今日、あたしの兄は出て行ってしまう。これは最後の準備だ。
 兄の部屋は使っていた家具はそのままなのに、その中身だけがすっぽりとなくなっている。中身はすべてダンボール箱の中に移してしまったからだ。
 本やDVDなどは先に新居に送ってある。今日は残りの服をつめるだけ。『楓』と兄の名前がかかれたダンボール箱に荷物をつめる手伝いをしながら、あたしは寂しさをこらえていた。
 兄がこの家に戻ってくる頻度は、きっと少ない。

「美咲、手伝ってくれてありがとう」
「うん」
 別の箱に別の荷物をつめている兄を見ないようにしながらあたしは頷いた。
 本当は出て行って欲しくない。でも、兄がこの家に住み続けることを選んだら、それはそれであたしはツライ気持ちになるはず。
 だからせめて気持よく送り出せるように、あたしは一つずつ大切に荷物をしまう。
 荷物と一緒に、新居でも幸せに暮らせるように願いを込めて。

「美咲は、おれが結婚することにまだ怒ってる?」
 唐突な言葉に驚いて顔をあげた。兄は、あたしに背を向けたまま梱包作業を進めている。
 兄が結婚報告をした日のことが再生される。刹那、胸がきゅっと締めつけられた。でも、あたしはすぐに笑顔になれた。
 恋した相手が結婚すると聞いて、悲しくないはずがない。でも自分の恋が実ることより、恋した相手が幸せになれる方が、あたしにとっては大事なことだ。
「はじめから怒ってないよ」
 喪失感とともに甦る。木洩れ日のように美しい思い出。
[newpage]
「はじめまして。透子と申します」

 兄が初めて恋人を家に呼んだ日は、どんな日だったかハッキリと覚えていない。でも、その人がまるで絵画のように美しいと感じたことだけは確かだ。
 品良くお辞儀をした兄の恋人の長い髪は、ウェーブがかかっていて艶やかだった。透明感のある肌は名前に相応しいし、声だって女性的。兄には不釣合いなほど美しい女性だ。
 でもあたしは、透子さんに関心は持てなかった。兄の恋人は、あたしにはあまり関係のない存在だと思っていたから。

 小さなころから人見知りの激しかったあたしは、初対面の人からいつも逃げていた。だから透子さんからも逃げようとした。
 でも透子さんの方は違っていて、あたしにたくさんの質問をしてきた。
 あたしが中学三年生であること、今年の夏でバスケ部の活動が終わってしまうこと、好きなテレビ番組、恋愛やおしゃれについて。
 たくさんの質問をされたからその時は正直困っていたのだけれど、兄はなぜかあたしたちを放置して親としゃべっていた。
 透子さんは姉妹がいないからあたしの存在が妹のようで嬉しいのだと言っていた。あたしも姉はいないけれど、あたしは透子さんを姉のようには思えなかった。そもそも姉が欲しいという願望がなかったのだ。だから少し透子さんのことが苦手だった。

 その日は透子さんが初めて来た日にも関わらず、透子さんも一緒に夕食をかこむことになった。
 あたしと兄と父は一緒にテレビを見ていたけれど、透子さんは夕食を作る母の手伝いをしていた。料理がへたなあたしとは違い、透子さんは料理が得意だったらしい。母はやたらと透子さんのことを褒め、一日で気に入ってしまった。普段は料理の感想など漏らさない父も、一言「おいしい」と呟いた。
 透子さんは透き通るようにはにかみ笑んだ。
 あたしが透子さんに抱いた最初の印象はこれだけ。あたしは透子さん自身よりも、放ったらかしにしていた無責任な兄の方に腹が立った。だから彼女が帰ったあとに兄を責めた。あたしのことを放ったらかしにしないでと。

 でも兄は、
「透子なら大丈夫だと思ったから」
 と、全幅の信頼を彼女に寄せていた。兄が妹よりも恋人のことを優先したように感じられて、あたしは静かに怒り続けた。

 だから別の日に、兄としっかりと話し合おうと、兄がお風呂から上がった後に部屋に入った。兄の部屋に入るのは久しぶりだ。
 あたしが小さな頃から兄の部屋は大人っぽい印象があったけれど、今はそれに無機質という雰囲気がプラスされている。兄が大学に入ったあたりから、あたしへの関心が薄くなったように思う。
 十も歳が離れているから、兄が高校生ぐらいのときまではよく可愛がってくれた。でも今はあたしのことをどう思っているのだろう。
 あたしは家具から兄へと視線を移し、力強く眼を見つめた。

「お兄ちゃん、透子さんがあたしに構ってくるのをやめさせてくれないかな?」
「なんで?」
 兄はちっとも動揺した素振りを見せずにタオルを動かしている。その反応がつまらなくて、あたしはわざとぶっきらぼうに言葉を出した。
「あたしが人見知りしやすいの知ってるでしょ」
「なら、それを直すいい機会じゃないか」
 あたしはそれ以上抗議の言葉が思い浮かばなくて、仕方なく兄の部屋を出て行った。
 兄は家族より恋人をとったようで、それが少し悔しかった。

 それからも透子さんは何度か我が家に遊びにきた。透子さんはいつもあたしに構ってくるから、人見知りの激しいあたしはその前に自室に逃げるようにした。
 今になって思えば、そのときのあたしは愚かだ。
 透子さんの印象が一変したのは、透子さんが家に遊びに来るのが当たり前になってきてから。
[newpage]
 その日は両親がそろって出かけていた。だから家にはあたしと兄と透子さんの三人だけ。
 あたしは自室に逃げたかったけれど、事前に兄に止められていた。あたしと透子さんが、不仲とまではいかないけれど、あたしが避けていることが気がかりらしい。兄はどうしてもあたしと透子さんに仲良しになって欲しかったようだ。

 あたしはなるべく関わらないで済むように友達から借りた少女マンガを読んで距離を置く。兄はそんなあたしを少し意識しているみたいだ。兄の声がいつもより大きい。
「ねぇ透子、前に言ってたドーナッツ作ってよ」
「そうね。お台所かりてもいい?」
「美咲、手伝ってやれよ」
 唐突な言葉にあたしは兄を睨みつけた。あたしがお菓子もへたなのは兄も知っているはずだ。
 だけど、兄の言葉よりも柔らかく微笑んでいる透子さんの笑顔に負けてあたしはマンガを閉じた。お菓子作りも苦手なあたしは、自信がないまま透子さんと並んでキッチンに立つ。

「なにをすればいいの?」
「まずは小麦粉か、ホットケーキミックスのある場所を教えて」
 普段から料理の手伝いをしないあたしには、言われた物がどこにあるのかわからなかった。素直にそれを告げると、透子さんは柔らかく笑んで「じゃあ一緒にさがしましょう」と言ってくれた。

 狭いキッチンだから、棚やカゴを調べているとすぐに両方とも見つかった。透子さんの判断でホットケーキミックスを使うことになった。
「じゃぁ、粉と卵と牛乳をボールの中で混ぜて」
 透子さんはあたしに指示をだしながら、ヘアゴムで長い髪を一つにまとめた。白い首筋があらわになる。血管が透けて見えそうなほど白い首筋は、同性のあたしですら見惚れてしまった。

 そして、白い首には似つかわしくない痣を見つけた。
 髪を下ろしているときには見つからない箇所に隠れていた痣は、さっきまで読んでいた少女マンガに出てくる『所有印』というものだろうか。だとしたらそれをつけたのは兄に相違いなく、身近な人から淫靡な香りを感じとってしまい、あたしは顔をそらした。でも透子さんに対して嫌悪感はなかった。

 あたしは指示された通りに、卵や牛乳をボールの中で混ぜあわせた。それを輪っかにしたりお団子にしたりする。
 正直、自分で作るよりも駅前のドーナッツ屋さんで買ってきたほうが、簡単だし美味しい気がした。でも自分で一から作ると少し、女の子らしくなれた気がする。いつも見た目は男の子のようだと言われるからそれは嬉しいことだった。

 あたしがドーナッツの形を作っている間、透子さんは鍋に油を満たして熱していた。
「最初にすこしだけ種を入れて、温度を調べるのよ」
 透子さんはあたしに説明をしながら、種を少しだけ、熱した油の中に落とした。それはすぐに浮かんで小さな泡をまわりに作った。
「こういう反応をしたら種を入れて大丈夫よ。美咲ちゃん、好きなのを入れて」
「うん」

