ振って滲む汗を乾かす。鍔の影になっていた、顔の半分を覆うケロイドが露わになった。すぐ隣で勤勉に労働を続けるプラントを見上げる。
「お前からも言ってやれよ。オッサンよりも若い俺の方がいいってさ」
 村の発足以前から活動していたと考えられるこのプラントは、疲弊が進んだ結果、核が割れエンジェルの上体がはみ出している。肌は人間のように皺を刻み老いが現れていたが、それでもエンジェルは美しかった。通常は核の内部でひっそりと膝を抱えているだけで、姿が露わになることは稀だ。目を凝らせば石膏像のような女性の顔が確認できる程度だ。生き物らしさはない。しかし核から姿を現したこのエンジェルは確かに呼吸をしていた。大部分の構造はまだ解明されていないが、彼女達は人間と同じように息づいている。瞳孔のないその眼は人間を映しているのか定かではないが、彼女を見た人達は近親感を覚えた。彼女は我々と同じく、生きていると。
「お前みたいなガサツな男じゃプラントも可哀想だ。それよりさっさと持ち場に戻れ」
 指示など聞こえていないかのようにケロイドの青年はじっと佇みエンジェルの横顔を見上げ続けた。無論、彼女が振り向くことはない。憧憬の込められた視線は体感時間を歪ませ、彼はプラントと対であり、そこに動かず居ることが当然の存在なのではないかと思わせる力を持っていた。
 しかし同僚達はその光景を見慣れている。チーフは溜め息をつくとやっと青年に視線を向けた。
「バーンズ。バーンズフェイス火傷顔! 持ち場に戻れ」
「………………へーい」
 不承不承であることを隠しもしない態度に、チーフは渋い顔で自身のこめかみを押さえた。何度指摘しても学生気分は抜けない。あの不服顔が持ち場に着く頃には、口笛を奏でていることぐらい容易に予測がつく。
 プラントに直接携わりたいという熱意は本物だが、仕事にはいまいち直結しない。仕事そのものではなく、プラントの傍にいることが幸せなのだ、あの若造は。
 予測を裏切らなかった青年を一人残されても木箱の仕分けを続けていた先輩が呆れ顔で迎えた。木箱を半ば持ち上げていたが手を離す。床に落ちた瞬間、重たい音が床を震わせた。
「お前サボってる暇があったらさっさと作業しろよ。俺は定時で帰りたいんだからさ」
「モチベーションの充填も必要でしょ? センパイ」
「大して労働してないくせに一人前ぶるなよ」
 薄汚れた軍手で頭を小突き、落とした木箱を拾い直す。バーンズも作業再開だ。
 リストを確認する。内容物と運送先が印刷された紙の束がバインダーでまとめられている代物で、手書きの取り消し線がいくつも引かれている。今日の進捗具合は芳しくない。バーンズの勝手な小休憩が大きな原因なのではなく、プラントの生産スピードが遅いのだ。健康な状態のプラントならば難なく生産できる量だが、末期症状を呈しているプラントには負担が大きいのだろう。これでも生産量やスピードを落としてはいるが、狙った効果は出ない。これ以上減らすと今度は人間の生活に支障をきたす。半年前からこの症状は表れていたが、最近は悪化している。
「今後のプラント運営どうするかとか先輩聞いてます?」
「村長さんと相談してるって話だけど、チーフじゃないと詳しいことは判らないよ」
「ですよねぇ。でも決定するまで何も教えてくれないんだろうなぁ、カタブツだから」
「チーフが堅物なんじゃなくてお前が信用されてないんだろ」
「それ言ったら先輩も同類でしょ」
 圧し口になった先輩をケラケラ笑う。振り上げられた拳を躱して空の木箱でガードした。はしゃぐ声を聞きつけたチーフに二人して叱られて作業に戻る。
 予想通り生産は遅れ、仕事が終了したのは定時をいくらか過ぎた頃だ。発電以外の機能を落とすと、チーフと先輩は着替えるために部屋を出た。バーンズは一人だけ残り、ほとんど埃のついていない雑巾を手にしてプラントの正面に立つ。エンジェルの瞼は閉じられていないが、ゆっくりと上下する肩は寝息のリズムだ。電球の表面を雑巾で拭く。
「今日もお疲れ様。具合悪いのによく頑張ったな」
 彼女の正面のガラスだけは、常に曇りがないように気を配っている。彼女の眼はきっと俺達を映している。それなら視界良好な方が安心だろうし、楽しくもあるだろうというのがバーンズの考えだ。調子が悪いときに手を振ると生産性が回復することもあると言っているのだが、見つかるとチーフにどやされる。彼はそこまでプラントの可能性を信じていないのだ。
「おーい、お前も飲みに行くかー?」
 さっさと着替えた先輩が、床にリュックを置いて入り口から体を半分覗かせていた。チーフは先に行っているのだろう。雑巾をガラスに当てたまま振り返る。
「え、奢りッスか?」
「行かないって伝えておくな」
「行く! 行くッス! 待って!」
 立ち去る背中を勢いで追いかけようとして、慌てて背中に重心を戻した。まだ雑巾を手にしたままだった。元のあった場所に戻し、エンジェルに歯を見せて笑う。
「明日もよろしくな」
 急いで着替え、二人に遅れていつものタヴァーンへ行く。小さな村でもこの店は夜になればいつも活気にあふれている。外にまではみ出している喧騒は、ウエスタンドアを開ければ強さが増した。腰にでっぷりと脂肪をつけた中年のウェイトレスが笑顔で奥のテーブルを示してくれる。もうすでにフライドフィッシュやチキンが運ばれている。ビールを一つと注文して席についた。ポテトを摘んで口に放る。
「お待たせしたッス」
「お前のために乾杯だけは待っててやったぞ」
「さすが先輩。なんだかんだで後輩のことは大好きッスよね」
 何かを言い返そうと口を開いたところに大きなジョッキが三つ運ばれてきた。先輩の反論は引っ込みジョッキに手が伸びる。チーフのかけ声で乾杯するといくばくか中身がこぼれたが、三人共意に介さず半分以上の中身を一気に飲んだ。唇についた泡をバーンズは手の甲で拭う。
「やっぱり仕事の後の酒は格別ッスね。チーフも肉体労働すると美味く感じられると思いますよ」
「お前達の面倒を見るだけで充分美味いよ」
「なんでオレまで含めるんですか」
 バーンズは一人でフリッターの皿を空にし、脂っぽい親指を舐めながらビールと一緒に新しく注文する。次の皿は取られまいと先輩の手が後輩よりも早くチキンを獲得した。空をつかむ手を伸ばしたまま、美味しそうに頬張る勝者を恨みがましく睨みつける。チーフは頬杖をついて溜め息をこぼした。
「お前達はいいな。悩みがなさそうで」
「その言い方ヒドくないッスか?」
「判った、娘さんに新しい彼氏ができたんでしょう」
「そうなんだよ。これがまた軽薄そうなやつで」
「チキンとライス追加ー」
「なんだけど顔はよくってな。母さんが気に入ってるんだ」
「ツラがいい野郎は全員滅べって思いますよね」
「あ、先輩を振った彼女、もっといい男と付き合ってるんでしたっけ」
「中身はオレの方がいいよ!」
「なんだ、新しい彼女作ってないのか?」
 脂っこいものは若い二人に譲り比較的軽い料理に手を出していたチーフの問いに、ゆっくりと目だけを背けると突然バーンズの肩を大仰に抱いた。ポテトを喉に詰め、眼を白黒させている鼻先に指を付きつける。
「オ、オレのことよりコイツですよ! プラントがプラントがって、ちっとも彼女ができる気配ないじゃないですか!」
「一応昔はいたんスよ。あんまり興味がないだけで」
