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 父は私を食べるために育てていると言った。大人になった今でもちょっぴり、父のことを恨んでいる。
 私が物心ついた頃には、すでに母は他界していた。家にいたのは在宅で働いている父と、私が産まれるより先に住んでいたウサギのきなこと、私の面倒を見るため週に二度、決まった曜日にやってくる父方の祖母ぐらいのものだった。仕事中の父は部屋にこもりきりになるため、家の中は常に静かだ。
 幼い頃から私は家ではテレビを見て過ごし、夕食の時間より先に腹が空けば祖母が作り置きした惣菜をつまんで自分の世話をした。友達の家で遊ぶときは父がたらふくお菓子を持たせてくれたので、いつも遊びに行くと宣言したものだ。
 時間に厳しい父は、仕事中に部屋に入ることを禁じた。当時保育園生だった私を一人にして仕事に集中するというのは、今考えるとネグレクトの一種だったのではないかと思いもするが、愛情がなかったということは決してない。ちゃんと愛されていた。
 うさぎのきなこの世話は父が熱心に行っていた。小さな絨毯の周りを白い金属製の柵で多い、その中にゲージがあった。父は仕事が終わるときなこをゲージから出し、干し草を満足するまで与えると丁寧にブラッシングをした。きなこはとても大きく、当時の私の両膝からもはみ出すので抱っこはできなかった。
 動物の扱い方をまだ心得ていなかったものだから、長い耳を好奇心に任せて引っ張ったこともある。そんなときは父はすぐに手の甲を軽く叩いて叱り、痛がることはしてはいけないと諭した。きなこを買いたいと主張したのは父だそうだ。
 父の膝の上で寛ぐ背中を撫で、ふわふわの毛に頬をうずめると、父は私の頭を優しく撫でてくれた。一番の至福のときだ。
「きなこのもふもふをマフラーにしたい」
「マフラーかぁ。それもいいねぇ」
 あんまり長く頬を寄せているときなこは嫌がり膝を降りる。空いた膝を私が独占しても、父は穏やかに撫で続けてくれた。
 保育園の送り迎えも父がやってくれた。
 食事するのも着替えるのものろまな私を急き立てることなく、毎朝見守ってくれた。代わりに起床時間は早かったが。服を前後逆に着てしまうと優しく注意して着せ直してくれた。
 保育園までの道のりはさほど長くなく、私達は歩いて登園した。晴れの日は近所のおじさんが散歩させている犬を触らせてもらい、たんぽぽの綿毛を飛ばして遊んだ。雨の日はわざと水たまりの中を跳ねて水飛沫を躍らせた。そうやってなかなか進まない私を咎めることはなかったが、登園時間が迫ると私を脇に抱え父は走った。いつもより高い目線も速い進みも小さな私には新鮮で楽しかった。保育園に着くと私を降ろし、両肩で激しい息をしながら、明日はもっと速く歩こう。と決意表明をしたが、なかなか達成させられることはなかった。
 時間を守る父は保育士達からの評判もよかった。父の手から保育士の手へと移された私は、園舎へ歩きながら父を褒める先生の言葉を聞いて、幼いながらに誇らしく思ったものだ。
 保育園という狭い社会を通じて、一般家庭には母という存在がいることを学んだ。送り迎えのときに大人の女性が多いことに気づいてはいたが違和感程度でしかなかった。決定的な瞬間は母の日の似顔絵を描こうと保育士が指導したときだ。母の日の絵を描き、折り紙で作ったカーネーションを貼って飾る。そのためにお道具箱からクレヨンを用意し、配られた画用紙の横に並べた。周りの子達は躊躇わずにクレヨンを握り締めて絵を描き始める。私はとなりの子の画用紙を覗き込んだ。
「なにかけばいいの?」
「おかあさんだって、せんせい言ってたでしょ」
「おかあさんってなぁに?」
 前に首を傾げた私の元へ保育士が飛んできた。そこで初めて母という概念を教わった。普通の家庭には母というモノがいるらしい。私にはいないが、それも珍しいことではないそうだ。私は祖母の絵を描くことになった。
 父に手を引かれて帰宅したその日、母ではなく祖母の絵を描くことになったと告げても父は、ぼんやりとそうかぁと呟いただけだった。黒縁メガネの奥にある瞳はいつも穏やかで、動揺することは滅多にない。
「あたしには生まれつきおかあさんっていないんでしょ?」
 だから、そう訊いたときの眼と首をぐるりと回して驚く様は初めて見るもので、歯車で動くおもちゃのようだった。全身でゆっくりと円を描くとピタリと止まる。
「そんなことはない、お母さんはちゃんといたよ。それはそれは美しくって、よく気の利く人だったんだ」
 父は押入れから色褪せたアルバムを取り出すと、絵本を読み聞かせするときのように、胡座をかいた膝の上に私を乗せた。ひっついたページとページを剥がすと、フィルムがパリパリと音を立てる。
「これがお母さんだ。凜華が産まれるより前の写真だよ」
 父が指さした女性は、長い髪と白い肌を持った、少々神経質そうな印象であった。産後の肥立ちが悪くて他界したとの話だから病弱だったのだろう。確かに美しい女性だが、写真を見せられても血の繋がりなど感じられなかった。
「これはお父さんとデートしたときの写真だ。温泉に行って、滝を見たんだよ。お母さんは滝をものすごく楽しみにしていてな、目覚ましもかけてないのに朝五時に起きたんだ。私はまだ布団から出たくなかったから一人で内風呂に入って待っていたよ」
 そう説明を受けても興味を持てなかった私を薄情だと思わないで欲しい。母がいないことが当たり前の生活だったから、知らない人に哀愁を抱けないのは当然のことなのだ。知らない女性よりも、眼の前にある姿よりだいぶ若い父の方が興味を惹いた。今のように無精ひげは生えておらず、眼鏡の形も違っていて、知らない知人という奇妙な感覚を与えた。私はページをめくり、若かりし日の父を眺めることに夢中になった。父の姿だけを求めて手と目を動かす。それでも、まだしわくちゃな赤ん坊だった私を抱いている母の写真を見つけると止まった。これが母という生き物なのか。
「……お母さんがいなくて寂しいかい?」
 そう問う父の声の方がよっぽど物悲しかった。私は父の膝の上でくるりと反転した。
「大丈夫よ。あたしがパパのお嫁さんになってあげるから!」
 過去に焦点を当てていた父の眼が現在に戻ってきた。じわじわと唇を綻ばせると両腕で幼い体を掻き抱く。
「あぁ。凜華のような娘がいてくれてパパは幸せだよ!」
 頬を寄せられると無精ひげが刺さって痛いのだが、父の体温を感じられるのは私にとっても幸福だった。
 父への愛情を一層強く自覚したのは忘れもしない、六歳の誕生日のことだ。前もってカレンダーに花丸を描いてくれた父は、希望のプレゼントを訊いて、ラッピングされたそれを押入れに隠していた。私はその日も父に手を引かれて保育園へ向かった。
 父が上機嫌であることは子供の私が見てもよく判った。口は緩み、抑えようとしても抑えきれない笑顔がこぼれている。これではどちらが誕生日か子供か判らない。
 足取りも軽いのか、下手くそなスキップみたいに足首が跳ねていた。歩幅の小さな私は何度か転びそうになったけれど、そのたびに父に引っ張りあげられた。それがなんだか楽しくって笑い声を上げた。