 あたしは自分で輪っかにした種を鍋の中に落とした。
 無造作に入れたせいで熱くなった油がはね、あたしの手にいくつも散った。

「あっつ」
「大丈夫っ?」
 火傷を負ったあたし以上に、透子さんの方が動揺した。あたしの手首をつかむと水道の蛇口を開けて流水を出した。そこにあたしの手を入れる。
「ごめんなさいね。ちゃんとわたしが注意しなかったから」
 透子さんが謝りながらあたしの手を冷やしてくれたけれど、その言葉はちっともあたしの頭の中に入らなかった。
 そのことよりも、透子さんの指に見蕩れていた。


 透子さんの細くて長い指が、とても美しかった。


 まるで植物の蔦のようにしなかやで柔らかな指だった。その蔦があたしの指に絡まってくれていることが、息もできないくらい嬉しかった。嬉しすぎて涙が出そうになる。
 なぜ今までこの指に気がつかなかったのだろう。指輪もはめておらず、マニキュアも塗っていない指は、おしゃれに着飾っている女性たちよりも美しかった。

 その美しい蔦で指先に触れられ、身体が甘く痺れた。
「──ッぁ」
「ごめんね、痛い?」
 それは痛みではなく欲望だった。透子さんの声がもっと聴きたい。もっと触って欲しい。その美しい指で。
 身体の芯がこらえがたいほどの熱を帯びてくる。

 でもその熱は、急速に冷まされた。
「どうかした?」
「わたしの不注意で、美咲ちゃんに火傷させちゃって」
「どれ?」
 騒がしくなったキッチンに気づいて、兄が様子を見に来たのだ。兄の介入により透子さんが離れてしまった。熱かった指先が水道水で冷えてゆく。
 透子さんの代わりに触れた兄の指は、男らしく骨ばっていた。この指も嫌いではないけれど、それ以上の感慨はなかった。

「ちょっと赤いけど、大したことなさそうだな。氷で冷やせば充分だろ」
「……うん」
 名残惜しい時間が終わってしまい、あたしはとても残念だった。兄に渡された氷で赤くなった皮膚を冷やす。
 指先を眺めているあたしに、透子さんは眉尻をさげて心配そうに声をかけてくれた。
「美咲ちゃんは休憩していた方がいいわね」
「いえっ、あたしも作りたいです。ドーナッツ」

 透子さんは気を使ってくれたけれど、あたしは火傷の痛みよりも、もっと一緒にいたい気持ちの方が勝った。迷惑だろうかと不安になったけれど、透子さんの微笑はやっぱり柔らかくて安心した。
「じゃぁ一緒に続きを作りましょう」
 続きはなぜか兄も混ざって三人でドーナッツを揚げることになった。兄が混ざったこと残念だったけれど、できあがったドーナッツの味は駅前のドーナッツ屋さんよりも美味しかった。

 不器用なあたしは、透子さんともっと話しがしたくなったのに、なかなか話しかけられずにいた。そのうち母が帰ってきて、母の勧めで透子さんは泊まることになった。たくさん透子さんを見られることが嬉しかった。
 何度も透子さんと食事をともにしたけれど、今日の夕食は特別だった。箸を持つ指、大きく開かれた唇、耳にかけた髪のどれもがあたしを恍惚とさせた。お風呂上りの姿は、羞恥心で見られなかった。
[newpage]
 夜が更け、自室のベッドに寝転がってからもあたしの胸は甘くつまった。いままで男の子に恋をしたことは何度かあったけれど、こんなにも狂おしくなったことはない。
 あたしは友達に借りた少女マンガのことを思い出し続きを開いた。昨日までは憧れだった主人公の気持ちが、今は自分と重ね合わせることができる。
 透子さんのことを思うと、息もできない。

 マンガを読み進めていると、すすり泣きだろうか。隣室から声が聞こえてきた。隣室は兄の部屋だ。透子さんも同じ部屋で寝る予定だ。
 口論している声は聞こえなかったけれど、もしかしたら静かにケンカをしたのかもしれない。あたしは耳を澄ませて会話を聞き取ろうとする。
「──アァッ」
 その声は、すすり泣きではなかった。

 兄と透子さんは恋人同士で、同じ部屋にいる。
 それならば、この声の正体は。

 マンガの中でしか知らない行為。見えないはずの透子さんの肢体が、あたしの瞼の裏に映る。
 瞼の裏の透子さんは、裸体であたしの身体をまたいで見下ろしていた。蔦のように美しい指先が、あたしの皮膚を撫でる。その跡を追うように、あたしも自分の身体に指を這わせた。
 隣の部屋の透子さんの苦しそうな声がずっとあたしの耳をくすぐる。

 自分が求められているような錯覚を受けて、火傷を負ったときのように身体の芯が熱を帯びた。
 ──透子さん、もっと。もっとその美しい指であたしに触れて。
 瞼の裏の透子さんの指は胸からへそ下まで移動して、さらに移動を続ける。そして美しい指先は、一番敏感な箇所を引っ掻いた。

 足先にまで甘い痺れが貫く。
「んっ」
 自分でも触ったところのない場所だけれど、不思議と怖さはなかった。むしろ瞼の裏の透子さんにもっと触れて欲しいと願った。
 透子さんの美しい指と、白い首筋が鮮明に瞼の裏に映る。

「かえで……」
 隣の部屋の透子さんが兄の名を呼んだ。
 その瞬間、あたしの眼から大きな涙があふれた。
 本物の透子さんに触れられている兄が、本物の透子さんに求められている兄が羨ましかった。
 その美しい指先で兄のどこに触れているの? 白い首筋にはまた兄が痕を残しているの?

 瞼の裏の透子さんの指先とあたしの指が、餓えたように何度も敏感な箇所を引っ掻く。透子さんを求めるたびにその指は濡れ、束の間満たされる。
「と……こ、さん」
 あたしも、透子さんに触れられたい。
[newpage]
 指に火傷を負ったように、その日からあたしの胸も火傷をしたように熱をはらみ、ヒリヒリと痛かった。この痛みを取りのぞく氷は持っていない。

 痛みが増すにつれ、透子さんが遊びに来る日がとても待ち遠しくなった。
 いつ遊びに来るかわからないけれど、兄との会話の断片を聞いて透子さんが好きだというお菓子を常備するように気をつけた。お菓子作りを教えてもらうことも、兄が席を立った瞬間を狙ってお願いした。
 透子さんにとっては些細なことのはずなのに、あたしがしたことすべてに喜んでくれた。あたしにとってそれは、とても幸福なことだった。

「美咲ちゃんは、お菓子作りがとっても上手になったわね」
「本当?」
 それは一緒にシフォンケーキを作っていたときのことだ。写真みたいにふんわりとケーキが焼けてとても嬉しかった。でもそれよりも、透子さんに褒められたことの方が嬉しかったし、少しくすぐったかった。
「今度、美咲ちゃんと、美咲ちゃんのお母さんと、わたしの三人で一緒に料理を作りましょう。きっと楽しいわ」
「うんっ」
 料理に誘ってくれたことが、誰かに自慢したくなった。
 ふとソファの方を見ると、兄はどうやら透子さんと積極的にコミュニケーションをとろうとするあたしに安心してくれたようで、あたしたち二人を笑顔で見守っていた。

 そして約束通り三人で料理をしたときは、母があたしのことを褒めてくれた。
 透子さんが泊まると決まった日は、あたしは期待してしまった。あの日のように声が聞こえてくるのではないかと思うと、それだけで身体の芯が熱をはらんだ。
 隣室から声が聞こえてくると、瞼の裏に映る美しい指があたしの熱に応えて濡れそぼつ。翌朝透子さんの顔を見るのはとても恥ずかしくてできないけれど、夜のできごとがあっても透子さんの透明度はちっとも下がらなかった。
 透子さんのようになりたいかと問われたら、よくわからないと答えていただろう。その気持は今も変わらない。透子さんはいつもあたしを受け入れてくれたから、あたしは自分に劣等感を抱かなかった。こんなにも美しい人が隣にいるのに心地よく過ごせることができたのは、透子さんの魅力の一つだったのだろう。