「そいつのプラント好きは釘よりも頑強だ。諦めろ」
 ビールで窒息を免れると、空になったジョッキを先輩の頬が変形するほど強く押し当てて退ける。
「そういえばお前が振られた理由はプラントだったよな」
「プラントが悪いみたいなこと言わないでくださいよ。プラントとあたしどっちが好きかって訊かれたからプラントって答えただけッスよ」
「最低じゃねぇか」
「じゃあ先輩は彼女って答えるんスか?」
「それはそれでケンカになるんだよなぁ」
「いいなぁ、お前達は悩みがなさそうで」
 店内はさらに賑やかさを増し、スカートをひるがえしっ放しのウェイトレス達は皿の回収に追いつかず、三人のテーブルにはジョッキと重なった食器のタワーが乱立した。チーフは目を閉じてゆったりと紫煙をくゆらし、バーンズは背もたれに全体重を預け喉まで大きく反らし眠りかけている。自分のイビキに驚いて時折体をビクリと震わせていた。アルコールで背骨をぐにゃぐにゃにした先輩は、赤くなった顔をテーブルに置く。そのままゆっくりと頭を左右に揺らして鼻歌を演奏した。音符を所々しゃっくりが蹴飛ばす。
「でもさぁ、正直うちのプラントちょっぴり不気味だよなぁ。なんか幽霊みたいで」
 呑気だった赤ら顔が飛んだ。喧しい音を立てて椅子も倒れる。無様に仰向けになった図体にバーンズが馬乗りになり、さらにもう一発顎を殴った。
「俺達を助けてくれてる存在に何てこと言うんだよ!!」
「殴るほどのことじゃねぇだろうが!!」
「やめろお前達」
 チーフが後ろから押さえると同時に三人のポケットが鳴った。チーフの腕を振り切ったバーンズの拳は、顔ではなくすぐ隣の床に落とされた。何も言わずにタヴァーンを飛び出す。腫れた頬を押さえながらぽかーんと見送る隣で、チーフがポケットから携帯式のバイタルサインセンサーを取り出した。
「少し興奮してるみたいだな。おれ達も行くぞ」
 プラントの体調変化を見過ごすと大きな事故に繋がる。単純なシステムダウンならまだ救いはある。最悪なのは暴走の果てに完全な機能停止に陥ることだ。大きな都市ならば交替勤務制で常に注意できるが、技師の人手が足りない街では各人の休日を捻り出すだけで精一杯だ。そのためプラントのバイタルサインをトランシーバーに似た装置で受け取れるようにしている。数値が一定の基準を超えたらアラームが鳴る仕組みだ。
 少しの変化でも鳴るように設定しているため、駆けつけても空回りした結果になることは多いが放置するわけにはいかない。二人も遅れて走る。
 上司の指示を待たずコントロールパネルにログインしていたバーンズは指をキーボードの上に走らせていた。プラントの腕からわずかだが羽根が生えている。
「俺が来たからにはもう大丈夫だ。すぐ治してやるからな」
 軽い熱気で頬は紅潮していたが焦りはなかった。バーンズの指示は順調に届き、膨らんでいた羽根は収まり始め、数値の上でも落ち着きを示した。そしてプラントは穏やかな眠りに入る。
「どんな具合だ」
 チーフが近づくとバーンズはブラウン管を手の甲で叩いた。終了時に設定した数値とわずかだが異なっている。
「人為的ミスッスよ。こいつは水が好きで紫外線はちょっと苦手なのに、過去の生産設定に対してこの数字じゃあストレス溜まりますって」
「はぁ? ……お前、過去になにを生産したか覚えてんのか?」
「当たり前でしょ。プラントの管理も俺達の仕事ッスよ、センパイ」
 ありえねぇと吐き出した顔は渋い。
 過去のデータを印刷して保管していたファイルの確認を終えたチーフは、バーンズの発言を鑑みて、溜め息をつきながら何度も頷く。
「そうだな、私のミスだ。いつも通りの設定にして終了していた」
「こういうときだけ優秀になりますよね、コイツ」
手首を額に当て呆れ返った声に、チーフは苦く笑う。
「コイツはプラントを愛してる。だから愛されてもいて、結果が出せるんだ」
 ガラス越しにプラントの髪を撫でるようにしていたバーンズは、振り向くと照れくさそうに頭を掻き、胸を張り、少年のような眩しい笑顔を向けた。
「プラントはちゃんと判ってるんスよ。俺達のこと!」


 少年の父はプラント運営技師だった。父はまだ自分の腰ほどしか背丈のない少年の手を引き、仕事場へ案内した。昼間は年齢が様々な村の子供達と一緒に小さな学校に通っていた少年にとって、大人ばかりがたくさんいる環境はめずらしかった。初めての場所をきょろきょろしながら、引かれるままによたよた歩く。天井が高い建物は異世界のようだった。
 興味を持った方向へ勝手に行こうとする息子に注意しながら、父親はなんとかプラントと対面させることに成功した。当時はまだ肩甲骨までしか核から落ちていなかったエンジェルを、よく見えるように肩車をする。
「これが父さんと一緒にお仕事をしているプラントだよ。みんなのご飯や洋服や、おもちゃも作ってくれているんだ」
 少年はその意味を解さなかったが、人間と少し風貌の違う彼女の美しさは理解できた。単語こそは知らなかったが、幼い体に貴いという意味が初めて満ちた瞬間だ。目が合ったような気がした。少年の頬は紅潮し、熱量のこもった目を輝かせて見つめる。
「いつもありがとうって挨拶しよう」
「うんっ」
 父の頭から手を放し、パチンと音を立てて両手を合わせた。
「ごちそうさまでした!」
 がっくりと父親が肩を落とすと、バランスを崩した少年がわぁっと悲鳴を上げて父の髪にしがみついた。お父さん危ないと唇を尖らせる。父親は細い脚をつかみ直した。
「確かにご飯を作ってくれてると説明したけれどね、うん」
 疑問符をいくつも浮かべている少年の下で、あははと乾いた笑い声を上げた。お父さんはいつもいただきますとごちそうさましないってお母さん怒ってたよ、お父さんも今日からちゃんと挨拶しようと言葉を交わす。
 そんな親子の会話を聞いて誰かが笑った気配がした。少年が顔を上げると、変わらず静謐な面持ちのエンジェルがいた。しかし口の端がほんの少しだけ、持ち上がったように見えた。
 それは男の子なら誰もが経験するような、近所のお姉さんに向けるのと同じほぼ憧れのみでできた感情だっただろう。だがそのとき確かに、少年は宝物のような初恋に落ちた。
 少年はいつも肩から下げているバッグのベロを開け、工場で食べようと取っておいたおやつを出した。食べる? と差し出して、大きなガラスが邪魔だと気づいた。ガラスを視線で伝うと天井付近にあるコードの束に到達した。出入りできそうな箇所はない。
「プラントは人間の食べ物を食べないんだよ」
「じゃあ何を食べるの?」
「よし、プラントのことをたくさん教えてやろう」
それがプラントとの初めての出会いだ。
 幼くあやふやな記憶はここで一度途切れ、次に明確に思い出せるのは打ち上げ花火になる。
 少年の村では花火は禁止されていた。銃声と混同される恐れのあるため、分解すれば爆弾などの材料になるため、それならば知識のある人間が製造した方が安全であり正規のルートで花火よりも高値で販売することができ、ひいては村の財源にもなるためというのがその理由だ。
 だがこの日だけは特別だった。夜空には幾つもの花火が咲き、陽気に酔っ払った村人達が歓声と拍手を送った。
 やはり父親に肩車をしてもらいながら見物していた少年は、驚きで口を開いたまま父親の髪を引いた。
「ねえ、なんで今日のお空はあかるいの?」