 誕生日だからと一番気に入っている洋服を着せてもらっておめかしした私は、たくさんの友達に褒められた。先生のピアノの伴奏と共に、クラスメイト全員からハッピーバースデーを歌ってもらえる。誕生日とはなんとすばらしい日だろう! お昼寝の時間の夢でさえ、私は祝ってもらっていた。
 迎えに来た父に真っ先にそれらのことを報告した。喜びの尺度をジャンプで表現したら先生はくすくすと笑った。父は大きな手で私の頭を撫でた。
「家でも誕生日パーティーをやろうな。ごちそうを作ったんだよ」
 お誕生日おめでとうと見送ってくれた先生に大きく手を振った。
 帰りは遠回りをしてケーキ屋さんに寄った。個人経営のその店はこぢんまりとして可愛らしく、木材を基調とした絵本に出てくるような内装をしていた。私は眼の中にきらきらと光る星を宿してガラスケースにへばりつく。菓子類に厳しい家庭ではなかったが、ケーキは特別な日にしか与えられなかった。吐く息でガラスケースを曇らせてしまったのは、今思えばみっともない行動だが、子供の時分には誰もが覚えがあっただろう。ショートケーキ、タルト、チョコレート。どれにしようかガラスケースに両手をついたまま悩んでいると、父は少し離れたケーキを指さした。まんまるで、私の手よりも大きなケーキ。
「誕生日だからホールケーキにしようよ」
「いいのっ?」
 父の首肯を確認するとへばりつく先を変え、やっぱりショートケーキにするかチョコレートにするか悩んだ。結果、光輝くフルーツが多く乗っているケーキを選んだ。それに『りんかたんじょうびおめでとう』と書いたプレートを添えるように言ってくれた。私のためのケーキだ。もちろんロウソクも六本つけてもらった。
 帰宅しても父はすぐに部屋に閉じこもらなかった。これは快挙だ。真っ先にウサギのきなこに報告しようと柵へ向かった。きなこも父のことが大好きだから喜ぶだろう。きなこの匂いと毛が絡む絨毯が敷かれた柵の中は、干し草がわずかばかりあるだけで空っぽだった。寝るときにしまっているゲージの中にもいない。あたりを見渡す。脱走してしまったのだろうか。
 冷蔵庫の中身を整理し、どうにか大きなケーキの箱を仕舞おうと奮闘している父の背中は、ドアに半分隠れている。
「明日はおばあちゃんがプレゼントとケーキを持ってきてくれるってよ。二日連続でケーキだなんて豪華だね」
「ケーキ二つも食べていいの!?」
 きなこに対する心配は一瞬で吹き飛んでしまった。脱走は初めてではなかったし、いつまでもここにいるものだと、疑っていなかったのだろう。
 食事の前にプレゼントを渡してくれた。大きな箱をくるむ、ワンピースを着た女の子やハートが描かれたピンク色の包装紙を、短く丸い指で丁寧に剥がした。六歳の子供のすることだから所々破けたが、プレゼントに対する愛情と期待を示したかったのだ。
 日曜日の朝に放送している魔女っ子アニメを父は一切見ていないのだが、ちゃんと私が望んだ魔法のスティックを用意してくれていた。
 両手で持ったままパッケージを凝視し、間違いないと革新すると熱烈にそれを抱き締めた。エプロンを付けたままの父が隣でしゃがむ。
「パパにはしてくれないのかい?」
「パパありがとう!」
 プレゼントを持ったまま、父のことも抱き締めた。
 箱の中からスティックを取り出し、ぴかぴか光らせている間に、父は下拵えを済ませていた夕食を完成させた。夕食が終われば待望のホールケーキだ。父の手料理が嬉しくないわけではなかったが、その先にあるケーキを期待してテーブルについた。
 温められた丸いパン、嫌いな人参の代わりにクルトンが散りばめられたサラダ、ホワイトシチュー。両手を合わせ、いただきますと挨拶するとスプーンを手にした。シチューの中を掻き回す。こちらにも人参が入っていなかったので安心して食べることができた。
 子供だったからだろう。私は肉の種類を判別することができなかった。豚と牛の違いは大きくなるまで判らなかった。鶏はつるりと丸い部分があるのでかろうじて識別できる。その程度だ。美味しければ肉の種類などどうでもよかった。この日のお肉も、いつもより筋張っていて硬いなと思っただけだ。
「シチューのお肉、美味しいかい?」
「うん!」
「それはよかった」
 にこにことした父の笑顔は喜びが溢れて止まらない私そっくりで、まるで父自身の誕生日みたいに喜んでいるなぁと思った記憶がある。
 父は愛おしそうにお肉を頬張った。
「今日のお肉はね、きなこなんだよ」
 私は意味が判らず、眼をぱちぱちとさせるだけだった。父は上機嫌に言葉を続ける。
「今日は凜華の誕生日だから、ごちそうを作ろうと思ってきなこを捌いたんだ」
 私はやっぱり、意味が判らなかった。その頃の私はまだ死という概念を正しく理解できておらず、家畜の存在も曖昧であった。せいぜいが、怪我をすれば痛い、と身をもって実感していた程度だ。
 スプーンで肉片をひとつ掬い上げた。なんてことはない、いつも食べている肉となんら変わらない。きなこの面影はどこにもなかった。
 肉片を観察している私を、父はにこにこと見守っている。
「パパの叔父さん、凜華から見てお祖父ちゃんの弟がね、猟が好きな人だったんだ。勉強して資格を取って、お金かけて鉄砲や罠を買って。会うとね、猟の話ばっかりするんだ。パパが中学生になると、大きなリュックを背負って、狩りに参加させられたよ。もちろん鉄砲は触らせてくれなかったし、罠を仕掛けるのも見てるだけだったんだけどね。僕は山登りなんて疲れるから嫌だったんだけれど、初めて仕留めた動物を捌くのを見たときは、あまりにも美しくって感動したんだ。叔父さんは心臓を一突きしてトドメを刺してたんだけど、毛皮の上から心臓の位置を特定するのは、ちゃんと勉強をしてないとできないなって思ったんだ。僕に説明しながら内臓を傷つけないように丁寧に解体していく姿はね、愛情がないと出来ないって思ったんだ」
 ほとんどは当時の私では理解できなかった。狩りの意味すら知らない。ただ、ケーキ屋のショーケースを眺めているときのような眼の輝きが私の心臓を穿った。
「だからきなこのことは食べるために育ててたんだ。ママは嫌がったからすぐには捌けなかったんだけれど、凜華が誕生日になったら食べようと思って。ウサギも七歳になると高齢だから、今年を逃したら誕生日に食べるのは難しくなると思って。食べるだけならもっと早い方がよかったんだけどね」
 父が毎日きなこの世話を見ていたのを知っている。仕事が忙しい日も耳掃除を丁寧にやって、マッサージをしながらブラッシングもして、伸びた爪もぱちりと切った。
 きなこは大切に育てられていた。
「あたしも、あたしのことも、食べるためにそだててるの?」
 きなこに負けたくない意地と愛情を期待して身を乗り出した。椅子の脚が床をひっかく音がする。
 お肉を頬張っていた父は、にっこりと優しく微笑んだ。
「うん。そうだよ」
 嬉しくって、頬が熱くなったのをよく覚えている。父はきなこのブラッシングを終えると毛並みを褒め、毎日可愛いと言っては撫でて、病気の疑いがあったらすぐに病院へ連れて行った。抱っこしているとちょっぴり嫉妬したものだ。だから私も同じように愛してくれると宣言された気分になったのだ。
 きなこが殺され、肉と内臓と骨に腑分けされるところを目撃しなかったのもショックを受けなかった理由だろう。さすがの父もそこを私に見せるのは忍びなく、こっそり行ったと思われる。