 でも透子さんの美しさと透明感には、高嶺に生えている一輪の花のように憧れていた。それは、眺めるだけで充分に幸福になれる魔法のようだった。
 あたしのそんな憧れはささやかに降る雪のように、静かだけれどしっかりと積もっていった。もしそれが本当の雪だったら、くっきりと足跡を残せただろう。
 兄から報告があったのは、そのぐらいのときだった。

「みんな、話があるんだ」
 両親とあたしとがそろっているとき、兄は透子さんと手をつないで家族を呼んだ。兄は真面目な顔をしており、母は呼ばれた理由がわかっているのか、なにかを期待しているように眼を輝かせていた。父はいつもと変わらない。
 あたしは呼ばれた理由がわからなかった。
 呼ばれた三人はいつも食事をしている席に座らされたけれど、兄と透子さんは立ったままだ。
 兄は透子さんの手を強く握り、透子さんに微笑んだ。透子さんも優しく微笑み返した。このときの透子さんの笑顔は、いつもより輝いているように感じた。
 そして兄はゆっくりと、だけどしっかりと声を出した。


「僕たち、結婚することに決めました」

 
 兄の言葉が弾丸となって、あたしの胸を貫いた。
 あまりにも強い衝撃でなにもできない。母の歓声だけが遠くに聞こえる。
 透子さんの恥ずかしそうな笑顔が眩しい。
 火傷の痛さより、弾丸の痛さの方が勝る。

 痛みから逃れたくて、あたしは心の中で何度も透子さんの名前を呼んだ。
 透子さんと目が合った。とても嬉しそうな顔をしていた。あたしは、堪えることができなかった。

 不自然さを繕うことができないまま、二階の自室へと走って逃げ込んだ。ドアを閉めたとたん、立っていることができなくなって、ドアに背を当てたままずるずるとくずおれた。
 眼の奥が熱い。弾丸が貫通した穴から血が噴き出す代わりに、眼から涙が溢れ出た。
 透子さんと兄が結婚することは意外でもなんでもなかった。なのになぜかあたしは、このままの関係がずっと続くと信じて疑わなかった。

 自分の気持を伝えたいと思ったことは一度もない。触って欲しいと願い続けるだけで、このままでいてくれればそれで充分だった。
 ただ、兄と透子さんは今の平穏を確実にしただけのこと。それはわかっているのに涙が止まらない。

「美咲ちゃん」
 ドアが優しくノックされ、心配そうな声が届いた。あたしの胸がきゅっと締めつけられる。
「美咲ちゃんは、あたしと楓さんが結婚するのに反対?」
 声が出ないあたしは代わりに首を左右に振って答えた。でももちろん、ドアの向こうにいる透子さんには伝わらない。

 透子さんの声は、とっても悲しそうで、それが弾丸と火傷と両方の傷の痛みを強くする。痛みを堪えるために、胸元の服を強く握った。
「美咲ちゃんにとっては、お兄さんをわたしに取られるようで嫌かもしれないけれど、でも、わたしなりに楓さんのことを、幸せにしたいの。それはわかって」

 違う。違うんです。
 透子さんのことを困らせたいわけじゃないのに、どうしてもその一言が出ない。
「でもね、わたしは美咲ちゃんのことも好きだから、美咲ちゃんに結婚していいって許可が欲しいの。だから、それまで待っているわ」

 あたしは震える脚に力を入れて立ち上がった。透子さんが立ち去ってしまう前に伝えないと、絶対に後悔をする。
 涙で汚れた顔のままドアを開けた。その先では、いつも笑顔しか見たことのない透子さんの表情が悲しそうにゆがんでいた。あたしがこんな表情にさせてしまったのだと思うと、罪悪感で苦しくなる。

「違うんです」
 掠れた声でそれを伝えるのがやっとだった。涙で喉が押しつぶされてそれ以上の声がでない。両手で自分の顔を覆い隠した。

 そんなどうしようもあたしを、透子さんは優しく抱きしめてくれた。
 息が止まる。

「わたしは美咲ちゃんのことも楓さんのことも、同じぐらい大好きよ」
 熱い涙があふれた。
 透子さんが抱き締めらてくれた。それだけでもう充分だった。これ以上なにかを望んだら、きっと罰が当たってしまう。
 透子さんの胸の中で泣きながら、胸に空いた弾丸の跡も火傷の痛みも、癒えてゆくのを自覚した。
[newpage]
 しばらく泣いたら落ち着いて、ちゃんと喋られるようになってから、二人におめでとうの言葉を伝えた。兄は苦笑していたけれど、透子さんはふんわりと微笑んでくれた。
「でも一つだけ、お願いがあるんです」
 あたしの申し出に二人は首をかしげた。あたしは自分の組んだ指に力と勇気を込める。
「透子さんのこと、お姉ちゃんじゃなくて今までと同じように名前で呼びたいんです。だめですか?」
 二人が結婚したら、透子さんとの関係は義姉と義妹になってしまう。それは今より距離が空いてしまうような気がして嫌だった。あたしの願いは意味がないかもしれないけれど、あたしの気持ちを整理するには、これが一番の解決方法だったのだ。
 このお願いにも透子さんは笑顔で快諾してくれた。
「ええ、もちろんよ」

 ただ兄の方は不安が残っていたらしく、その日の夜にあたしの部屋にやってきた。兄は少し怒っているように見える真面目な顔で問いかけてきた。
「美咲は本当に、俺たちが結婚していいと思ってる?」
「うん。だからおめでとうって言ったんだよ」
 あたしは兄を安心させるために笑顔を浮かべたけれど、兄は怖い顔を崩さなかった。
「美咲は、俺のことどう思ってる?」
「どうって……」

 兄はどこまで気がついているのだろう。
 透子さんへの憧れは強かったけれど、兄をライバルだと思ったことはなかった。羨ましい存在ではあったけれど、あたしがその位置に収まりたいと願わなかったからだろう。
 あたしにとって兄とは。
 考えるために視線を巡らせる。そしてピタリと、兄の目へ行き着いた。

「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだよ」
 あたしにとって兄とは、大切な家族だった。だから、この結婚で幸せになって欲しい。
 二人の結婚が確定してからも透子さんは何度も遊びに来てくれた。ときには一緒に結婚情報誌を眺めて、透子さんが着るであろうウェディングドレスに夢をはせた。透子さんは兄にするように、あたしのことも大切にしてくれた。
 両家顔合わせの食事会で初めて透子さんの両親に会った。透子さんはお母さん似のようだ。
 すべての時がきらきらと煌きながら甦る、大切な思い出。
[newpage]
 あたしは兄の最後の荷物を段ボール箱につめ終えると、ガムテープでしっかりと封をした。
 今日兄は家を出て行く。新居はこの家から片道三時間。日帰りできない距離ではないけれど、兄が透子さんを連れてこの家に遊びにくるのは難しい。
 もうきっと、年に数回しか会えない。寂しいけれど、でもそれが透子さんにとって良い選択なのだ。
 まだ作業をしている兄の背中を見つめる。透子さんが選んだ、世界で一番幸せな人。

「お兄ちゃん、ちゃんと透子さんのことを幸せにしてあげてよ」
「当たり前じゃないか。お前に心配されるまでもないよ」
 兄が約束をしてくれたから大丈夫。二人は幸せに暮らせるはず。
 あたしはもう使われる予定のないベッドへ顔を向けた。そこで寝ていた透子さんはきっと幸せそうな寝顔を浮かべていたのだろう。兄だけが見られる、特別な顔。

 ピンポーン。
 間延びしたチャイムが聞こえ顔をあげた。部屋の時計を確認するともう約束の時間だ。
「あたしが出る」
 兄に先をこされないよう慌てて立ち上がる。
 次に会うのはきっと結婚式。そのときの花嫁さんは一番美しい人。
 あたしは玄関のドアを勢いよく開けた。眩しい光とともに、優しい笑顔が視界に飛び込んでくる。