「今日は村ができた日だからだよ。この星に初めてやってきた人達がここに集落を作って、少しずつ成長して、村に名前をつけた日なんだ」
「村のお誕生日なのよ」
「じゃあ今日はケーキ食べないと!」
 少年の提案に両親は声を立てて笑った。
 花火は際限なく咲き続け、轟音は皮膚を震わせた。その衝撃に驚き泣き叫ぶ子供もあちこちにいたが、絵本で見た海賊の財宝みたいだと、少年の瞳は花火以上のきらめきを返していた。
「花火ってすごいね。ぼくこんなにすごいの初めて見たよ」
「あら、去年も見たのよ」
「えーっ、ウソだよ。だって知らないもん」
「小さかったから覚えてないのね」
 母の言い分に頬を膨らませたが、新しく打ち上がった花火と一緒に怒りも散った。あれを自分の宝箱にも仕舞うことができたらどんなに素敵だろう。
 村が主催した打ち上げ花火が終わると肩から降ろされたが、祭りの雰囲気は消えなかった。
 数人で肩を組んで調子っぱずれな合唱をしたり、酒を頭から浴びて大笑いしたりしている人達がいた。
 そして家庭用の花火で盛り上がっているグループも多くいた。気軽に遊べる手持ち花火や、足元を走るねずみ花火も楽しそうだったが、個人用でも打ち上げ花火があることに強く興味を惹かれた。積み重なっている花火の山はあちこちにあり、その中から一番小さな筒状の花火をこっそりとバッグにしまった。
 街中のお祭り騒ぎが沈静化する気配はなかったが、少年はまだ幼いからと家族三人は早めに帰宅した。促されるままシャワーを浴び、いつも通りの時間にベッドに入る。だが少年の興奮は冷めず、眠ることはできなかった。花火のことを思い出しては寝返りをうち、やがてこっそりバッグを肩にかけて家を出た。
 少年が再び村を駆ける頃にはほとんどの人は家に戻っており、外に残っているのは帰ることを忘れて眠っている酔っ払いぐらいだった。朝まで開いている店はない。だから誰にも見咎められることなく工場に行くことができた。
 父は当時のチーフだったから密かに鍵を借りることは容易だった。工場の電気はすべて消灯済みで連れてこられたときとはまるで違う建物のように感じられたが、不思議と迷うことなく初恋の元へたどり着けた。いま思えば導かれていたのだろう。
 エンジェルの顔を覗きこんでも何を考えているのか伝わらなかったが、肩はわずかに動き、寝息のリズムを刻んでいた。ガラスを音がするほど叩く。
「ねぇねぇ起きて。キレイなの見せたげる」
 目覚めたか定かではないが、構わずにバッグの中からくすねた筒状の花火を取り出した。ライターは父が煙草を吸うのに使っているものを持ってきた。ライターのドラムを回転させても音しか生まれなかったが、何度か繰り返すとやっと点火できた。花火の上部に火をつける。
 ワクワクしながらしゃがんで待っていたが、花火は打ち上がらなかった。首を傾げるが変化はない。いつまで経っても部屋の中は暗いままだ。
 沈黙を続ける花火を、少年は覗き込んでしまった。
 赤いと思った瞬間には遅かった。それは打ち上げ花火ではなく吹き出すタイプの物だったが、少年の顔を熱く焼くことに変わりはない。
 甲高い悲鳴が工場に響いた。しかしそれを聞くものはいない。両腕で顔を覆い転がる子供を助けられる大人は誰一人いなかった。
 少年が自力で歩かなければ朝まで誰からも手当を受けられない――はずだった。
 しかし奇跡は起きた。父親を始め、プラント運営技師達が常に傍に置いているバイタルサインセンサーがけたたましく鳴った。暴走寸前を示す数値に、着替える余裕もなく技師達はプラントの前に集まった。最後に見たときは肩までしか核から出ていなかったプラントの体は、ずるりと胸まではみ出していた。まだ完全な暴走にまでは至ってないはずだが、負担は大きかったらしい。緊張が走る。
 そして父は痛みで泣き叫ぶ我が子を見つけた。幼い体を抱き締め、同僚に医者を呼ぶよう大声で頼んだ。すぐに電話をかける。他の技師達はコントロールパネルを操作し、プラントの暴走を防ごうと試みる。神経を極限にまで張り詰めた。
「…………あれ?」
 ブラウン管が表示した数値に指が止まった。数値の異常さに戸惑ったのではない。異常がないことが異常だったのだ。
「なぁ、本体に繋いでる方の数字はどうなってる?」
 携帯式のバイタルサインセンサーとブラウン管を眺めながらコントロールパネルの操作をしていた技師が問うた。他の技師も手元と電球に直接繋げている数字とを頻繁に見比べて首を捻る。
「正常だ。機械の一時的な故障か?」
 ここに全員が集合している今、携帯式のセンサーが同時に故障したとは考えにくい。それなら大本の機械の不具合だろう。健康状態の読み取りとその出力を何度もテストし、エラーをすべて解消するまでは帰るわけにはいかない。しかし何度テストしてもエラーは起きなかった。プラントにも装置にも異常など何一つないと機械は告げている。予備の装置を使っても結果は同じだ。しかし退社したときより大きく体が露わになっている。
技師達はエンジェルを見上げる。
「もしかして、あの子を助けるために呼んだのか……?」
 エンジェルは何も答えず、いつもの静かな眠りについていた。


「着替える前に集まってくれ。話すことがある」
 チーフの声にバーンズと先輩は足を止めた。帰る前にプラントのガラスを磨こうと手にしていた雑巾を戻し、チーフの元へ行く。先輩はなぜかバーンズを警戒しながらやや後方に立った。
チーフはいつもより引き締まった壮年の顔で、重たく厳しい声を出した。
「我が村のプラントが限界に近づいてることは言うまでもなく把握しているな。そのため新しいプラントを迎えることが決まった」
 プラントにはもちろん限りがあるが、大墜落による損傷が比較的少なかったシップにはまだ眠ったままの状態で複数保管している場合が多い。遠方の街への輸送は強盗などの危険性を考慮すると不可能だが、近隣ならば売買取引を行うこともある。無論その金額は容易に払える桁ではなく、何世代にも渡ってローンを組むことになるのだが背に腹は変えられない。この村ではプールしておいた税金で半額を支払い、残りは新世代に任せることにして一基だけ購入する契約を交わしたと言う。近日中に運ばれてくる予定だ。
「やっとッスか。長かったッスね」
「プラントがいくらすると思ってるんだ。買えずに移民して廃村になることも多いんだぞ」
「買える見込みなかったら移民の案内さっさとしてるでしょ?」
「お前はその生意気グセを直した方がいい」
 チーフの溜め息に肩を竦めるだけで応える。
 今のプラントには無理をさせてきたが、二基同時に稼働すればだいぶ楽になるだろう。体調が悪い日には休日だって与えられる。残された時間は短いだろうが、これからは穏やかに過ごして欲しい。すぐ傍で眠っているプラントを見上げる。
 チーフは先輩に目配せすると、姿勢を正した。微妙に変化した緊張感のある雰囲気にバーンズは首を傾げる。
 大きく息を吸い込むと、上長として決定事項を冷静に告げた。
「新しいプラントが届き次第、現在のプラントにラストランを行う」
「……なっ、なんでっ!!」
 理解するのに一瞬を要し、問い詰めようと一歩近づいた途端に後ろから羽交い絞めにされた。先輩だ。体を左右に振るが放してくれない。どうどうと動物を相手にしているように宥められる。それが余計に頭に血を上らせた。