「あ、このことはお祖母ちゃんとか保育園で言っちゃダメだよ。お祖母ちゃんは狩りにも反対してたし、保育園で噂になると厄介だからね」
「うん!」
 父と二人だけのヒミツができたことも嬉しかった。
 二週間ほどすると、もうひとつプレゼントをあげようと言って、ちっちゃな手袋をくれた。茶色いふわふわした毛皮でできたミトンだ。温かな香りがする。
「きなこの毛皮をなめして作ったんだよ。マフラーにするには長さが足りなかったんだけれど、凜華の小さな手に合う手袋なら作れそうだと思ってね」
 さっそくつけてみて、手を閉じたり開いたりしてみた。自分の頬を両手で包む。きなこを頬ずりしたときの感触だった。
「あったかい」
「大切にしてね」
「うん!」
 成長に伴いサイズはすぐに合わなくなったのだが、今でもこの手袋は大事に保管している。
 きなこに関するエピソードはもうひとつ続きがある。保育園から帰ってくると、大きな鍋が火にかけられていた。お湯を沸かしているようだが美味しい匂いはしないし、パスタを茹でようとしている風でもない。私の身長では鍋の中を覗けるはずもないのだがコンロに近づいてみた。
「なにつくってるの?」
「火のそばは危ないよ」
 父にあっさりと抱き上げられたが、それでも首にしがみつきながら鍋の中へと首を伸ばした。薄っすらと黄色いお湯の中に何かが沈んでいる。アクが浮かんでいて美味しくはなさそうだ。
「きなこの骨格標本を作ってるんだ。できあがったら見せてあげるからそれまで待っててね。細かい骨もあるから繊細なんだ」
 しばらくすると鍋から取り出し、新品の歯ブラシで丁寧に磨いていた。私がひょこひょこと飛び跳ねたり身を乗り出したりして見物していたからか、父は途中で骨と一緒に仕事部屋にこもってしまった。こうすると手出しはできない。
 次の日にはホームセンターで木版やスプレー塗料、真鍮パイプなどを買うのに付き合った。ベランダで木版を濃いブラウンに塗るのも後ろの方から眺めていた。その後も仕事の合間を縫って組み立てたのだろう、三日ほどすると部屋に招かれた。
 仕事部屋は立入禁止だ。滅多に入れない。私にとっては神秘の空間だ。
 父はにこにことしながら驚異の部屋のドアを開け、紳士然とした振る舞いで中へ入るよう促してくれた。私は興奮のあまり鼻息が荒くなった。一歩一歩力強く踏み出す。
 室内には背の高い棚が多く、半分も背丈のない私を覗き込んでいるようだった。あちこちに展示されている地球儀や飛行機の模型などの雑貨達もこちらを凝視している。魚眼レンズを通して世界を見渡しているようでクラクラした。
 部屋の中心で雑貨達を見上げながらくるりと回ると目眩がしてよたついた。転ぶ前に父が肩を掴む。
「こっちだよ」
 案内されたのは、日光がよく差し込む作業机だ。木と金属パイプで出来た広々とした机の上にはくの字型のスタンドライトと、それだけが置かれていた。
 陽光を浴びてより白さを増したそれは、行儀よくお座りをしている。揃えた肢とおおらかなカーブを描く背中は、遊んで欲しそうな眼差しでアピールしていたときと同じポーズだ。土台の木版には、きなこの三文字をタイプライターで打ったような古いラベルが貼り付けてあった。昔から用意していたのではなく、古紙に見えるように染みを加工したのだろう。
 美しい骨格標本だった。
 触っては怒られるだろうと顔を寄せるだけにして、正面からきなこと見つめ合った。大きな耳があった頭は丸くなってしまったが、長い前歯には馴染みがある。
「久しぶりに作ったから時間がかかったんだけど上手いもんだろ?」
 棚の中には、さすがに食べてはいないだろうが、蛇やネズミの骨格標本も飾られていた。似た土台に据えられているからこれも手作りなのだろう。きなこも大切な仕事部屋の中で父から変わらない愛情を注がれるのだ。
「自然死した狐とか熊なんかも叔父さんと一緒に標本にしたことがあるんだよ。熊は大きかったから土に埋めて骨にしたんだ。家だと飾る場所がないから近所の小さな博物館に寄贈して、たぶん今も展示されてるんじゃないかな」
 誇らしげな笑顔であったが、私は猛烈な不安にかられて父の脚にしがみついた。離れたくない。
「あたしの骨は博物館にあげないで」
 父は思いっきり吹き出すと私を抱き上げた。あやすために体を揺する。私は一人で大粒の涙を流した。
「凜華は博物館にあげないよ。面白いことを言う子だなぁ」
 子供とは常にそういうものだ。それでも当時の私は必死だったのだ。
 骨は父の元に残る。そう安心した私は、父に食べられるための努力を始めた。
 食べられるためには大きく育つ必要がある。いつの間にかそんな考えを身につけていたのは、夕食の買い物をしたときに毎回大きな食材を選んでいたからだろう。祖母が大きくなったねと始終口にしていたのも要因だ。大きくなると父も祖母も褒めてくれる。
「ねぇ、どぉしたら大きくなれるの?」
 あるときふと訊いてみた。ぷかぷかと気を緩めながらトーク番組を見ていた父は、いつもの優しい笑顔を向けると淀みなく断言した。
「そうだなぁ、好き嫌いしないでいっぱい食べて、お片付けをちゃんとして、歯磨きも逃げないで、お勉強を頑張ったら大きくなれるよ」
「わかった!」
 助言を忠実に実行しようと私は努めた。もちろん六歳児のすることだから大人の目線では完璧ではなかったが真剣だった。
 憧れていた魔女っ子アニメのキャラクターになる努力だと思っていたと、のちに父は語った。
 シンプルな成長の目安は二つあった。ひとつは身長だ。記録するのが楽しかったのだろう、私を壁にピッタリと立たせると、無地のマスキングテープを頭の位置に貼った。昔からの習慣で、そこには日付と身長が書き込まれている。食べられることを意識してからは、ペンとテープを自主的に用意して測ってもらった。古いテープは剥がし、壁には二つだけ残す。古くなったテープを剥がすとき、それが目に見えて低い位置にあると勝ち誇った。
 もうひとつは人生で一度だけ訪れる大きな区切り、小学校への入学だ。まずは父と祖母と一緒に準備を始めた。学習机を買い、ランドセルを選んだ。ランドセルは祖母が色の数が多いことに驚き、父は好きなのを選べばいいと言ってくれた。祖母に手伝ってもらいながら、陳列されているランドセルを一つ一つ吟味し、パールピンクに白で縁取りされたデザインを選んだ。サイドにウサギの模様が型押しされていたが決め手だ。
 小学生になる。これは大きな成長の証だ。
 私はウキウキとして、入学前から真新しいランドセルを背負って毎日のように父に披露し、はしゃぐ様を写真に収めてもらった。
 ぬいぐるみのようにランドセルと一緒に寝る夜を過ごし、とうとう私は入学した。
 父と祖母と早めに登校すると校門のそばで順番待ちをし、そばに置かれている入学式の看板の隣に三人で整列すると写真を撮ってもらった。このときの私はランドセルが写るように体を捻り、無邪気にピースしている。私以外の誰も、父に食べられる日が近づいている喜びによる笑顔だと読み取れないだろう。
 翌日からは父と一緒に登校できなくて心細かったが、学校ではすぐに友達ができた。出席番号順で机は並び、後ろの席の女子はおしゃべりが大好きだったのだ。休み時間、彼女はつんつんと私の背中を人差し指で突いた。振り向くと、ポニーテールで利発そうな彼女は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「ランドセルかわいいね。うさぎの模様でしょ?」