 それは──、
「いらっしゃい」
 この世界で一番大好きな、あなた。
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 学校のグラウンドで、イルカがジャンプをした。
 バーを睨んでいるのは体操着姿の女生徒だ。体操着は青色――三年生なのだろう。
 力強く地を蹴りバーへ迫る。伸びた背筋、真っ直ぐな指、流れる前髪。その女生徒はバーに肉薄する直前、脚をバネへ変えて高く跳んだ。背面跳び。
 青い空の中で、しなった背中が美しく映える。小学生のときに初めて見たイルカのジャンプのようだ。
 近くのプールから塩素の匂いが漂い、水を彷彿とさせる。
 千苗は小学生に戻り、口を大きく開けたマヌケな表情になった。女生徒が背中からマットに着地した音で我に返る。呆けたせいでずれたメガネの位置を直した。その途端、屋外で部活をしている雑音がよみがえる。
 走高跳に成功した女生徒はマットから上体を起こした。胸につけているゼッケンで神崎という名前なのだと判る。一直線に視線を送っていた千苗に首を傾げた。
「一年生? 見学?」
 筋肉とは無縁な骨の硬さが目立つ千苗に対し、神崎は陸上部らしく引き締まった健康的な体をしていた。憧れの体格に話しかけられると赤面し、目を逸らしてしまう。
「は、はい一年です。でも見学じゃなくて、たまたま見てて、キレイだなって」
「キレイ? あたしが」
 神崎の声には自嘲が含まれていたが、はい! と大きな返事をした。そのままの勢いで深く腰を折り謝る。
「初対面で、いきなりすみません」
「初対面とかは気にしないけど、意見は違うと思う。キレイって言うなら短距離の水森さん、イケメンなら高城くんだよ」
 マットに座ったまま神崎はトラックの方を眺めた。あれが短距離走の選手なのだろう、何名かの生徒がタイムを測っていた。水森のゼッケンもある。ポニーテールが似合っている華やかな顔だ。だが千苗は首を左右に振った。
「違うんです。先輩のジャンプはイルカみたいにしなやかで、映画っていうか、写真っていうか、とにかくスゴイなって!」
「そんな風に言ってくれたの、初めてだよ」
 陰りのある声は千苗にとって冷水になった。もう一度謝ろうとしたが神崎はすぐに笑顔になった。
「あなたは跳ばないの?」
 自分のつむじを見るように目線を上げ、頭を撫でる。
「背が小さくてガリガリだから運動とか苦手で。見るのは大好きなんですけど」
 神崎は正面に立ち見下ろした。かすかに汗と土の匂いがする。千苗の頭の前で手を横にして高さを計った。目の位置ぐらいだ。
「一五〇センチぐらい?」
「に、ちょっと足りないです。一四八センチ」
 ふーんと呟くと、神崎は先ほど跳んだバーを振り返った。
「あれは一四五センチ。次の一五〇が越えられないんだよね」
 声は爽やかだったが、バーを見つめたまま痛そうに眉根を寄せた。
「もとは短距離だから、ジャンプ力がなくて」
 イルカの姿とは結びつかない弱々しい姿。
 千苗は背伸びをしてほんの少しだけ近づいた。
「じゃああの、応援、とかしに来ていいですか」
 戸惑った神崎はトラックの方を伺った。水森と一瞬だけ目が合うが互いにすぐに逸らした。
「えっと、金曜の放課後練習だけなら大丈夫。自由練習なんだ」
「判りました。じゃぁ金曜日に来ますね」
 眉尻を下げた笑顔に、千苗は首を傾げた。


 千苗は図書室で本を数冊抱えたまま他の本も物色していた。書名にはすべて『走高跳』と入っている。抱えている数冊を借りてグラウンドを目指した。
 神崎はすでにグラウンドに来ていた。だがマットの上でバーを背中に敷いたまま、青空を眺めていた。うっすらと滲んだ汗が太陽を反射している。
 千苗は駆け寄ると、驚かせるため勢いを殺さずに真正面から覗き込んだ。
「先輩! 休憩している場合じゃないでしょっ!」
「わぁ。千苗ちゃんは今日も元気だねぇ」
 神崎は大して驚かなかったのかくすくすと笑った。緊張感のない態度に、千苗は腰に両手を当ててお母さんのようになる。
「大会、来週じゃないですか。一五〇センチの壁越えましょうよ」
 運動部といえば厳しい練習のイメージが強かったのだが陸上部は緩やかだった。金曜日は自由練習と称して顧問はほとんど顔を出さない。走高跳は神崎以外に選手がおらず、常に自分で準備をし、一人で跳ぶだけになっている。そんな状況で、制服姿の千苗が見学をしたり片付けを手伝うのは目立っていた。神崎も戸惑いながら短距離の選手たちへ逃げるように視線を送ることが多々あったが、回数を重ねるにつれて視線は減り、曇りのない笑顔を千苗に向けるようになった。
 のんびりとした環境に千苗もくつろいでいたが、先週の帰り際に地区大会があると聞いて背筋を伸ばした。どうしてそんな重要なことを黙っていたのかと怒ったのだが、うちの陸上は弱いから誰も期待してないよ、と苦笑された。だが負けたくはないと千苗は闘志を燃やす。
「図書室で借りてきました。このページとか参考になると思います。一緒にあがきましょう」
 本を受け取ると、神崎はうつ伏せで教本の文字を指でたどる。雑誌を読むような気軽さだが、脚が時折動いていた。
「足は四十五度、上へ行くようへ……」
「できそうですか?」
「読むだけじゃね。やってみないと」
 マットから降りると軽く屈伸をし、千苗がバーを設置し直す。真剣な目付きでスタート地点に立った。
 助走から踏み切り、ジャンプ。
 青い空を泳ぐ姿は、千苗も跳んでいるのだと何度も錯覚させた。夏の暑さも喧騒も止む。
 息まで詰まったが、バーが滑る音で洩れた。かかとが引っかかったぁ、と間延びした声が宙に浮く。マットに近づき、再現するように千苗は片足を持ち上げた。
「でも後もうちょっとでしたよ。足が、あと数センチこう」
「パンツ見えちゃうよ」
 指摘され慌ててスカートを両手で押さえた。神崎の高い笑い声が響く。イルカの姿はいつでも小学生に戻した。
 顔を赤らめてプリーツを整えていると手招きされた。緩やかな風が吹く。近づき、寝転んでいる姿を見下ろした。
「大会、応援に来てね」
「もちろん行きますよ。そして跳んでください、私の身長」
「うん!」
 神崎の笑顔が太陽のように輝いた。


 地区大会は土曜日に行われた。そのため保護者の姿も多く見受けられたがグラウンド内に入れる雰囲気ではなく、遠巻きに応援していた。複数の競技が同時に行われているため雑然としている。千苗はグラウンドの縁を歩きながら走高跳の場所を見つけた。緊張気味の神崎と目が合い、両手を上げてジャンプする。笑顔で手を振り返してくれた。
 神崎の順番が来て身軽にバーを跳んだ。姿は小さかったが、やはり息が詰まる。マットから起き上がった神崎は安堵の表情で近づいてきた。
「今の一四五センチ。次が一五〇だよ」
 学校で見るときよりも自信に満ちた笑顔につられ、千苗の両手に力が入った。気合を渡すように神崎の手を握る。
「先輩なら跳べます! ここから応援してますから、格好いい姿見せてください」
「ありがと。今日はすごく調子がいいの。期待していいよ」
 強く手を握り返され頷いた。
 「次のジャンプまで時間があるから他のも見てきなよ。放送かかったら戻ってきてね」
 手を振り、日陰へ避難した神崎を見送ってから千苗は歩き出した。陸上部で他に馴染みのある生徒はいないが、見慣れた体操着を見かけるたびに胸が熱くなった。グラウンドを覗き込み知らない生徒にも声援を送る。
 トラックを一周するころ、女子の走高跳の放送がかかった。小走りで先ほどの場所まで戻る。手を祈りの形に握って姿を捜すが、数人の女生徒が列をなしている中にはいなかった。日陰にもいない。一人目が跳び始めている。
 放送がかかってすぐに来たつもりだがもう跳んだ後なのか。だとしたらどこにいるのか。焦り始めたころ、苦味のある声に呼ばれた。
「千苗さん?」
 短距離走に参加している水森だった。不機嫌そうに顔を歪め、しかしどこかバツが悪そうに目線を逸らしている。
「伝言。神崎は棄権したわ。部で帰んなきゃいけないから、先に帰ってって」
「キケン?」
 じゃあ、と立ち去ろうとする背中を慌てて呼び止めた。睥睨される。
「棄権って、なんでですか」
「足をひねったのよ。ストレッチ中に」
 そんな。と呼吸のように小さな言葉がこぼれたが、それは誰にも届かなかった。
 水森が去り、自分の手を見る。観客も選手も大勢いるのに孤独だった。
 一番悔しいのは本人のはずだ。そう思うのに、蝉の声が煩わしい。