「意味判んねぇ! ラストランなんてやったら死ぬじゃねぇか!」
「判らないわけないだろう。生産できなくなる日は目前だ」
「プラントが死んでもいいってのかよ!!」
「人間が死んでもいいのか」
 唇を噛む。
 生産性が見込めなくなったときはラストランをするべきだという理論も方法も学校で教わった。その授業でバーンズが自力で学んだことは、ラストランをしなければプラントは長生きできるということだ。人間ならば、老いで働けなくなっても殺したりはしない。プラントも同じように細々と生きて何が悪い。少し考えれば誰だって理解できることなのに、誰も共感してくれない。悔しくて拳を強く握る。
「ラストランは資源を無駄にしない大切な行為だ」
「…………なんスか、資源って」
 この村の技師は少ない。今日の勤務は三人だ。だが、三人だけで仕事をしたのかと問われれば違うと答える。技師の他に毎日働いている存在がもう一人いる。彼女を一人と認めてくれる人間は少ないが、プラント技師だけは、仕事仲間として働いているのだと信じていた。
 全身から力が抜けた。羽交い絞めにされたままの腕がだらりと下がる。
「プラントは、ただの道具なんかじゃないッスよ」


 厳重な警備のもと、新しいプラントは無事にこの村にやってきた。村人は浮かれお祭り騒ぎだ。なぜ新しいプラントが必要になったのか知らないはずがないのに。
 新しいプラントが来たこと自体は嬉しい。なんの名所もないが生まれ故郷だ、自分の寿命が尽きてからも長く残って欲しい。だが、それと今のプラントを殺すことは別の話だ。ラストランなんかしなくっても、この村の人間は生活できる。そのことを絶対に証明してみせる。
 バーンズはプラントの隣に私服姿で座り込み、立てた膝の上で頬杖をついた。工場内では今日も小さな機械音が反響している。
「非番の日なのに働きに来るなんて物好きだな、お前」
「給料出ないから働きはしないッスよ。ここにいるだけ」
「なら帰れよ、邪魔だ」
 作業服姿の先輩が吐き捨てるが返事はしなかった。立ち去る背中を気にも留めず、ただぼんやりと代わり映えのしない工場内を見るともなしに眺める。壁も機械もコードも寒色だらけで温か味がない。
「こっち側ってあんま人来ないし、退屈だよな」
 生産物を回収し箱詰めするのはプラントの裏側だ。そちら側も賑やかとは言えないが、正面はガランとしたスペースにコードが横たわっている程度で動くものさえ少ない。もしプラントが喋れたなら何を見たいと頼むだろうか。女の子らしく造花やきらびやかな服でも飾っていたら、もっと楽しく仕事ができただろうか。
 いや、今はそれよりも訴えたいことが他にあるはずだ。
ガラスをコツンと手の甲で叩き、安心させるため力強く笑う。
「安心しろ。俺が守ってやる」
 ラストランを秘密裏に行うことは難しい。数値が基準を超えれば携帯式バイタルサインセンサーが鳴るからだ。現状のテクノロジーでは、特定のセンサーのみにデータ送信を止めるということはできない。可能なのはセンサーの電源を個別に切るか、大元のデータ送信をストップさせるかだ。疲弊したプラントは暴走しやすい。制御下にない暴走は危険であり、新しいプラントが共鳴してしまう可能性もある。そのため送信を止めることは考えられにくいが、業務中なら不可能ではない。それを防ぐためにこうして毎日来ている。
 しかしこれだけでは単なる妨害だ。決定を覆せない。大恋愛の物語よろしく、駆け落ちできるものならしたいが生命維持装置を外すわけにもいかない。バーンズが労力を裂くべきなのは他の所だ。
 日常的なプラント運営の決定権を持っているのはチーフだが、ラストランは村長の許可も要る。せめて村長だけでも説得できれば中止にできるはずだが、まずアポイントメントを取ることが困難だ。会えたとしても、どう訴えればいいのか。ラストランは技師でなくても有力者なら知っている当たり前の行為で、調べた限りそれを避けたという前例は見つからなかった。彼女の運命を覆すのは至難の業だ。何か手立てはないだろうか。
「チーフ、設定間違ってませんか? リストより全体的に多く出てきてるんですけど」
 生産物の梱包をしていた先輩がリストを片手にチーフの元まで歩いてきた。ブラウン管の横にリストを並べ、二人で数値を見比べている。
「いや、合っているな」
「おっかしいな。余っちゃって困ってるんですよ」
 先輩は頭を掻きながら唸る。バーンズは仕事を続けているエンジェルの変わらぬ表情を一瞥し、梱包をしているもう一人の先輩を捜しに後ろに回った。いつもの手順で中身が詰められていく木箱とは別に、乱雑に収められただけの木箱がいくつかある。もう一人の先輩はそれを避けながら梱包しているが、ときおり除けている木箱の中にも商品を収めている。
「生産量が多いってマジッスか?」
「ああ。おかげでこれをどこに卸すか困ってるんだ。引取先が見つかるといいんだが」
 当たり前のことだが、生産量が勝手に増えることはまずない。入力ミスという単純なヒューマンエラーがほとんどだ。原因がそこにない場合は、機械の故障やプラントの病気など理由も対処法も急速に複雑化する。
 一つずつチェックすればもちろん原因は明らかになるが、経験豊かな者が調べた方が見つけるのも早い。
「先輩は何が原因だと思います?」
「……悪いな、チーフからお前とあんまりプラントの話をするなって言われてるんだ」
「俺のこと評価してくれて嬉しいッスよ」
 肩を竦めて応える。警戒されると説得の手回しはやりづらいが、本気だと受け止めてくれているのは強い一歩だ。
 ボードに磁石で貼り付けられているリストを見ると、いつもの取り消し線が引かれているだけではなく、余白に品名と数字が書かれている。除けられている木箱の中身と一致していた。
自分の目でも入力ミスではないか確認したかったがチーフは見せてくれないだろう。今も携帯しているバイタルサインセンサーだけチェックするが問題はない。新しいプラントの方は試運転中で今日は調整用の生産活動しかしていないが、なにかを感じ取ったのだろうか。
 電球の裏側に手をつき、ゆっくりと一周しながら足元から天井までくまなく観察する。ガラスはほんのりと熱を帯び、核から静電気が放たれることもあるが運転中であれば自然な現象だ。異変の兆候はどこにもなかった。
 プラントに対する熱意と理解は、誰よりも強いと学生時代から自負している。これは多分、機械の不調ではない。プラントの意志だ。彼女が何故こんなことをするのか予想はいくつかあるが、どれにしろ体に負担がかかることに変わりはない。
 労るようにガラスに触れたまま、痛みを堪えた目の細め方をする。
「お前、無茶すると体壊すぞ」
 この声は届いていると確信しているが、プラントの反応は何もなかった。


 あれから毎日プラントは指定した数字よりも多くの生産を行い続けている。そのため設定値を低くして対処しているが、なにが余るか予測はつかないし、そもそも根本的な解決にはなっていない。プラントと相性の良い自分ならばと志願したら一度だけ設定させてくれたが、むしろ生産量が増えた。技師全員で試行錯誤しているが解決に結びついたものはまだない。
 この症状はプラントの体調を短期的に見た場合にも問題はあるが、長期的に考慮しても支障はある。正常に作動しないプラントのラストランを中止させることは不可能だからだ。他のベテランには制御できなくても、自分なら正常に扱えると自信があっただけにダメージは大きい。