「うん! うさぎを飼ってたの」
「ほんと? 私の家にもうさぎいるよ。しかも二匹!」
 授業が終わると互いの家に遊びに行くようになった。
 父に渡されたお菓子の袋を抱えて彼女に迎えられると、毎回真っ先にうさぎを見せてもらった。彼女のうさぎは二羽とも小さくて、私の膝にも容易に乗った。きなこの半分もないだろう。だからまだ子供なのだと思っていたが、これで大人なのだという。これでは二羽の毛皮でやっと一人分の手袋だ。きなこは特別大きい品種で、この子達は特別小さい品種だったのだ。
 きなこがどうなったのかは父との約束なので言うことはできなかったが、好物とかお気に入りの遊びはどんなだったとかを話し、彼女からも飼っている二羽の個性を教えてもらった。友人と一緒に薄くスライスした人参をおやつとして与えて、まぁるい背中を撫でた。どちらのうさぎもいい子だったが、毛並みはきなこの方が良かった。父が愛情を込めて丁寧にブラッシングした成果だろう。そのことを友人に告げたりはしなかったが密かにほくそ笑んでいた。
 父の誕生日は入学してまもなくの五月中旬だ。私はそのもう少しあとに七歳になる。きなこは七歳で食べられた。だからちょっと早いが、私は今年の父の誕生日祝いとして食べられるのだと、根拠もなく信じていた。
 私はそれまでに幾ばくかでも大きくなろうと励んだ。授業では積極的に手を上げ、体育でもボールを奪おうと走り、給食に出てくる嫌いな人参も目をつぶって咀嚼した。テストで百点満点を取った日は友達からの遊びの誘いを断り、諸手を挙げて玄関のドアを開け、父が仕事部屋から出てくるのをテレビで気を紛らせながら待っていた。楽しいはずのアニメもそんなときだけひどく退屈なものに映る。時計は秒針の歩みひとつひとつが遅かった。
 父の仕事が終わり、部屋から出てくると、アニメそっちのけで抱きついた。ずっと握り締めていたテスト用紙を掲げる。努力の成果を認めると、父はふんわりと頭を撫でてくれた。
 身体的にも精神的にも大きくなったのを自覚しているうちに、待望の誕生日がやってきた。父の誕生日もカレンダーに花丸が描かれてあるから忘れることはない。プレゼントには父の似顔絵と、お花や手裏剣を模した折り紙を用意した。このときのために金と銀の折り紙を大切にとっておいたのだ。
 その年の誕生日は日曜日だったから、早起きをして着飾った。大人の服が詰まっているクローゼットを開け、私の服が入っている衣装ケースを見つけ出す。その中にある一等お気に入りのワンピースは、祖母とお買い物に行ったときに買ってもらったものだ。当時の私は知るよしもなかったが、子供服にしては値の張る有名ブランドだった。この服を着たまま決して砂遊びはしてはいけないと言われていた。入学式にも着た服だ。それを引っ張りだした私は、父とデートする気分だったのだろう。
 父はいつもどおりの時間に起きると寝癖はそのままに、私の服装ににっこりと笑った。
「おや、友達とどっか遊びに行くのかい?」
「ちがうよ!」
 頬を膨らませ、小さな拳でぽかぽかと父の脚を叩いた。なぜ私が怒っているのか理解していなかった父は笑ってやりすごした。
 父はコーヒーメーカーをセットし、私の分も合わせてトーストを作り、その上に目玉焼きを乗せた。私の目玉焼きは一つ、父は二つ。向かい合ってかじる。のんびりとコーヒーをすする父を、今か今かとトーストを咥えたまま上目遣いで窺った。朝食はトーストだから、私は昼食と夕食のどちらかになるのだろう。きなこはシチューだったけれど、私はステーキやハンバーグ、カツなんかがいい。そういえば骨付き肉にかぶりつきたいとテレビを見ながら言っていた。きなこよりも食い出があるからその願いは充分に果たせるはずだ。
 観察はこっそり行っているつもりだったが所詮は子供だ、挙動不審になっていた。父は指についたパンくずを皿に落とす。
「そわそわしてどうしたんだい」
「え! えっと……今日はパパの誕生日でしょう?」
「あぁ、そう言えばそうだったね」
 座ったまま身を伸ばしてカレンダーを確認した父は、他人事のように呟いた。大切な日を忘れるなんて! 怒りで頬をパンパンに膨らませると、父は声を上げて笑った。
「そうか、だから凜華はおめかししてたのか」
 ひとしきり父は笑うと、目尻の涙を指で拭い、コーヒーを飲み干した。空になった食器をシンクへ運ぶ。
「よしよし、パパも着替えるから待っててね」
「キッチンに行くんじゃないの?」
「凜華はせっかちさんだなぁ。冷蔵庫の中身はまだ空っぽだ」
 パジャマから近所へ出かけるときの服装に着替え、寝癖を直すと、大きな手を私に伸ばした。ちっとも疑わずにその手を取る。
「じゃあ行こうか」
「うん」
 どこへ行くのかは知らないが、やっぱり入学式で履いたぴかぴかの赤い靴で一緒にでかけた。
 よく晴れて風も暖かい五月はお散歩に最適だった。父と歩幅の合わない私は今日も急ぎ足になりながら、黙って父の隣を歩く。すれ違う人達も爽やかで、歩けば歩くほど人の数は増えた。駅の方向へ進んでいるのだ。どこへ行くのだろう、どうやって食べられるのだろう。疑問を浮かべたままたどり着いたのは、私が誕生日のときにも寄ったケーキ屋さんだった。父がドアを開けると、ベルがカランカランと軽い音をたてる。一緒にドアをくぐった。
 ケーキ屋の内装は前回訪れたときと変わらず愛らしく、ショーケースの中では特別なケーキ達が並んでいた。その他はなにもない。ぽかん、と眺める。
「ここでなにをするの?」
「なにって、ケーキを買うに決まってるだろう」
 すぐにでも調理されると思っていたのでガッカリした。あからさまに肩が落ちたのだろう、父は不思議そうにした。
「なんだ、ケーキ屋さんに来たいからおめかししたんじゃないのか? お腹痛いのか」
「いたくない」
「じゃあケーキはどうする?」
「…………食べる」
 心積もりが外れたのは残念だったが、ショーケースに改めて向き合うと唾が出てきた。ケーキたちも食べて食べてとアピールしているのが伝わる。私と同じだ。
 ゼラチンでコーティングされた輝かしい照りに惑わされる。どれを食べようか。
「ホールケーキじゃなくていいのかい?」
「こっちの方がくだもの多いもん」
 たっぷりと悩み、私はフルーツタルトを、父はレアチーズケーキを選んだ。手を繋いで帰る。
「ケーキは三時のおやつに食べようか」
「あたしは?」
「凜華も三時だよ」
 縋るように問うた私と、笑いながら答えた父との会話はすれ違っていたが、父は気づかなかったろう。自分がケーキを食べる時間ではなく、父が私を食べる時間を訊いたのだ。
 子供である私の誕生日ならまだしも、親の誕生日というのは得てして地味になるものだ。家に着いたら日常に戻ってしまった。
 特別な空気に戻そうとケーキを食べる前にプレゼントを渡したら、父は感激して私を抱き締めてくれた。似顔絵は傷つかないように、裏面に輪っかにしたマスキングテープを貼りつけて壁に飾ってくれた。父は顎に手を添え、うっとりと観賞する。
「なかなか上手に描けてるじゃないか」
「でしょ!」
 えっへんと胸を張った。