 神崎とは週が明けてからも会うことはなかった。金曜の部活動以外で会う習慣がなく、千苗の方からクラスへ行くのも躊躇われ、結局金曜の放課後まで待った。いないかもしれない不安を抱きながらグラウンドへ走る。
 いつもの場所に走高跳の準備はされてあったが、誰もいなかった。代わりにトラックの方に人が集まっている。
 首を傾げながら千苗も群れの端に並ぶと、眼前を突風が駆け抜けた。
「えっ」
 声がこぼれたときには、水森が遅れてゴールをしていた。野次馬たちがまばらに拍手をしている。やっぱり神崎には勝てないよな。の言葉を拾い、突風が抜けた方へ顔を向けた。肩で息をしながら神崎が笑っている。
「あたしの勝ち。罰ゲームよろしく」
 同じように息を荒くしている水森は憎悪に近い剣呑さだったが、黙って言葉の続きを促していた。神崎は右腕をまっすぐ伸ばす。
「あれ、一五〇センチに高さ合わせてちょうだい」
「……それだけ?」
 訝しげな様子に、一人でやるの大変なんだよ、と軽く答えた。早足で走高跳の場所へ向かう水森の背を追いながら、千苗の向かって片手を上げる。
「先週はゴメン。せっかく来てくれたのに」
「いえ、それより足は大丈夫なんですか」
「さっきの見たでしょ」
 爽やかに答えると、バーの高さを変えている水森に視線を移した。わざとらしく、いたずらっ子のような含みのある笑みを浮かべる。
「まぁ、ひねっちゃったときはへこんだけどね」
「あれは私のせいじゃないでしょ!」
 バーが不要なほど強く設置され、鈍い音が響いた。水森と神崎のにらみ合いを鼓膜が捉えたようだ。三人とも動かなかったが、神崎が最初に視線を外した。
「そう、水森さんのせいじゃないよ。だってそうする理由がないもの」
 神崎は準備体操の要領で足首を回す。
「あたしは高城くんに告白されたけれど断った。そんな人のこと、恨まないでしょ」
 停滞した沈黙に千苗は動けなかった。そろりと視線だけで水森を伺うだけで精一杯だ。
「できたから」
 水森の呟きが水泳部の声に紛れた。そしてトラックに戻っていく。風が吹き、やっと停滞が飛ばされたがどうすればいいのか佇むだけだ。
「あたしね、走高跳、すごくつまらなかったの」
 弾かれたように顔を上げた。神崎の声は寂しそうだったが、穏やかに短距離走を眺めている。
「もう部活もほとんど終わりってときに種目変えたし、下手だし。だからね、イルカみたいって、すっごく嬉しかったよ」
 風に乗って塩素の匂いも届いてきた。胸が苦しくなる。
「三年の部活はね、今日が最後なんだ。だから、一五〇センチ越えのチャレンジは今日だけ」
 頭をくしゃっと撫でられ、こらえた。鼻の奥が痛い。
「会えなくなるわけじゃないんだからそんな顔しないでよ。とびっきりのジャンプ見せてあげるからさ」
「……はい」
 両肩を押されバーの真横に立った。二センチだけバーの方が高い。
「そこ、特等席」
 神崎はスタート地点に立った。しなやかな体を目に焼きつけようと、ぎゅっと拳を握る。
 早い助走、強い踏み切り、上へ行くようへ、踵を浮かせて。
 細かな汗が舞い、バーを越えた。
 青空を泳ぐイルカの姿は、見てきた中で一番美しかった。

 三時だ。大きく伸びをすると幼馴染みが怒った顔をしたが時計を見て納得したようだ。鞄を持って図書館の勉強スペースを出る。
「すごい集中したぁ。頭クラクラする」
「糖分欲しいだろ。ポッキーやるよ」
 鞄を開けるとすぐ赤いパッケージが見つかった。開封して差し出す。
「ありがと。本当にポッキーが好きだよね」
「この赤を見るとつい買っちゃうんだよな。買って食べてって呼ばれてる気がしてさ」
「それ前にも聞いたよ」
 笑いながらかじる幼馴染みが可愛くて、赤面をごまかすように彼女のポニーテールを引っ張る。
「痛っ、やめてって言ってるでしょ」
「その赤いリボンは引っ張りたくなるんだよ」
 幼馴染みはいつも真っ赤なヘアアクセをつけていて遠くでも一目で彼女だと判る。
「……ポッキーの赤に似てるでしょ?」
「えっ」
「休憩終了っ」
 足早に戻る彼女の手を繋いで帰れたらなんて、俺を呼ぶポッキーの箱で練習をしてみた。

「なんでよっ!」
 お姉ちゃんの声であたしは産まれた。昨日もおとといもお姉ちゃんは怒っていたけれど、産まれたのは今日がはじめて。
 居間にふたつの人影。ひとつはお姉ちゃん。長い髪と着物姿だっていうのが影だけでもわかる。もうひとつは旦那さん。こっちはワイシャツと眼鏡をかけた姿で見下ろしている。
 悲しくてつらいお姉ちゃんは非力なこぶしでぽこぽこ叩く。旦那さんは困った顔をするだけで、労るつもりはまったくなさそう。あぁ、腹立たしい。
「どうしてよっ……どうしてぇっ!」
 必死で泣き叫んでいるのに、ぼそぼそと何か応えるだけ。旦那さんは、お嫁さんを守るためにいるんじゃないの?
 あたしも加勢して、ぽこぽこぽこぽこ殴りたい。
 旦那さんは両肩をつかんで説得しようとする。違うの、お姉ちゃんがほしいのはそんな言葉じゃないのよ。
 お姉ちゃんは大きな涙をぽろぽろ落とす。
「奪わないでよ、私の赤ちゃん……とらないでよっ!」
 とっても辛そう。あたしが守ってあげなきゃ。世界中のみんなからあたしが、あたしが。