 困惑は噴き出し口を見失い、煮えたぎったエネルギーとなった。苛立ちを技師仲間にぶつけるわけにもいかず、若さは安直にアルコールを選んだ。行きつけのタヴァーンで、一気に飲み干したジョッキをテーブルに叩きつける。
「ビールもう一杯!」
「お店としては注文してくれるの嬉しいけどねぇ、あんた明日も仕事だろ? これで最後にしときなよ」
 うるせぇと口の中だけで呟いて突っ伏す。店内は相変わらず賑やかだ。一つの命が潰えようとしている気配は微塵もない。今まで散々世話になってきたくせに。クソッと毒づくが小さすぎて喧騒に紛れた。店の喧騒さえもがバーンズを置き去りにして、軽易な未来に進もうとしているようだ。
「やあ、久しぶりだな」
 不機嫌な赤ら顔を上げると、空になった食器の奥に男の姿があった。滲んで揺れる視界が落ち着くのを待ち、男の顔に焦点を定める。
「げぇ、なにしに来たんだよ、親父」
「懐かしい後輩から困ってるって連絡がきてな。心当たりあるだろう?」
 この五〇に足を踏み入れた男の後輩とはチーフのことだ。よりにもよってこの男に相談することないだろう。一人暮らしを始めて久しいが同じ村だ、顔を合わせることは時折あった。それでもやはり、実父から説教を食らうのは腹立たしい上に気恥ずかしい。
 ビールが運ばれてきたタイミングで温かいお茶を注文する朗らかな横顔に呆れながらジョッキに口をつける。
「とっくの昔に引退したくせに、しゃしゃり出てくんなっての」
「父さんも心配なんだよ、プラントのエラーは直してやりたい。お前のことだ、何が原因か予想はいくつかあるんだろう?」
 まぁな、と返し指を一つ立てる。
「ひとつは体調不良。普段のセンサーじゃ把握できないような小さな病気だ。もうひとつはデータ送信の不備。機械に原因がある」
「どちらももう精密検査済みだろう?」
「……その日中に検査したけど、どっちも正常だって言ってた」
 深い溜め息をついて背もたれにだらしなく体重を預ける。
 エラーが出た初日中にプラント医療技師を呼んでくまなくチェックをしてもらった。当日に結果が出る検査はもちろん、数日かかる検査でも病気の恐れはなかった。唯一考えられるのは老いによるエラーだが、生産物が減ることはあっても増える症状は初めてだと言っていた。
 機械のチェックはバーンズも含めた運営技師の仕事だ。すべての機械を明け方までかけてテストしたが不備はどこにもなかった。普通の人間ならお手上げだ。だがバーンズはもとより他の可能性を信じていた。
 ポテトを指でつまんで食べるとフォークを差し出された。ひったくってテーブルに置く。
「あと考えられるのはあいつの意志だな。まだ働ける、だから殺さないでくれって」
 プラントに感情はあるか否かというのはよく議論になるが答えは出ていない。動物か植物かただの道具かの三つに意見は分かれやすい。医療器具をつなげれば明らかになるのではないかと言われているが、一基を無駄にできるほどの余裕はこの星にはない。
 彼女達も死は明確に持っているのに犬よりも大人しい。人間に逆らうこともない。
 だがバーンズは感情があると信じている。顔の半分を覆う火傷痕を作った日のことは忘れられない。
 確信は声を熱くする。
「きっとそうだ。だからあんなに無茶をするんだ。それなら俺が守ってやらないと――」
「本当は違うと思ってるんだろう?」
 泰平顔でソーセージを頬張る顔を凝視する。美味しいと呟いて幸せそうだ。息子の方は動揺のあまり、肘で皿を落として割ってしまった。不愉快な音は喧騒に勝ったが、気づいていないのか目を見開いたまま硬直している。
「なんで」
「お前は嘘つくと瞬きが多くなるんだ」
 割れた皿を片付けるウェイトレスに父親が詫びる。
息子は舌打ちして顔を逸らした。今まで誰にも言わなかったのに。父親に相談したチーフを呪う。
「でも、どれが真実かなんて俺には判らない。誰よりもプラントのことを理解してるつもりだけど、外れてる可能性だってある」
「訊いてみたのか? お前ならできるだろう、そのぐらい」
「できると思うよ。でも、でもさ」
 テーブルに両腕を置きその上に顎を乗せる。
 今日もなんとか仕事を終えたプラントはもう寝ていて、明日も同じように働くはずだ。明後日も、その翌日も、さらに次の日も、その次は? 考えるのをやめて、その先の言葉を封印した。
「珍しいな。プラントのことを一番に考えてるお前がそんなこと言うなんて。まぁ、悔いが残らないようにしなさい」
「言われるまでもねぇよ。つか、飯奢ってくれ」
 快諾する父親の言葉を頭の中でリフレインしながら、食欲を失った口にポテトを押し込む。ちっとも美味くなかった。
今日は悪夢を見るだろうと覚悟しながらベッドに入り、何度も寝返りを打った。何故プラントがあんなことをするのか、もし予想が当たっていた場合はどうすればいいのか。出ない答えを探しているうちに夜は更け、空が白んで起床時間になった。結局一睡もできなかった重い頭をぶら下げて出社する。
 新しい方のプラントを調整している背中が遠くにあった。まだチーフしか出社していないらしい。活動前の工場は冷たさを感じるほど静かだ。馴染み深いプラントの前に立ち、核からはみ出しているエンジェルの眼を捉える。肩の動きは緩い。まだ眠っているのだ。
 あの日のように厚いガラスを手の甲で叩く。
「おはよう。最近無茶ばっかりしてたけど大丈夫か?」
 コントロールパネルは介していないが起きた気配を感じた。パネルを使って起こさないと生産可能な状態にするウォーミングアップはできないが対話は可能だ。学生時代から友人にも教師にもそんなことは非科学的だと嘲笑されてきたが、会話だけでぐずるプラントを宥めれば、謝罪までには至らなかったが黙るようにはなった。この砂の星では証明できないだけで、きっと地球では当たり前の光景だ。
「このまま無茶してたらお前は死んじまう。だから俺としては頑張らないで欲しい。でも、」
 続きの言葉は喉に貼りついた。顔を逸し、続きを吐き出そうと何度も唾を飲み込むが舌は滑らかにならない。静かな工場内で、彼女の視線だけがどうしたのと雄弁に語っていた。彼女は優しい、いつだって。
 拳を握り、痛みを堪えて目を合わせる。彼女はその名の通り天使のように微笑んでいた。
「でも、でももしお前が、ラストランを望んでてこんなことしてるんなら、今日も同じようにしてくれ。ただ諦めてるんだったらするな。俺が絶対に説得して、殺させないから。そこは俺を信じて欲しい」
 エンジェルの表情はほとんど変わらないはずだが、幼子を見守る母の笑顔になった気がした。
 先輩も出社し、いつも通りの業務が始まった。いつも通りにリストを確認して、いつも通りに木箱に詰めて、チーフは眉間の皺を深くし、先輩は溜め息をつき、バーンズは泣きそうな顔で無言のまま作業をして一日が終わった。
 今日のプラントの生産量は、機能停止に近い最小の数値を設定していたのにも関わらず、かつてないほど多かった。出荷分はすべて集荷場に移動させたが床は広くならず、あふれた生産物を収めた木箱が壁のように積み上がる。
強固な意志が込められた生産物の真ん中で、バーンズは立ち尽くす。
 これが彼女の出した答えだった。