 三時になるとケーキの支度は父がしてくれた。小さなお皿二枚にそれぞれのケーキを置き、コーヒーとミルクを淹れたそれぞれのマグを用意した。向かい合って食べる。父は一口ケーキを分けてくれた。差し出されたすピーンをくわえようと、両手をテーブルにつき、全力で身を乗り出して食べる。
 それだけだった。
 いくら待っても父は私を食べようとせず、夜になったら普通の晩ごはんを食べ、風呂に入り、温かな布団の中で眠った。
 どうして私を食べてくれないの。小学校に上がってから一人で眠るようになったベッドの中で、その疑問がぐるぐると回った。子供とは言え本人なりに気を使う。どうして食べてくれないのという問いは、愛していないのかと同義語で、六歳児が対面するには大きすぎる不安だった。
 悲しみは寝ても去らず、心配をかけまいと笑顔を作りはするが、その裏で涙をこらえる日々が続いた。それでもテストで良い点を取れば頭を撫でて褒めてくれるし、休日には遊びに連れて行ってくれた。ちゃんと愛されているのだと自分に言い聞かせる材料であった。
 不安と自信の間で揺らいでいた状態から一気に悪化したのは父が猫をもらってきたのがきっかけだ。
 なんの予告もせず、車で一人出掛けていた父は、キャリーバッグの中に小さな白い猫を乗せて戻ってきた。父は満足げに子猫を部屋に放つ。新入りはみぃと甘い声を上げ、私達の部屋を匂いの確認をしながら徘徊した。
 猫を見守る眼差しはきなこに対するものと似ていた。父は私よりこの子を愛してしまうんじゃないか。本能的な恐怖だった。
「この子はメインクーンっていう、猫の中ではかなり大きくなる種類の子なんだよ。きなこもフレミッシュジャイアントっていう大きい子だったんだけどね。だからきなこと同じぐらいの大きさになるかなぁ」
 ほわほわと綿毛のような毛並みの子猫は、まだきなこの半分の大きさもない。これがあんなに大きく成長するなんて想像できなかった。
「どのぐらいで大きくなるの?」
「そうだねぇ、だいたい一年とか、一年半だって話だよ」
「そうしたら、この子も食べるの?」
 父は躊躇することなく満面の笑みを浮かべた。
「そうだね。猫は食べたことないし」
 一年以内に、この子より先に食べてもらわなくては。吐き気のような焦燥感に駆られた。
 しかし食べられるためにはどんな努力をすればいいのか。幼い私に解決法を見つけられるわけもなく、ひたすら大きくなることに集中した。父と祖母の言いつけを守り、テストで良い点を取って報告する姿は、傍から見れば優秀な生徒と映ったかもしれない。ただ私の笑顔は着実に減っていった。
 それでも猫をいじめようとは思わなかった。先にこの子が食べられてしまうかもしれないが、小さくてふわふわした姿は、他者から本能的に庇護欲を引き出すのだろう。ふわふわとした真っ白な毛並みから、私は綿毛と名付けた。きなこが暮らしていたゲージの代わりに、キャットタワーやトイレや新しい餌皿が用意された。
 まだまだ小さな子猫であったが、父が綿毛に構っていると不安になって、小さな体を父から奪いぎゅっと抱き締めた。必死にそうする私を父はどう思っていたのだろう。ただ笑いながら、凜華と綿毛は仲良しだねと穏健に告げた。
 一人で擁していた焦燥感は体調となって発露した。極端な猫背だとか暗い表情だとか腹痛だとか、そういったことだ。父も祖母も異変に気づき、大層心配してくれた。小学一年生がストレスに曝されているというのは大人からすれば、重力が消えたとか時間が逆行したとか、そのぐらいインパクト強い事件だったのだろう。
 涙を我慢できず、綿毛を抱いたままメソメソと泣く私を、父は仕事の時間はまだ終わっていないというのに部屋から出てきて、頭をそっと撫でてくれた。大きな手は嬉しかったのだが、より多くの涙を誘った。
「どうした。学校でいじめられてるのか?」
 頭を左右に振った。綿毛が鳴き声を上げる。
「じゃあ体がどこか痛いのか? それならすぐにでも病院に行こう。パパは凜華が悲しんでいるのが一番悲しいよ」
 しばらく声を出せずにいた。当時の私ではこれ以上苦しみに耐え続けるのは困難だった。しゃくり上げながら、途切れ途切れに言葉を発する。
「どうして、どうしてきなこは食べたのに、あたしのことは食べてくれないの?」
 絞り出した声を聞いたときの父の表情は、今でも忘れられない。口を半開きにして、両目は限界にまで広げて、鼻の穴まで膨らんでいた。当時の私はそんな表情を見るのは初めてでひどく驚いたものだが、今は思い出すたびに笑ってしまう。予想外のことが起こると、人間は間の抜けた顔になるらしい。
 父は体ごと首と眼を大きく回した。
「凜華のことは食べないよ」
 そのまま勢いよく仰向けに卒倒してしまった。大人どころか生き物が倒れるところを見たことはない。私は涙が引っ込み、息を止め、死体のように硬直した父を凝視した。
 一分程度で蘇生してくれたから私はパニックにならずに済んだ。父は私を抱き寄せ、膝に座らせてくれた。
 どうして食べられたいと思っているのか、それはいつからなのか、父は怒らず丁寧に訊いてくれた。
 私の価値観を揺るがすほどの印象とは裏腹に、父は私を食べると発言したことをちっとも覚えていなかった。冗談だったんだよと苦笑する。大人も嘘をつくのだと学んだのはこのときだったろうか。
「凜華のことは世界で一番愛しているよ。それは絶対だ」
 それを信じ笑うまで、膝の上であやしてくれた。
 父の気持ちを正しく理解した私は元気さを取り戻し、泣くことはなくなった。祖母になにがあったのかと問われた父は引きつった笑顔で誤魔化すしかなかったようではあるが。
 学校内での交流も疎遠気味になっていたが、自分から輪の中に入っていけるようになった。
 クラスメイトの男子が昨日は馬刺しを食べたと自慢した。他の男子がイノシシを食べたことがあると乗っかった。私はうさぎを食べたよとうっかり混ざってしまったら、後ろの席の女の子に、うさぎ飼ってるんだからそんなこと言わないでよ、りんかちゃんも飼ってたくせに。と叱られてしまった。一般的にはどうやらペットは食べるものではないのだと学んだ。
 綿毛を食べると言ったのは本気だったのか冗談だったのかは未だに不明だが、綿毛は食べられることなく、私が高校生になるまで長生きした。ふわふわとした毛並みは加齢と共にしなやかさを失ったが、父と私が交互に毎日ブラッシングを行って餌にも気をつけていたので見窄らしくはなかった。私と父からの愛を受け取って、健やかに眠れたことを祈るばかりだ。
 亡骸はペット霊園で供養した。父は大変気落ちしたのを覚えている。綿毛を亡くしてからは新しいペットを迎えていない。
 しかしジビエ自体は諦めなかったようで、仲間と一緒に外で捌いては肉を持ち帰り、紅葉鍋などを作ってくれた。私も鍋にされたかったという願いは腹の奥底に燻っていたけれど、イノシシと一緒に飲み込んだ。
 父との生活は多少の諍いはあったものの普遍的な範囲で収まり、成長した私は進学し、就職し、結婚し、先日子供を生んだ。ふよふよとしたまあるい赤ん坊だ。
 孫が出来た父は大いに破顔し、服やおもちゃを大量に買い与えようとするものだから、冷静になってくれと宥めることが多々あった。
 鹿や熊も食べた私だが、結局ジビエに目覚めることもなく、夫もさして興味がなかったから父をがっかりさせた。