 あたしはお姉ちゃんの刺しゅうをしている姿が大好き。あかーい糸、あかーい糸、きいろーい糸、みどりーの糸。床の上に寝そべりながら、お姉ちゃんの手の中で咲きはじめる花の刺しゅうを眺める。針が動くのに合わせてあたしの首も動く。あかーい糸、あかーい糸、いつまでも飽きないでいられる。
 お姉ちゃんは妊娠していて、お腹がとってもおおきい。両腕をめいいっぱい伸ばして抱きしめても、右手と左手の指はくっつかない。たぶん、西瓜がみっつぐらい入る大きさ。普通のお洋服じゃ入らないから、お相撲さんが着るようなおおきな浴衣を羽織ってる。でも、あんな可愛くない柄じゃないのよ。白地に藤のお花がかかれてる布で、お姉ちゃんの手作り。刺しゅうだけじゃなくて服をつくるのも得意なの。じまんのお姉ちゃん。
「あら?」
 お裁縫箱にのばされた指がとまった。中をのぞくと、あかい糸、きいろい糸、みどりの糸、あおい糸はあるのに、ももいろの糸だけがなくなっていた。これじゃ新しいお花を咲かすことができない。
 お姉ちゃんは眉をきゅっと寄せて、今にも泣き出しそうな怒った顔。見ていたくない。守ってあげるよ。
「手芸屋さんに行こうよ」
 げんきな声で提案するとお姉ちゃんはやっと明るくなった。立ち上がると裾がめくれ上がる。
 去年よりもおおきくなったお腹は、おおきな浴衣でも前を合わせることができなくて、仕方なくすこしはだけたままで帯を締める。あたしはひらひらしたブラウスと、赤いスカートと、ぴかぴかのハイヒール。毎日着ているお気に入りの服装。お姉ちゃんにぎゅっと抱っこしてもらって手芸屋さんへ。
 いつも行っている手芸屋さんはデパートみたいにおおきい。たくさんの刺しゅう糸やかわいい柄の生地、もこもこの毛糸がずらりと並んでいる。上の方からはカタン、カタンって機織りの音も聞こえてくる。
 お姉ちゃんはここのお得意様。結婚する前のおおきなお屋敷に住んでいたころからいつもここで買い物をしていた。お店に入ったとたんにベテランの売り子さんが笑顔で駆けてくる。
「いらっしゃいませ。本日はなにをお求めでしょうか」
「桃色の刺繍糸がほしいのよ」
「かしこまりました。ただいまお持ち致しますので少々お待ちください」
 衝立で他のお客さんと区切ったちっちゃな応接室に案内される。お姉ちゃんがいつもの椅子に腰掛けると、新米売り子さんが紅茶をひとつテーブルに置いた。本物みたいなお花がかかれてる、うすい陶器のティーカップ。とっても綺麗なのに、新米さんは緊張してるのか手が震えてて台無し。ちっとも目を合わせないし。接客へたっぴ!
 でも紅茶の甘いにおいですぐに機嫌がなおる。誰でもすぐに上等だってわかる香り。味わっているとベテランの売り子さんが戻ってきた。黒い天鵞絨で覆われた台を両手で持っている。それを音を立てないようにテーブルに置いた。
「本日在庫がございますのはこちらの種類のみになります」
 台の上には四種類のもも色の糸が乗っていた。でもどれも強い色ばかりで、お姉ちゃんの好みじゃない。
「もっと淡い色はないの?」
「申し訳ございません、あいにく本日はこれしかご用意できません。明日以降でしたら入荷予定があるのですが」
 お姉ちゃんの眉がまたきゅっと寄った。泣かないで、泣かないでお姉ちゃん。あたしが守ってあげるから。
「お姉ちゃんが欲しいって言ってるのよっ、早くべつの糸を持ってきてよ!」
 売り子さんは申し訳ございませんと重ねるだけ。お姉ちゃんは四種類の糸をわしづかみにすると、ぶんって力のかぎり放り投げた。
「この色じゃやなの、今日じゃなきゃやなの。早く用意てよ!」
 顔を両手でかくして泣いちゃった。大粒の涙があたしの頬や腕にぽたぽた落ちる。世界の終わりみたいな声がお店中に響いて売り子さんは青くなった。やっとどれだけ深刻なことかわかったみたい。
「奥の方を確認致しますので、少々お待ちください」
 ベテランとは思えないほどバタバタと足音を立てて走った。戻ってくるまでになだめるのはあたしの仕事。頭をよしよしってすると、しゃくり泣きになり声が小さくなった。
 汗をかいた売り子さんは、戻ってくるとへたくそな笑顔で台の上に新しい糸を置いた。それは爪のように淡いもも色。
「奥に一つだけございました。こちらでいかがでしょうか」
 手に取ると白い肌によくなじむ色だとわかる。生まれてくる赤ちゃんにぴったりの色。ほかの刺しゅう糸ともきっと合う。
 お姉ちゃんはそれをぎゅっと胸に抱く。
「いただくわ」
 やっぱりお姉ちゃんは笑顔がいちばんすてき。


 手芸屋さんから帰ってくるまでに八百屋さんと魚屋さんにも寄った。今日はお姉ちゃんの好きな白身魚の西京焼。お姉ちゃんは料理が得意で盛りつけまで上手。あたしは食卓の上に寝転がって、おいしそうに食べてる姿を眺めるの。お裾分けって口元にお魚を運んでくれるけれど首をふって断る。赤ちゃんのためにいっぱい食べて。
 ご飯が終わって一休みしたら、洋服を脱がしてもらって一緒にお風呂。お腹は昨日よりすこーしおおきくなったみたい。耳をあてて心臓の音を聞く。早く生まれてこないかな、あたしのかわいい子。
 そのまま眠くなって、湯船にもぐっちゃいそうなあたしをお姉ちゃんが抱きしめてお風呂場から出た。体をていねいに拭いてもらっていつもの洋服を着せてもらう。
 お姉ちゃんは紺地にさくら柄の浴衣。これももちろん手作り。さくらが光ってるみたいで綺麗でしょ?
 お姉ちゃんはつげ櫛でながい髪をとかす。絡まってた髪がするするとほどけて、小さな王国のお姫さまみたい。あたしの髪もお姉ちゃんにとかしてもらう。この時間がいちばん好き。
 あたしたちは一緒の布団に入って眠る。まぶたを閉じたお姉ちゃんのまつ毛はとても長い。とっても幸福そうな寝顔でうれしくなっちゃう。
 あたしがこの幸福を守る。この毎日を守る。だから明日も幸せよ、お姉ちゃん。
[newpage]
 きのう買ったばかりの刺しゅう繍糸であたらしい花を咲かせた。布を縁どるようにいろんなお花が咲いている。まだ半分しか刺し終わっていないけど、お姉ちゃんはどうかしらと自慢気に広げた。それは赤ちゃんのためのおくるみ。お母さんに愛されてるのよってあかし。あたしは畳に寝転んだままニコニコして何度もうなずく。ちっちゃくてふにふにな体を、お姉ちゃんが作ったおくるみで包んだ姿を想像する。ほっぺをつっついたら笑ってくれるかな? 泣いたらミルクを飲ませるの。早く会いたい!
 柔らかで温かい想像をベルがけたたましく破壊した。ビリビリって背中がしびれる。電話の音だ。ふたりで見つめ合いながらじっと息をひそめてみるけどやまない。お姉ちゃんは溜息をつくとあたしを抱き上げて廊下に出た。不吉な怪鳥が叫んでるみたいで、抱きしめる腕が強くなる。あたしも怖いかえれど、お姉ちゃんを応援するように手に力をこめる。自分の叫び声で震える受話器を手にとった。交換手の声のあと、いきなり大音響がやってきた。
「もしもしっ!」
 ベルの音以上に耳がキンキンした。とっさに耳を離すけれどまだ声は聞こえる。狂乱気味の叫び。お義母さんだ。
「貴女、ずっと連絡も寄越さないで何してたの」
 電話を切りたい。でも今切ってもまたすぐにかかってきちゃう。どうしよう。
「息子を出してちょうだい。そこにいるんでしょっ」
 頭が痛い。早くこんな電話終わりにしちゃおうよ、お姉ちゃん。
「ごめんなさい」
「ごめんじゃなくて、もう何年息子と会ってないと思っているの」
 お姉ちゃんが謝ってるのに、なんてごーまんな人!
「ごめんなさい」
「直接そっちに行ってもいつも留守だし。何をしているの」
「ごめんなさい」
「人の話を聞いてるの?」
「ごめんなさい」
「ちょっと」
「ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい」
 黙ってください煩いです頭が痛いんですキンキンした声だしやがってもう電話をかけてこないでくださいこんなに謝ってるじゃないですかチクショウお願いしますそれ以上しゃべらないであんたまで子供を奪う気かそんなことさせないそんなことさせないそんなことさせない絶対に。
 …………。
 ……。
 電話は切れていた。受話器を元に戻すけれど体が重たくって、その場にへなへなと座り込む。床にほっぺたをくっつける。ひんやりして心地良くって、お姉ちゃんは目をつぶっちゃった。嫌な電話で疲れたもんね。でも大丈夫よお姉ちゃん、あたしが守ってあげるから。今は寝てて。イヤなことはぜんぶ忘れて。