 守りたかった。プラントは道具ではないと、人間と同じように天寿を全うする資格があるのだと訴えたかった。まだ若いし未熟だけれど、自分ならば説得できると信じてもいた。だがプラント自身がそれを拒否したら守りようがない。身体の中が全部空っぽになったみたいに無力だ。
 プラントの運転を停止させるとチーフは余剰分を一つずつ検分し始めた。先輩は帽子を脱いで頭を掻く。
「お前なんかしたのか?」
「……してないッスよ。してないし、こんな結果望んでなかったッス」
 あまりにも小さく平坦な声に先輩も黙った。普段の底抜けの陽気さはどこにもない。
バーンズが愛した日常はここで終わる。
「おい、これはお前宛じゃないか?」
 チーフが差し出した物を受け取る。それはあの日と同じ、筒型の吹き出し花火だった。表面をそっと撫でる。花火の生産をするのは年に一日程度だ。今日は設定していない。
 バーンズはそれを強く抱き締め、その場にうずくまった。


 帰宅するとテーブルの上に花火を置き、頬杖をついて眺めた。どこまであの花火を再現したのかは自分の記憶がもう古くて判らないが、こんな色合いだったはずだ。
 彼女と一緒にいた時間はすべてかけがえのない宝物だ。顔に痕は残ったが、火傷が治ればそのことを父と一緒に彼女に報告し、ありがとうとお礼を言った。その後も見学をしょっちゅうお願いして、飽きもせず電球の前で寝そべってずっと見つめていた。
 それもある程度大きくなったらできなくなった。貴重なプラントの傍にいられる人間は限られている。潜在的な部分に潜んでいた、技師になりたいという夢はここで浮き彫りになった。
 父に相談して都会の学校に通わせてもらった。プラント技師は就職先に困らない。もっと条件の良い都市もあったが卒業すると迷わず故郷に戻ってきた。
 成長期は少年の姿を大きく変えた。数年ぶりに再会したプラントは彼のことを覚えているか定かではなかったが、バーンズは真新しい帽子を取り、ただいまと気恥ずかしそうに挨拶をした。
 やっと一緒にいられると喜んでいたがその時間は短かった。別れの時だ。
 帰り際、チーフに頭を下げてラストランの担当をさせて欲しいと懇願した。両腕を脇にピッタリとつけ、深く頭を下げた真摯さは初めて見せた姿だ。チーフは正面から向き合う。
「お前はラストランの研修をしたことがあるか?」
「ないです」
「おれはある。もう何十年も前のことだけどな」
 近隣でラストランを行う予定があれば、生徒達が現場まで見学に赴くことがある。そう頻繁に行われるものではないから経験せずに卒業する生徒の方が多い。就職してからも知らずに終えることも珍しくない。バーンズの父が身近な例だ。バーンズも教科書以外で触れるのは初めてだ。
「あれは見ていて気持ちのいいものじゃない。できればもう二度と経験したくないと思ったよ。耐えられる覚悟はあるか?」
 頭を下げたまま即答できなかった。身近な者の死はまだ経験したことがない。いつだって未来を信じていて、何かを失うなんて考えたことすらなかった。
「…………正直、よく判りません。俺が知ってるラストランは学校で教わったことだけで、教科書には写真も載っていませんでした。でももしここで最期を見届けなかったら、一生後悔すると思います」
 チーフは何度か頷き独りごちた。下げたままの頭を、第二の父親の目で見やる。
「小さな頃から世話になってたもんな」
 そうしてラストランの担当を許可してくれた。
 無理を言って鍵を預かって家に帰り、当日は朝一番に来て始業時間まで電球の表面を磨いた。今日はいつも通りの生産はさせない。そちらは新しいプラントの仕事だ。ラストランは就業時間後に行う。
 木箱に詰め続ける作業をどこか上の空でしていたが、今日だけは絶対にミスはしたくなかった。我に返っては頭を左右に振り、木箱の中身を確認する。フォローはしないぞと先輩は冷淡に告げて着々と自分の仕事をこなしていく。新しいプラントは順調に生産をしている。これなら安心してこれからを任せられる。
 滞りなく仕事は進み、とうとう就業時間が訪れた。木箱をすべて集荷場に移動させ掃除もする。
 村に告知していた通り、新しいプラントの電源を完全に落とした。ラストランに共鳴する可能性があるためだ。村への電気の供給もすべて止まる。自家発電機で最低限の電力は確保しているはずだが、ほとんどの家はランプを灯しているだけだろう。いつになく暗い街並みは、村人全員で彼女に安らぎあれと祈っているように映ったかもしれない。
 工場内も短時間だけ非常電源に切り替わる。薄暗い室内で、古いプラントに接続している装置のライトだけが光っている。
「バーンズ」
 チーフに呼ばれ中二階のコントロールパネルを目指して上る。いつも触りたいと願っていたが、今日だけは喜びはなかった。
 チーフの確認の元、一つ一つ丁寧に数値を入力していく。最期の仕事の中には医療品も含まれていたけれど、化粧品の素材や煙草や弾丸なんてのもあって、彼女が命を削ってまで生産する必要があるんだろうかと疑問はあったが、正確に登録した。
 あとはスタートボタンを押すだけだ。
「ラストランを始めたら中止はできない。もう一度訊く。覚悟はあるか?」
 視線を電球へ下ろし、物言わぬ彼女の姿を網膜に焼き付ける。腐った果実のように爛れている核。そこから腰まではみ出して今にも落ちそうになっているのは、きっと自分を助けようとしたからだ。人間の女性と変わらない丸みを帯びた肩と、小さくへこんだ肘。金髪は少しくすんでいる。美しい骨格としなやかな筋肉は幼い頃から憧れの女性として記憶していた。密度の高い睫毛や、人間とは違った眼球や、筋の通った高い鼻、たまに変化する唇が、神様の手によって配置されたみたいな容貌は生花よりも貴重だ。今まで出会ってきた誰よりも印象深い。
 人間は絶対に持てない、プラントの象徴でもある羽根があちこちから生えている。昔はもっと少なかったはずだ。水分も足りていないように見える。
 彼女の疲労は確実に表に出ている。さらに激しい消耗をさせるなんて酷だ。それでも彼女は決意したのだ。それを自分の勝手で挫けさせるのは侮辱でしかない。
 居住まいを正す。
「はい、いけます」
 チーフの指示で、スタートボタンを押した。
 変化は劇的だった。フル稼働した装置が唸り、工場内に轟音が反響する。常に聖母の微笑みを浮かべていたエンジェルは大きく背を反らし断末魔を上げた。声帯を使ったのかは判らない。だが空気は震え、電球は小さく振動し、こちらの肌まで痺れた。ナイフで全身を切り刻まれているような痛々しさだ。人間を拷問にかけたってこんな叫びは出ないだろう。
 肌から新しい羽根が伸びては散っていく。
 先輩は両手で耳を塞いだ。チーフは顔を逸し瞼も閉じた。バーンズは呼吸を忘れたが、直視はやめなかった。
 太いパイプの中を資材が流れる。皮膚が干からびる、体が腿までずり落ちる。髪は真っ黒に変色していく。その頃には永遠に続くんじゃないかと思われた断末魔は弱くなっていた。だが死は確実に彼女の首に鎌を引っかけている。
 エンジェルの手がガラスに触れた。痛みから逃れようとしているようで、バーンズはコントロールパネルを離れて駆けつけた。階段を下りる途中で足を踏み外しかけたがスピードは落とさない。正面に立ち、ガラス越しに二つの手を重ねる。
 助けたい、このガラスを破れば激痛から解放されるのではないか。そんなはずはないのに、人間の力だけではヒビすら入らないと理解しているのに、実行したかった。