 しかし今なら、父が私を食べると冗談を言った気持ちが少し判る。
 我が子というのは、食べてしまいたいぐらい可愛いのだ。
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 やかましいスマホのアラームで目を覚ました。休日だから自分のは枕元に置いていない。太陽は高い位置にあるらしく、眩しいほどの光を寝室に降り注いでいる。瞼を開けるのが億劫だ。アラームを無視しているとすぐ後ろの男が腕を伸ばす気配がした。布団が持ち上がり、外の空気が背中を冷やすがそれも無視をする。数秒後に耳障りな音は途絶え、布団は元に戻された。うなじに深く吐き出す息がかかる。
「電話やったんやないの」
「ナイブズだったからいいの」
「一番アカンやつやろ」
 スマホが完全に沈黙を守っているところから察するに電源を落としたらしい。溜め息をつく。
「うっかり会うたときに小言いわれんのワイなんやけど」
「……あいつの肩持ってるの?」
「被害報告や」
 見当違いな暢気さに語気が荒くなる。しかし後ろの男は男で真剣だったらしく、こちらの腰に腕を回し、珍しく怒ったような、しかし愛嬌も残っている声を出す。
「あいつからもたまにキミの話聞くんだけど。なんで僕の知らないところで会ってるの」
「行動範囲が被っとるだけや。あっちも大概災害じみとんのにわざわざ会うわけないやろ」
「心配だなぁ」
 人の話を聞かず、黒髪に鼻先をうずめる。
「双子って好み似るって言うし」
「双子の割には似てへんよ、オドレら」
 兄は潔癖症なところがあり常にピリピリしていて神経質だが、弟は自身が罵られる程度ならヘラヘラと受け流す。並べてよく造形を観察すればそれなりに似ているが、第一印象が違いすぎるのだ。兄弟だと知ったときはよっぽど弟に心労をかけられたのだろうと眉間のシワから察した。頑固なところは似なくてもいいのにやたらと似ているが。
「小さい頃はそっくりってよく言われたんだよ」
「今はちぃともや。兄貴の方には興味あらへんし」
 後ろの男の時間が一瞬止まった。自分はまだ寝ていたいので瞼は閉じたままだ。なのに頬に顎が乗っかる。
「もっかい言って」
「嫌や」
「録音するからもっかい言って!」
「嫌や!」
 絡みついてくる脚を蹴っ飛ばす。本気で録音するつもりだったらしく、電源を入れたスマホがけたたましいアラームを響かせた。怒号にしか聞こえず耳が痛い。
「兄貴めっちゃ怒っとるやん!」
「丁度いいからキミの意見を聞かせよう」
「絶対言わんからな」
「僕が言うからいいよ」
 アラームを止めるのとほぼ同時に、後ろの男は訊かれていない上に許可もしていないことを一方的に告げた。受話器越しだというのに怒声が届く。
 休日の安寧を求めて、腰に片腕を巻き付けたまま布団の中で丸くなる。

 たまたまチョコを食べていたのがきっかけだった。
 一口サイズのチョコを口に入れているとき、ソファを背もたれにして床に座っていたウルフウッドが呻き声を絞り出した。ゴーストに生気でも吸い取られているかのような濁った声だ。仰け反った顔を、ソファに腰掛けていたヴァッシュが背中を丸めて覗き込む。
「大丈夫?」
「疲れた」
 彼らしくもない素直な愚痴だった。
 新年を迎える以前から大きなプロジェクトが始まったのだという。社内を走り回るのはもちろんのこと、外出や出張も多い。動き回るだけなら体力のあるウルフウッドはこなせただろうが、ミーティングの回数も格段に増え、こちらがウルフウッドを参らせた。考えるよりまず本能で動く男だから、神経のすり減り方が大きいのだろう。
 ヴァッシュは口の中のチョコを転がした。
「ハグしてあげようか」
「いらん」
「じゃあチョコ食べる?」
「……食う」
 提案しておきながら予想外の回答に面食らった。幻聴だったのかと目を瞬かせる。ウルフウッドは不機嫌そうに見上げてくることをやめなかったから、事実で間違いないようだ。ヴァッシュは箱をスライドさせチョコを一粒取り出す。
「疲れてるときに甘いものはいいからね」
 鬼の霍乱、悪魔も日射病にかかる、ウルフウッドもチョコを欲する。
 本人に聞かれたら怒られそうなことをこっそり胸中で呟きながら、チョコをウルフウッドの方へ差し出した。途端に、あぁ? と借金取りのようなドスの利いた声で威嚇してくる。心の声が洩れてしまったのか。ウルフウッドの眉が釣り上がる。
「疲れとる言うてるやろ。なにこれ以上働かそうとしとんねん。気の利かんやっちゃなぁ」
「ええっ」
 驚いたのは理不尽なことを言われたからではない、食べさせろと命令してきたからだ。ヴァッシュはピラニアが生息している池でも覗き込むように恐る恐るウルフウッドを見下ろした。よく観察すると瞼のあたりに疲労が溜まっており鈍い目つきになっている。前言を撤回するつもりはなさそうで、病気ではないようだが、症状は重いみたいだ。
 天から硬貨、いや瓢箪から駒だろうか。
 気が変わらないうちにと、口の真上にチョコを持っていった。ウルフウッドはそれに合わせて大きく口を開く。
「……あーん」
 反抗されることも覚悟したが、チョコを落としても動かなかった。口を閉じ、噛む。あっま! と文句を言っただけだ。
 噛んだのは一度きりで、あとは自然に溶けるに任せたらしい。眉間にシワを寄せたまま瞼を閉じる。ヴァッシュはそのシワを伸ばそうと人差し指と中指で撫でる。すぐに腕を叩かれた。これは気分ではないらしい。
 黙って見守っていると、怒っているような鼻息は寝息へと変わった。ゆったりとしたリズムになっている。ヴァッシュは起こさないようにそっと指先で黒髪を撫でた。
「お疲れ様」
 ウルフウッドの眉間のシワは徐々に薄れていった。


 次の日には別のチョコを買って帰った。二日連続で気まぐれを起こしてくれる保証はなかったけれど、食べてくれなかったら自分が食べればいいだけだ。あとはどのタイミングで与えるかだ。
 僕の帰宅よりもウルフウッドの方がプロジェクトを終えるまでは当然遅く、ご飯も外で食べてくる。食後のおやつと容易くはいかない。
 ヴァッシュは先に食事を済ませシャワーも浴びた。ウルフウッドがいないと時間の経過は遅く、やりたいことも沢山あったはずなのに妙にやる気が出ない。端的に言ってしまえば張り合いがない。早くプロジェクトとやらが終わってくれないだろうか。
 ソファで帰りを待っていたらいつの間にか寝てしまったらしい。目を開けるとウルフウッドの背中が見えた。髪が濡れていて、肩にタオルを掛けている。テーブルの様子を伺うに、どうやら晩酌をしているようだ。
 ヴァッシュは手を伸ばそうとして、毛布に包まれていることに気づいた。彼の手間を減らすつもりが、うっかり増やしてしまったらしい。情けなさから鼻まで毛布にもぐる。
「……おかえり」
「起きたんか」
 つまみのスモークチーズを咥えたままウルフウッドが振り返った。表情は明るく、今日は元気そうだった。そのことに安堵する。
「チョコ食べる?」
「いま酒飲んどるんやけど」
「知ってる」
 ウルフウッドは面倒臭そうに、テーブルの隅に置きっ放しにしていたチョコの箱へと手を伸ばした。毛布越しにヴァッシュの胸元へ投げる。彼が帰宅する前にいくつか食べていたため封はもう開いている。