 カタカタと乾いた音が聞こえて目が覚めた。もう少し寝ていたいのに耳障りでできない。仕方なく顔だけ上げると玄関の戸を黒い影が叩いていた。電話の人はとおくに住んでるから今日はこれないはず。お姉ちゃんはあたしを抱いて立ち上がった。鍵をはずし引き戸をあける。
「こんにちは」
 立っていたのは巡査さんの制服を着ている男の人だった。お姉ちゃんの顔を見て一瞬だけほっぺを引きつらせたけどすぐに笑顔になった。にこやかすぎて怖い。
「お母様から娘さんの様子が心配なので見てきて欲しいと頼まれまして。お体のお加減は大丈夫ですか?」
 なるべく声を出したくなくて小さく頷く。念のため片腕でお腹をかばった。どうしよう、家の中に入ってこないようにしなきゃ。
「それは安心しました。旦那様にも挨拶したいのですが、いまいらっしゃいますか?」
 うつむいて首をふるふると左右に振る。すると巡査さんは家の奥を覗こうと首をのばした。心臓が冷たくなる。
「本日はお休みのはずだとお母様から伺っていたんですが、おでかけですか?」
「いな……いんです、ずっと」
 地面がぐにゃぐにゃと柔らかくゆがんで、足が飲み込まれちゃうんじゃないかと心配になった。乗り物酔いしたみたいに気持ち悪い。
「いない、と言うのは?」
「ほかに、おんなの、ひとが……」
 吐きそうになったお姉ちゃんは口を手でおおったけど、あふれたのは嗚咽だった。小さな声が指のすきまからこぼれる。巡査さんがあわててなだめ出して、あたしはそれをお姉ちゃんの胸からじっと観察する。
「奥さん落ち着いて、泣かないでください。えっとその……事情は判りました。お母様に上手く説明できないのは、そういうことだったんですね」
 巡査さんは目を白黒させてる。しきりに顔の前で手を振っているけど、そんな行為に意味なんてないわ。このようすならすぐに帰ってくれそう。お姉ちゃんにもそれが判ったのか、泣き声が小さくなった。
「とにかく泣かないでください。お母様には、わたしの方からその……大丈夫だと、伝えておきますから、ね?」
 泣き声をおさえると小さくうなずいた。しなやかな指で涙をぬぐう。巡査さんは安心したようでほっと笑顔になった。子供みたい。警察でも若い人はだめね。
「その……いろいろつらいとは思いますが、いつでも相談してください。必ず力になりますから」
 そう言ってぎゅっと手を握ってきた。困ったことがあったって、あなたには相談しません、あっかんべーっだ。
 巡査さんが帰るとお姉ちゃんは涙のあともない、お人形さんみたいなつるりとした顔になった。お月さまより冴えてる。
 首をかたむけると、黒くて長い髪がゆれる。
「おかしなひと。旦那なんていないのにね」


 寝て起きて刺ししゅうしてお風呂に入って、寝て起きて編み物をして、寝て起きてご飯を食べて赤ちゃんのために本を読んで。幸せなまいにちが続いた。でも困ったこともあった。
 赤ちゃんのために作ったおくるみや服や靴下が、赤ちゃん専用の収納箱に入りきらなくなっちゃった。中身をぜんぶ取り出してあらためる。きょねん作った手袋はとっておく。それより前に作ったよだれかけは刺しゅうの柄がかわいくないかなぁ? 赤ちゃんができたばかりのころは張り切っていっぱい作っちゃったから、いま見ると薄汚れている気もする。
 お姉ちゃんは古くなっちゃった小物をまとめるとごみ袋に入れた。生まれるまでにまだ何年もあるんだからまた作ればいい。
 トントンっと玄関の戸を叩く音がした。ふすまから顔だけをのぞかせて様子をうかがう。ちっちゃい人影だったからお義母さんかなって警戒したけれど、知らないおじいちゃんの声がした。おおきなお腹とあたしを抱えてお姉ちゃんは鍵をあける。
「はぁい」
「こんにちは」
 声と同じような、しわしわで背中の曲がったのおじいちゃんが立っていた。白衣と黒いかばんを持っていたからお医者さんだって一目でわかる。
 まだ赤ちゃんは生まれないのに。お姉ちゃんと一緒に首をかしげる。
「お前さんの具合が悪そうだと、巡査に言われて様子を見に来たんじゃよ」
 あのお馬鹿な人!
 たちまち不機嫌になったけれどお医者さんはそれに気づかない。
「顔が灰色じゃぞ。ガリガリじゃし、ちゃんと飯食べんと倒れてしまうぞ」
 なにを言っているの。お姉ちゃんの肌は白くてつやつやで、細いけれど不健康なほどじゃない。
 睨みつけてるのにお姉ちゃんのほっぺにしわしわの手が伸びた。止める間もなく下瞼を引っ張る。このお医者さんぜったいに変だ。
「失礼な方っ。お腹に赤ちゃんがいるんですもの、しっかり食べているわ」
 しわしわの手を払い、怒りをしめすために胸を張る。あたしもそれに倣ってえっへん。お医者さんは反省もせずにお腹へ顔を近づけて眼鏡を直した。
「妊娠しとるのか。何ヶ月だ?」
「二十四ヶ月です」
 西瓜が三つも入りそうなお腹を誇らしげにさすると、お医者さんのしわだらけの顔にもっとしわが寄った。
「……逆子かどうか、診てやろう」
 今にも倒れそうなぐらい震えてる声。お腹をなでる指も震えてる。しだいに指の力が強くなってきて、痛い。お姉ちゃんはあたしを盾にするようにお腹の前に持ってきたけど取られてしまった。じたばた暴れてみるけれど、あたしは一尺ぐらいしか背丈がないからお医者さんはびくともしない。
 ぐりぐりと指を皮膚に埋めるような触診が終わると、お医者さんはふぅとため息をついた。さっきまでつややかだったお姉ちゃんの白い顔は、痛みと気持ち悪さで青くなってる。
「腹の上からじゃはっきりとは判らんが、やっぱり妊娠はしとらんよ。代わりにしこりみたいなものがあるから今度病院で検査を受けなさい」
 お腹が大きすぎてしまらない浴衣の衿を、お医者さんがしめようとした。西瓜三つぶんのお腹がするすると小さくなって、ぺたんこになって、腰帯が締まった。あれ?
「だらしない格好をして、体を冷やすんじゃないよ」
 握ったままだったあたしを返し、ぽんぽんっとお腹を叩くとお医者さんは帰った。
 玄関の戸が閉まる、ガラガラピシャンという音が余韻を残しながらおおきく響く。
 お姉ちゃんの息だけが聞こえる。
「赤ちゃん、どこ……?」
 あわてて部屋に戻る。
 押入れの中身とごみ袋に入れたばかりの小物をぶちまける。これは赤ちゃんができたばかりの二年前に作ったものだ。どこにも赤ちゃんはまぎれてない。
 新しめの小物をしまった箱をまた開ける。血眼になって、小物をぽんぽん飛ばしてさがすけれどやっぱりいない。お姉ちゃんがたたみを引っかくと爪が割れ、血が細い糸みたいに流れ出た。
 お腹に赤ちゃんができてから作った浴衣、できる前に着ていたブラウス、スカート、男の人のワイシャツ、スーツ、ネクタイ、冬物の服、帽子、鞄、裁縫箱、本、工具、脚立、たたみが見えなくなってもぶちまけ続けてるのにまだ見つからない。
 どこにいったの、あたしの赤ちゃん。
「返してよ、返してよ、あたしの赤ちゃん……どこに隠したの……」
 弱々しかった声が甲高く強さを増していく。
 太陽が大きくかたむいて、窓から差しこむ橙色の明かりがたたみの上に散らばったいろんなものを照らす。でもそのほとんどは、影で真っ黒になっちゃって何だったのかわからない。ちっちゃい化け物がいっぱい、夜を待ってねむってるみたい。
 風がカタカタと窓硝子を鳴らす。なにかイヤなモノがやってきそう。電話のベルもいびきみたいに鳴りだす。きっと子供をさらう鬼が、すぐそこに。
 太陽はどんどんかたむいて、ぷっつりと消えてしまった。明かりのない部屋の中で、座り込んだまま動かないお姉ちゃんの見ひらいた目玉だけが、青白くかがやいてる。
 聞こえてる? お姉ちゃん。風が牙をむいて威嚇してる。眠っていたちっちゃな化け物たちも体をぶるぶる震わせて身構えてる。
 玄関の引き戸が揺れ、カラカラと開かれた。突風が廊下を走ってお姉ちゃんの元までとどく。ながくて黒い髪が生きてるみたいになびく。それは宙に留まり、黒い流線が四方に広がった。
 静かな足音がちかづいてくる。鬼だ、鬼がやってきたんだ。
 お姉ちゃんはあたしを握りしめて立ち上がった。ちっちゃな化け物たちを蹴散らして鬼にせまる。あたしががんばらないと。お姉ちゃんを守って赤ちゃんを取り戻さないと。
 お姉ちゃんが部屋を出ようとするのと鬼が部屋に入ろうとしたのが同時だった。真っ黒な鬼が目を見ひらく。
「か……金を出せ!」
「赤ちゃんを返せえぇっ!」
 あたしを握りしめたまま鬼の顔を何度も殴る。硬いけれど弾力のある筋肉、殴る手の骨に響く痛み。あたしの体も鬼の皮膚をえぐる。
 鬼が叫びながら腕を振り上げた。長い長い爪が、ビニールでできたあたしの腕を切断する。中身は空洞で軽いから、ぽーんとどこかに飛んじゃった。繕い物みたいに針と糸じゃくっつけられないのに、どうしよう。
 振り上げられた腕はお姉ちゃんの顔に下ろされた。長い長い爪が目玉に突き刺さる。一度固いものに引っかかったけれど、何かが壊れる音が聞こえたあとはずぶりずぶりと奥まで埋まった。
 声にならない絶叫が家を震わせる。視界が半分真っ暗になる。ちっちゃな化け物たちも死んでゆく。
 体を壁にぶつけたり転んだりしながら鬼は家から出ていった。あたしの目玉に爪だけが残っている。歩こうとするがたたらを踏み、倒れた瞬間にビニールでできた人形が床を跳ねた。いつも慰めてくれた大切な片割れ。腕が切断されたそれに、あたしは手を伸ばす。
 返して、あたしの赤ちゃん。奪わないで。