 だが、目が合うと彼女は、痛みの中で慈しむように微笑んだ。
 泣くまいとしていた決意は溶かされてしまった。彼女の腕が力を失い、頭はバーンズの胸より下がる。
 装置の圧力が増した。生命の一滴すら残すまいと搾取する。
 犠牲になった死は美しいなんて嘘だ。叫ぶ力すら奪われた彼女の筋肉は繊維だけになり、骨は脆く崩れ、電球の底に落ちると砕けた頭部の中身が飛び散った。
 これが遠い遠い悪夢だったら良かったのに。
 膝の力が抜け座り込む。ほんの数分前まではいつもと同じ光景だったはずが、もう彼女の原型すら留まっていない。電球の中にあるのは、血だとか内臓だとか眼球だとか、かつての残骸だ。彼女が居たという証である生産物も、日常の中でいつも通りに消費されてしまうのだろう。
 肌を震わすほどの轟音は幻のように消え、重い室内に低い啜り泣きだけが微かに響く。
 工場も村も闇の中に沈んでいる。夜空は無情にも昨日と同じ月と星を湛えている。
 彼女の弔い方は、相談した結果人間と同じように埋葬することに決まった。葬儀屋に大急ぎで上等な棺桶を発注し、彼女の亡骸をかき集め納棺した。神父が役目を引き受けてくれるか不安だったが、柔らかに快諾してくれた。穴に収めた棺桶をみんなで囲み、聖書の朗読を聞き、百合の造花を手向ける。
 当日はプラント技師のみの小さな葬儀だったが、後日、多くの弔客が訪れた。みな黒い服を纏い、長い長い糸のような行列になり、名前も星暦も彫られていないシンプルな墓石の前に幾本もの造花を並べた。
 彼女の死は、この村で永遠の眠りについた誰かと同じ、一つの死になった。
 後追い自殺とまではいかなくとも、しばらく寝こむのではないかと懸念されたバーンズは、意外にも冷静に葬儀に参加し、翌日から仕事も滞りなく勤めた。無駄口を叩くほどの余裕はなかったが不注意によるミスもない。
「バーンズ、大丈夫か?」
 それでもチーフは訊いた。人手は足りていないが、数日ぐらいなら彼が欠勤しても構わないように準備もしていた。彼の熱意を知らない仲間はいない。
 バーンズは傷を隠して振り返る。
「何がッスか? って、訊くまでもないッスよね」
 困ったように笑うと帽子をとり、胸の前で握る。
「正直、つらいです。顔とかぐちゃぐちゃだったし、空っぽになった電球もなくなっちゃったし、ここに来てももう彼女はいないんだって、毎日認めなきゃならないし。でも、俺は毎日自分の顔を鏡で見ます。この火傷痕を見ると、助けてくれた彼女を思い出します。それにみんなも、俺のことバーンズって呼ぶでしょ。だから俺は絶対、彼女のことを忘れません。彼女も俺のことをちゃんと覚えてるよって贈り物をくれたし。他のみんなは彼女が作ったものを消費しちゃっても、俺はずっと持ってます。支えてくれるものはいっぱいあります。彼女はカッコよく最期まで勤めをまっとうしたんだから、俺がカッコ悪い所を見せるわけにはいかないじゃないですか」
 それに、と言葉を続け、帽子を被り直す。
「妹の面倒も見てやらないとですしね。先輩はプラントごとの性格の違いとか覚える気まるでないから、俺がそこんところ把握してあげないと可哀想でしょ」
 まだわずかに痛みを残しながらも、元気さを前面に出した笑顔で、新しい巨大な電球を見上げる。
「今度は俺の方が早く死にます。俺にそんときが来たら、彼女はすんごい悲しむと思うんですけど、それ以上に楽しい思い出を作って、人と一緒に生きてよかった、これからも一緒にいたいって思わせてやりたいんです。だってプラントは、俺達人間のことをちゃんと判ってくれているから」

 ベッドの上にスーツ姿のまま黒い男はくたばっていた。うつ伏せになり、毛布も被らず、じっとりと汗をかきながら深い皺を眉間に刻んでいる。
 薄く開いた唇は呪詛の言葉を綴る。
「魚になってまう……魚になってまう」
「水持ってこようか?」
 赤い男がベッドの傍に寄り添うと、黒い方はだるそうに瞼を半分だけ開けた。焦点はどこにも合わず、水晶体が像を結んでいるとは思えなかったが、目の前にいる赤を捉えようと努力しているのだけは伝わった。力なく呻く。
「暑い」
「そうだねぇ」
 義手が黒い前髪を撫でると、張り詰めていた息を心地よさそうに吐いた。
 この惑星の住人なら誰もが暑さに強いが、この町だけは暑さの種類が違った。
 違和感は、この町にバイクで近づいているときからあった。
 風で形を変えるほど細やかな砂の上と舗装された道路とでは、当然ハンドルとタイヤの手応えは違う。掴みどころのない砂が重くまとわりつき始めたとき、運転していた彼はサングラスの隙間から大地を覗いた。砂の色が濃くなっている。目的の町は遠くのあたりで頭を出していた。
「湿季は終盤に入ったって聞いてたんだけれど、まだまだ濡れてるね」
 サイドカーに目を移す。赤い男はまっすぐ前を見ていた。
「この地域にはごく短い期間だけど、湿季って言うのがあるんだって。地中から水が出てくるって話だよ。塩が混じってるから、生活で使うには不向きらしいけれど。隆盛期にはひたひたになるほど水が出てくるから移動も大変だって噂を聞くけど、どんな光景が見てみたいよね」
 見渡す限り一台しかないエンジン音が響く。強い風が吹いても馴染みの砂粒が頬にぶつかってくることはない。纏わりつくような重い熱気が立ち昇る。
「なんでなん」
 サイドカーの双眸は運転手に向かった。無表情な横顔から質問を正しく読み取る。双つの碧色が細まる。
「元々の地形じゃないかって言われてるけれど、調べられるだけの技術はないから詳しくは判らないそうだよ。この近くに町があるけど、そこのプラントは小さいから彼女の力の範疇外だと言われてる」
 運転手は返事をしなかった。
 暫く走っていると汗が雫となってこめかみから流れた。顎に行き着くと、細かく震えて落ちる。
 汗が皮膚を這い回る感覚は不快だった。
「ここの暑さおかしないか?」
「湿度のせいだね。一際暑さを感じる地域だとは聞いてたけど、ここまでとは僕も思ってなかったよ」
 熱病に罹患したような虚ろな焦点で、赤い襟の下に隠れている顎を手の甲で拭った。甲には汗の玉が伸びていた。それを見つめながら、告げる。
「水が影響しているのか、ここだと魚になっちゃう病気があるらしいよ」
「サカナ」
「鰭が生えて、一夜中泳ぎ回るんだって」
 運転手の声は殺風景だった。
「泳いだことないで」
「魚になっちゃえば泳げるんじゃないかな。歩き方だって教わらなかっただろ」
 水気は増し、所々に水面が生まれた。小さく浅いが鏡の役割を果たし、空がぽっかりとあちこちに出来た。タイヤに砂がへばりつく。否応なく減速し、蛇行を繰り返しながら町に着いた。心なしかジャケットまで湿っていた。
 地平線のあたりで蕩けた夕日が視界の総てをオレンジ色に染め上げた。水はこんな色にならない。こんな所に魚など湧くものか。
 革靴の底とタイヤについた泥を擦り合わせて落とそうとしたが芳しくなかった。不機嫌に格闘している間に、サイドカーは車から降りるとふらふらと町の中心へと歩いていった。運転手も諦めてバイクを押す。
「湿季の景色を眺めるために観光客がやってくるんだって。だから宿は町の規模にしては充実しているそうだよ」
「タイヤも靴もえげつないことになるのにか」