 ヴァッシュは億劫そうに毛布の下から両手を出し、もたもたと一粒取り出した。包み紙をほどき、背中をソファから引き剥がしてウルフウッドへ腕を伸ばす。
「あーん」
「これ終わったらベッド行きや。運ばんからな」
 鬱陶しそうに目を細めるくせに今日も素直に口を開けてくれたのが嬉しくって、チョコを食べさせた後は再び毛布の中へ緩んだ顔をもぐらせる。チョコを噛み砕くウルフウッドは鼻の頭にシワを刻み、怪訝そうな表情をした。
「甘いんか苦いんか、変な味やな」
「昨日のとは違うブラックチョコだよ。砂糖は入ってるけどミルクが入ってないんだ」
「ふぅん」
 もうとっくに噛み切ったはずなのに、いつまでも口の中を動かしている。味わっているというより掃除をしているようだ。
「もう一個食べる?」
「いらん。ちぅかさっさと寝ろ言うてるやろ」
「一人で寝るのは寂しいだろ」
 だからもう少しキミを観察すると告げてソファに居座った。


 それから数日はブラックチョコを与えていたのだけれど、飽きてきたようなのでまた新しいチョコを買ってきた。こっちの方が気に入るはずだ。
 ここしばらくの習慣通り、先にシャワーを済ませて一人で食事をする。洗い物を済ませた頃にウルフウッドは帰ってきた。シャワーが面倒だという彼をなだめてバスルームへ押しやる。シャワーを浴びる条件として提示した酒とつまみの準備を始める。その中に当然のようにチョコのパッケージも混ぜた。ヴァッシュが食べさせるため未開封の状態だ。丁寧に皿の上に出しておいても自主的に食べることはしないのだけれど、箱からチョコを取り出す手つきをウルフウッドが何か期待でもしているような視線で観察するのが面白くって、フィルムが巻いてある状態で用意しておく。
 シャワーで汗も機嫌の悪さも洗い流したウルフウッドは、スッキリした表情で濡れた頭を拭いていた。テーブルの上の酒を確認し、つまみへ視線を移し、最後にチョコを見遣る。
「昨日と違うやつやな」
「うん。こっちの方が君の好みだと思うよ」
 ウルフウッドが腰を落ち着けた隣でパッケージを手にする。フィルムの端っこを爪で引っ掻いて剥がす仕草を、ウルフウッドは未知の動作のように見つめていた。ヴァッシュは小さく笑みを乗せる。これは個別包装していないタイプだから、ケースをスライドさせると敷き詰められたチョコがすぐに現れた。一粒取り出す。
「はい、あーん」
 酒を飲むより先に素直に口を開けてくれた。ここのところ毎日食べさせているからか、チョコを食べさせてもらうことに対する抵抗は皆無らしい。口の中に押し込むと、ウルフウッドはすぐに噛み砕いた。
「……ん、酒?」
「そう。ラム酒が入ってるチョコだよ」
「こういうんがあるんやったらさっさと出せぇや」
 一口サイズのチョコに含まれたアルコールの量なんて微々たるものだけれど気に入ったらしく唇が綻んだ。機嫌良さそうに缶ビールのプルトップを開ける。それに口をつける前に、やたらと嬉しそうなヴァッシュに気づき睥睨した。
「なにニタニタしとんねん」
「なんか小動物みたいで可愛いなぁって」
「はぁ?」
 缶を握ったまま動きを止めた。アルミがへこむ嫌な音がする。飲むことより小動物という発言の方が気になったようだ。無言で先を促すが、ヴァッシュは悪びれもせずに笑顔のままだ。
「ほら、動物って餌を目の前にやると口を開けて食べようとするでしょ。それに似てるなぁって」
 ウルフウッドは片眉を上げると牙を剥いた。挑発するように笑う。
「はっ、誰が小動物や。そうやって油断しとると指食い千切られるで」
「じゃあ食い千切ってみる?」
 チョコを新しく出し、ウルフウッドの口元にまで持っていった。唇とチョコが触れる。そのまま数秒経っても口は開かない。ヴァッシュは穏やかに見つめていたが、ウルフウッドは顔を逸らした。
「ンな甘いモン仰山食えるか」
 ずっと持っているだけだったビールにやっと口をつけた。一気に煽る。ヴァッシュは肩を竦めてチョコを自分の口に放った。
「明日の分もとっときや」
「あ、明日も食べるんだ」
 その呟きに対する答えはなかった。


 これまで買ってきたチョコの中ではアルコールを含んだのが一番好んでいたから、今日もそういうのがいいだろうと、いつもよりだいぶ予算をとって一箱用意した。今日もウルフウッドは遅い。いつもなら玄関が開く時刻に長針と短針がたどり着いても家は静かだった。
 退屈を持て余したまま一人で待っていると、長針が予想より一周多く歩いてからウルフウッドが帰ってきた。今日は上機嫌だ。飲んできたのか顔が赤い。惜しみなく笑顔を振りまく。
「ただいま」
「はいはい、おかえり」
 ソファに座ったまま、両腕を広げてハグを要求する。ウルフウッドは鞄を床に置き、ネクタイを緩めた。
「そんな気分やないんやけど」
「僕がハグして欲しいの」
「しゃーないなークソガキが」
 アルコールでよほど機嫌がよくなっていたのか、気前よくハグをしてくれた。ぽんぽんと背中を二回叩いてくる。
「お酒臭い」
「飲んできたからな」
 離れると大きく息を吐き、ネクタイをするりと解いた。ソファにどかりと座り、背もたれに両腕を回した。天井を仰ぐ。
「お水取ってこようか?」
「ん」
 コップに水を汲んで戻ってくると、ウルフウッドは先ほどと同じポーズのままうつらうつらとしていた。頬骨をつついて起こす。
「寝ないでよ」
「ええやん。どーせトンガリがベッドまで運んでくれるんやろ?」
「こんなときだけ甘えないでよね」
 それでも水を飲むと多少は回復したようで、座りなおすと焦点がはっきりとした。コップの中身を飲み干す。
「今日もチョコあるんだけれど食べる?」
「食べたってもええよ」
 クッションの裏に隠していた箱を取り出す。いつもみたいな手頃なお菓子の箱じゃなくって、上質な紙で作られたボックスに赤いリボンが掛かっている、ひと目見ただけで高級なそれと判る代物だ。酔っているウルフウッドは、無遠慮にヴァッシュの肩に体重を預けて手元を覗き込む。
「どないしたん、それ」
「買ったんだよ」
「無駄に奮発したなぁ」
「無駄じゃないよ」
 膝の上で丁寧にリボンをほどき、小箱を開ける。中には宝石のように愛された一口サイズのチョコが四つ、仕切りの中で行儀よく食べられるのを待っていた。豊かな香りが広がる。四つとも形は違うがどれも美しい。
「紙皿に入っとるで。ベントーのおかず入れるヤツみたいやな」
「もっと他に言い方あるだろ。ほら、これがブランデー入ってるんだってよ」
 口元にチョコをやっただけで、何も言っていないのにウルフウッドは口を大きく開いた。酔っているせいか指まで咥え、ちゅっと音を立てて顎を引いた。いつものように噛み砕く。
「どう、いつもより美味しい?」
「せやなぁ、多分」
「贈り甲斐ないなぁ」
 小箱はそのままにして、肩にもたせ掛けている頭を撫でる。気持ちよさそうに瞼を閉じた。このまま寝てしまいそうだ。
「ねぇ、僕にはなにかないの」
「あらへんよ。なんでや」
「だって今日はバレンタインじゃない」
「あ?」
 ウルフウッドは眠さを押しのけて瞼を開けた。すぐ間近にヴァッシュの顔があるが、近すぎるせいかアルコールのせいかピントが合わない。怒っているわけでも拗ねているわけでも呆れているわけでもなさそうだったのは判った。ヴァッシュは首を傾げる。