  ×月×日 朝刊
  ××市の住宅で未明、住人の××××さんの遺体が発見された。現場に凶器が残されており、警察は殺人事件とみて捜査を開始している。
  また住宅から夫のものと思われる白骨化遺体も発見された。頭蓋骨は妻の××さんの子宮から発見され、二つの事件の関連性を調べている。

 娘の両手足にフジツボが生えた。始めは指先だけだったのだが僅かずつだがフジツボの数は増え、娘は痛みのあまり歩けなくなった。村の医者に見せても首を左右に振られ、娘の父親は海の魔女に頼った。
 話を聞いた魔女は慈愛の眼差しで答えた。
 北の森へ行け。沼に住んでいる魔物の腹の水を娘に飲ますのだ。それが薬となる。
 魔物をおびき出す餌を貰い、男はバケツと瓶と猟銃を持って森へ向かった。
 北の森は鬱蒼と茂っており陽の光が入らない。昼と夜の境目を奪う。森の入り口にいた蛇や蛭の気配は沼に着くまでに消えた。風も通らず生き物の音もせず、腐った沼の悪臭が男にまとわりつく。生き物が棲んでいるとは思えない。
 男は銃を片手に餌を放り投げた。餌が沈んでも魔物の気配はしない。騙されたのか。いや、違う。沼の表面が泡立ち、男は一歩後退った。沼の縁を赤い鰭がつかんだ。頭部が現れると悪臭が増す。片腕で鼻を覆いさらに下がる。魔物は全身を沼から這い出すと地面に横たわった。喘息患者のように大きく喘いでいる。
 魔物の姿は醜かった。頭部はぶよぶよと膨らみ赤い鱗がびっしりと生えている。魚の両眼は顔の半分ほどの大きさがあり、どこにも焦点を合わせていない。二本の触覚が蠢いている。そして腹部。肝心の腹部は硝子でできていた。中の澄んだ水が揺れている。
 あの水で娘を救える。あの水があれば。あの水があれば。あの水があれば。
 銃を構えたと同時に魔物が顔を男に向けた。ひっ、と悲鳴が喉を突き、引き金にかけた指が硬直する。
「おじさん何しに来たの」
 魔物は意外にも子供の声をしていた。娘より幼い少年の声。発砲を躊躇ってしまう。
「言葉が、判るのか」
「当たり前だろう」
 魚の頭部にも関わらず、厭らしく笑っているが判った。化物の癖に。鳩尾に重たい熱が湧き上がる。
「腹の水を寄越せ。素直に渡せば殺さないでやる」
「こんなものどうするのさ」
 魔物は鰭で硝子を撫でた。汚い水が表面に膜を作る。
「娘の薬になる。海の魔女がそう言った」
「海の魔女」
 魚の瞳孔が縮まり爛々と輝いた。口に小さな泡がいくつも張り付く。
「あの女が何を言っていたの! 娘の薬って何!」
 魔物の顔が紅潮し更に膨れ上がった。臭いも増す。
「娘の体にフジツボが生えた。お前の水が薬になるのだと魔女が言ったんだ」
「そうだねそうだね。それは普通の病じゃないね。協力するよお水をあげるよ。娘はどこ?」
 呪われたように魔物は興奮した。口角の泡が飛ぶ。
「……村だ」
「じゃぁ一緒に降りよう」
 魔物は細い脚をもつれさせながら立ち上がった。脚だけは人間とほぼ変わらないが、透明の鱗が皮膚を覆っている。立ち上がると子供の背丈ぐらいしかない。人間の倍ぐらいある頭部が不安定に揺れる。
「ああ、歩くのは何年ぶりだろう。何十年? 何百年?」
 魔物は眼を爛々とさせながら歩く。頭部が重いのか何度も転ぶが、その度にけたたましく笑った。これを村に連れ込む訳にはいかない。銃把を強く握り締める。
「ボクはねぇ、昔にんげんだったんだよ。でもね、悪い事をして魔女に呪いをかけられてしまったんだ。この腹に水がいっぱい溜まる前に呪いを解く道具を手に入れたら人間に戻れるって言われたんだけどねぇ。いひひ。だから、娘がフジツボになっちゃう前に助けないと。この腹の水ならきっと魔力があるよあるんだよ」
 いひひ、と笑うとまた転んだ。男は不気味そうに見遣るだけで助けなかった。ただ、銃把を握る力を弱める。
 麓に着き、男は魔物を待たせて家に戻った。娘を毛布でくるみ、なるべく痛みを与えないようにゆっくりと麓に戻る。あと少しで娘の病は治る。
 戻ると魔物は娘の顔を覗きこんできた。娘を守るように抱き寄せ睨む。
「早く水をくれ」
「顔にはフジツボ付いてないねぇ。見せてよ見せてよ。フジツボどこにあるの?」
 赤い鰭が娘に触れようとして男は一歩引いた。そっと地面に下ろし毛布を広げる。
「娘には触れないでくれ。見たらさっさと水を寄越すんだ」
 毛布から開放された娘は、指先から肘、つま先から膝にまでびっしりとフジツボが生えおり、その部分だけ肌色が見えない。痛みのせいで熟睡できずにいる娘は、夢と現を曖昧に行き来している。
 その憐れな姿に魔物は大粒の涙を流した。悲しみや同情ではない、悦びだ。興奮が蒸気のように立ち昇ち、叫ぶ。
「にんげんだ、にんげんだ。ボクと同じにんげんだぁっ!」
 魔物はしゃがむと脚に生えているフジツボを食らいだした。骨を砕いているような音が響き、夢を彷徨っていた娘が絶叫する。
「痛い痛い痛いっ!」
 魔物は食らうことをやめない。男は気がつけば赤く膨らんだ頭部を銃で殴っていた。腹に銃弾を放つと硝子が割れ、水と共に跳ね上がる。光を反射し、意外なほど美しく煌めく。
 魔物は倒れ笑った。口の周りに泡とフジツボが纏わりついている。
「呪いを解く道具なんてね、なかったんだよ。初めから存在してなかったんだよ! 魔女は希望と絶望を同時に渡して楽しんでたんだ。ボクがにんげんじゃなくなるのを楽しんでたんだ!」
 魔物は哄笑する。深く。五月蝿く。
「君も魔女に騙されたんだよぉ。君はボクを殺した。にんげんだったボクを殺した。君はもうにんげんじゃないよ、魔物だよ。ボクと一緒で魔女の暇潰しにされたんだよぉ。もう戻れないよ。一生魔物だよぉ」
 どこまでも笑い続ける魔物の頭部にもう一撃放った。血液と、脳漿と、鱗が飛び散る。それらが男にかかり悪臭が染み付く。魔物は動かなくなった。
 男は娘を強く抱き締める。腹の水が触れた脚部のフジツボは剥がれ落ち、壊死した灰色の肌が顕になった。
 男はそのまま魔物を睨みつけ、しらばく動けなかった。



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