「それはまた乾いたところ走ってれば勝手に落ちるよ」
「運転すんのはワイやろが。落ちへんかったらどないすんねん」
 投げつけた文句は相手にされなかった。赤い男は地面に足が着いているのかそれとも指一本分は浮いているのか安定しない足取りだ。宿を勝手に決めると底抜けに脳天気な口調で勝手にチェックインして勝手に鍵を受け取って勝手に割り当てられた部屋に入った。黒い方ものろのろ追いかけながら、身勝手や自分勝手や手前勝手やと罵った。
 夕食のときは平気だった。地平線にしがみつく夕日がとうとう手を離し、地に這うオレンジ色が消えた刹那、ぷっつりと音が途絶えた。耳に水が入ったと錯覚した赤い男は窓の外を見やり、黒い男は寝込んだ。
 スーツの下の全身が怠く重い。床に這いつくばりたいが堪えた。右手首、左手首、右肘、左肘と順にベッドに引っ掛けていき、ようやくのことでマットレスの上で仰臥した。二つ、三つ息を吐き、鬱陶しい暑さから逃れるようにうつ伏せになる。浅く吐く息と同時に、こめかみから汗が流れた。
「なんやの、この暑さ」
「この辺は水っぽいから」
「魚になってまう」
「なっちゃうかもねぇ」
 黒髪の隙間から流れた汗の跡を指で辿る。子供のように高い体温だ。達者なときなら噛みつかれるが、今はそこまでの気力がないらしく、目を閉じたまま唸って威嚇するだけだ。
「なんでオドレは暑くないんや。不公平や」
「僕だって暑いよ」
「絶対許さへん。魚になったら伝染したる。絶対や」
「穏やかじゃないなぁ」
 しばらくすれば収まるだろうと予想した罵詈雑言は長く続き、魚になってしまうという呻吟が男の喉にへばりついた。流石に哀れだ。
「お水持ってくるよ」
「絶対に許さへんからな」
「僕のせいじゃないのに」
 厨房へ行き、ジョッキの中に氷を山ほど満たして炭酸水を注いだ。ボトルから液体が飛び出す音と、氷が溶けながらぶつかり合う涼しさと、空気が抜ける爽やかさが綯い交ぜになる。ジョッキはすぐに汗をかいた。小魚になって、炭酸水の中を泳いだら気持ちいいかもしれない。
 溶けて丸くなった氷を指先でつついてから部屋に持っていった。
 部屋のドアを開けると、四肢を投げ出していた男はベッドから消えていた。シーツには幾重にも寄った皺だけが残されている。そのまま視線を持ち上げる。
 部屋の角、天井の付近に、それは浮かんでいた。首を軽く曲げ、膝も丸めて、彼は魚になってしまっていた。スラックスの裾から長く黒い鰭が伸び、緩やかに波打っている。眼球からは魚らしく白目が消え、濡れた黒の中に宝石の削り滓のような青や黄色や退紅色が点在していた。魚のくせに猫みたいにニヤニヤ笑って見下ろしている。
 手遅れだったか、と赤い男は手の中のジョッキを見遣り、一応差し出してみた。
「飲む?」
 興味など示さないと思っていたが、魚は軽く壁を蹴ると赤に向かって滑り出し、片手でジョッキを掴んだ。氷水を含む。
 魚になってしまったときの特効薬はないはずだ。一晩経てば自然に治るので、時間と金を掛けて薬の開発を行うのは馬鹿らしいと放置されているのだ。ただ、魚の相手などしたことがないから扱い方にあぐねてしまう。寝かしつければ眠ってくれるのだろうか。
 黒い魚は半分以上中身を残したままジョッキをベッドに放った。大きな氷がこぼれ、冷たい水がシーツに染みを作る。
 自分で汚しておきながら、このベッドの使用を拒否することは明々白々だ。一体どうするつもりだ。魚は一晩中眠らないから関係ないのだったか。
 後始末のゆくえに顔をしかめていると、両手で頬を包まれた。黒い魚と眼が合う。黒い眸に鏤められた虹色の削り滓が大きく映った。他の生き物は持たないその輝きに見惚れそうになったとき唇を押し付けられた。ぬるりと舌が入ってくる。
 魚の舌っていうのは薄くって弾力も感じられず気味が悪い。それが無遠慮に口腔内をまさぐるのだから堪らない。頬の内側の粘膜まで削り取ろうというのだろうか。混じり合った唾液を飲み込む。虹色の滓が瞬いた。
 ねっとりとした不快感がやっと口の中から出ていくと、重力が消失し転びそうになった。踵で踏ん張って持ち堪えるはずが、床を掠めた靴は宙に浮いた。視線の先に伸びた脚を見れば、空に広がったコートの裾は布面積が増え、薄く床の木目が透けた。両の袖からも長い鰭が伸び、布の下から僅かに覗く指には縁だけが赤い鱗が這っていた。
 男の言葉を思い出す。
――絶対許さへん。魚になったら伝染したる。絶対や。
 嫌なところで律儀な男だ。
 黒い魚は嬉しそうにニヤニヤこちらを見下ろしている。どう仕返ししてやろうか。隙きを狙い睨みつけていると、黒い魚は窓の外へ目を向けた。夜が深くなる。そのまま木枠を指先で押し開け、するりと外へ出てしまう。赤い魚も慌てて後を追った。黒い鰭が靡く脛に両腕で抱きつく。鬱陶しがることもなく、空高く泳ぎ続けた。
 屋根を越え、なおも上へ昇り、月でも目指しているんじゃないかって頃、やっと一度止まった。月光に晒された青い風が黒い髪を梳いた。眼の中の虹色が動きながら煌めく。それからは水平に泳いで町から離れていった。元々まばらだった家は影さえも消え、起伏の少ない砂の上に揺らぐ水面の模様が落ちるだけになった。見飽きた頃にぽつりぽつりとワムズの死骸が半ば砂に埋れた廃船となって沈没し、小魚らの住処となっている。珊瑚は人や動物の骨だ。
 耳を澄ますと漣の音が聞こえた。小さな星々が鳴っているのだ。恍惚の溜め息を洩らすと水泡となって天に昇っていった。
 黒い魚は急降下した。脛にしがみついていた赤い魚も一拍遅れて底へ沈む。小さなワムズの廃船で遊んでいた小魚らはちりぢりになって逃げた。背部に空いた穴からうろとなったワムズの内側へ入り込む。黒い背中が砂に着地し、細かい粒が舞った。小さくバウンドする。砂煙が落ち着くと脛から腕を伸ばして黒い服を掴み、ずり上がって頭の高さを揃えた。やっと一息つく。
 うろの中は外より寒い。産毛が震える。月光はほとんど遮られており暗かった。親指の爪ほどしかない灯火クラゲらは予期せぬ闖入者に気を悪くした風でもなく、傘を膨らませてはすぼめた。
 魚になると体温はなくなるし心音も消える。肺は水で満ちて喋ることすらできない。
 それらの代償を払った価値は十二分にあった。たった一夜の儚さだが、この砂の惑星で海が見られたのだ。
 うっとりと溜め息をつくと細かな水泡がまた昇った。灯火クラゲが驚き明かりを強くした。聞こえるのは寝息に似た漣だけだ。
 頬に硬く冷たいものが触れた。下敷きになっている黒い魚が手探りで砂の中から小さなヒトデを拾って貼っているのだ。ニタニタと楽しそうに意地悪をする姿に腹が立ったが看過してやることにした。首に両腕を回して瞼を閉じる。廃船の中は揺り籠のようで心地良い。ゆったりと深い呼吸を繰り返す。


 目を覚ますと宿のバスルームの中だった。空っぽのバスタブの中に、今度は赤い方が下になってふたり重なっていた。鰭も鱗ももう失せた。殺風景な電球の明かりがすとんと落ちている。
 黒髪の間にはたくさんの細かい砂が紛れていた。シャワーで流さないと除けなさそうだ。
 指で黒髪を梳くと砂だけでなく小さなヒトデも発掘できた。健やかに寝ている男のこめかみに貼る。男はまだ起きそうにない。
 それならもうしばらく休んでいようと、窮屈なバスタブからブーツをはみ出させたまま赤い方も瞼を閉じた。



最近の記事