「僕にはなにもくれないの?」
 肩に頭を預けたまま視線を下げた。黙っていると頭を優しく撫でられる。どこを見ればいいのか判断つかないまま目を彷徨わせた。
「トンガリが何か欲しいて言うことなかったやん。オンドレが勝手にすることはあったけど」
「うん。今日も別に強制はしてないよ。訊いただけ」
 しばらく俯いていたウルフウッドは長く沈黙を続けたが、静かに顔を上げた。
「……欲しかったん?」
「あったら嬉しかったかな」
 再び俯く。バレンタインというのはウルフウッドにとってはほぼ無縁のもので、子供の頃に孤児院の家族から貰う程度だった。今の職場には義理チョコの文化もない。これまでヴァッシュに何かを言われることもなかった。それは怠慢だったのだろうか。
 ヴァッシュは不服に思っていたらちゃんと言うだろう。甘いがそのぐらいのことはできる男だ。ただ今日は、少しぐらいは期待していたのかもしれない。
 ウルフウッドはヴァッシュの膝へ腕を伸ばし、赤色でコーティングされたハート型のチョコをつまんだ。自分の口へ放り込む。一度だけ噛むと中から柔らかいチョコがあふれた。ヴァッシュの両頬を手で挟み、唇を押し付け、舌でチョコを押し込む。驚いた気配が伝わったけれどすぐ腰に両腕が回った。顔を離す。
「これでええやろ」
 羞恥心から体を離そうとしたがヴァッシュは許さなかった。唇をもう一度重ねてくる。逃げようとすると後頭部に手を回された。渡したチョコが返ってくる。それで終わりかと思ったが舌は居座っている。人の口の中でチョコを味わってくるから腹立たしい。溶けきるまで離さないつもりか。それならさっさと食べきってしまいたいのだが、ヴァッシュの舌が邪魔で噛みづらい。
 やっと解放されたと思ったらただの息継ぎで、少しずつ噛み砕くしかなかった。固形物がなくなっても歯の窪みや裏側にこびりついたチョコを舌が丁寧に拭う。背中を叩いて抗議しても無視された。
 ヴァッシュの気が済んだのは口内からチョコの名残が完全に消えてからだ。ウルフウッドは熱い息を吐く。
「しっつこいねん! ダアホ!」
「だって足りなかったんだもん」
 ヴァッシュは涼しい顔で自分の唇を舐める。自分だけが精一杯だったのが屈辱的だ。悪態をつき、さっさと寝てしまおうと背広を脱ぐ。
 その様子を眺めながらヴァッシュは目を細めた。わずかに身を寄せる。
「ねぇ、あと二つ残ってるんだけど」
 絡みつく視線を無視して、スラックスを蹴飛ばすように脱ぎ捨てた。
「チョコは一日一粒って決めとったやろが!」
「じゃあ残りは明日と明後日だね」
 ヴァッシュは大切そうに小箱へ蓋をした。

「しばらく遠くに行くことになっちゃった」
 会社から帰ってくるなりヴァッシュはそう告げた。鼻まですっぽり覆っていたマフラーを取り、丁寧にたたむ。先に帰っていたウルフウッドは、ソファから感慨もなさそうにその様子を眺めていた。ヴァッシュの両肩は分厚いコート越しでもガックリと落ちているのが判る。
「……とうとう左遷か」
「違うよ! 出張!!」
 不名誉な勘違いにはさすがのヴァッシュも怒った。鼻息荒く、乱暴にコートを脱ぐ。
「一週間北の方に出張することになったの。冬なのに北に行けってひどいよね」
「土産は地酒でええよ」
 ウルフウッドっはさっさとテーブルの上に広げていた酒とつまみに顔を戻した。サラミを手にすると口に放る。素っ気ない態度はいつものことだ。ヴァッシュは隣に座ると、遠慮なく両腕で抱きついた。
「だから一週間分の補充—」
「ガキやないんやからシャキッと行けるやろ」
 最初から甘やかすとすぐ調子に乗るのだ。冷たい態度で丁度バランスが取れる。放置していると、抱きつく強さそのままに体重をかけてきた。肘掛けとヴァッシュに挟まれて潰れる。それでも構わずにいるとぐりぐりと頭を押し付けてきた。甘やかさない程度で引き下がるような男ではないのだ。
 ウルフウッドは鼻から諦めの溜め息をついた。片手でおざなりに金髪を撫でる。
「ガキか」
「極寒の地で一週間乗り切るにはこれが必要なの」
 拗ねた子供の口調だったが、相手されて満足なのか抱きついてくる圧力は弱まった。リラックスしたように瞼を閉じる。ウルフウッドは指で梳ながら、金髪の中なら白髪は見つかりにくそうだなどと関係のないことを考える。
「そうだ!」
 勢いよく頭を上げたヴァッシュに驚き、ウルフウッドは手を引っ込めた。何事かと細かく瞬きをする。澄んだ碧色の双眸には珍しく真剣な光が眩しく宿っていた。真っ直ぐに黒い眼子を貫く。
「今夜はいっぱいえっちしようね、充電のために!」
「出張は明日からとちゃうやろ」
 ウルフウッドはバッサリと切り捨てた。


 出張当日のヴァッシュは面倒臭かった、というのがウルフウッドの正直な感想だ。いつもより着込んだヴァッシュのシルエットはもこもこと丸く愉快だったが、靴を履いてから家を出るまでに三〇分もかかった。別れの挨拶と、何故か戸締まりの注意と、ハグと両頬のキスと唇へのキスを丹念に繰り返されたのだ。
 休日であったウルフウッドは早くベッドに戻って二度寝したい気持ちもあったけれど、真面目に仕事に取り組む男にそれは酷な態度だろうと、満足するまで付き合ってやることにした。いつもはされるがままだったこともあってか、特別にハグを返してやったのは効果が大きかったようで、メソメソしていたヴァッシュは笑顔で手を振りながら家を出た。それを見送ったウルフウッドも、呆れを滲ませながらも柔らかい微笑みだった。
 その後予定通りに二度寝しスッキリと目覚めると、ちょっとした解放感が満ちていた。久しぶりの一人暮らしに、自覚していた以上の期待が発芽したらしい。ヴァッシュは決して神経質な方ではなく、ウルフウッドも大抵のことは自分でこなしていたため二人暮らしに窮屈さを感じたことはなかったが、スムーズに生活するための遠慮ぐらいはしていた。この一週間ぐらいは意図的に自堕落な生活をしてもいいはずだ。
 ヴァッシュからまめに連絡があったため日常の延長線という雰囲気は免れなかったがベッドは広々と使えた。食事の内容も就寝時間もわざとズラした。どちらかというと両親が不在の子供のようであったが、ちょっとした非日常に変わりはない。
 順調な一人暮らしだったが、三日目から違和感を覚えた。何かが足りない。
 酒と煙草は充分用意してあるし、食事も支度こそは手を抜いているものの量は不足していない。ならば睡眠時間だろうか。
 眠気はないのだが、とソファに凭れたとき唐突に気がついた。自分を動かす部品が足りていないのだ。どうして思い至らなかったのか自分でも不思議だ。そこにあるのが当然だと慣れきっていたのだろうか。
 背中で潰した二つのクッションのうち、赤い方を引っ張り出した。普段はヴァッシュが使っているため二つとも独占し続けるのは彼が不在のときでないとできない贅沢だ。
 赤い無地のクッションは受け止めた体重で歪な形になっていること以外は正常だ。中綿がヘタれているわけでもない。だが、と顔面に押し付ける。
 嗅ぎ慣れている匂いが薄れていた。いつもどこかしらに漂っていたあの匂い。ゼロではないが鼻を近づけないと判らないほどだ。
 自分の行動から我に返り、驚愕した。絶望とともにクッションを手放す。今は空っぽのソファの半分へぽとりと落ちた。ウルフウッドはそこから体ごと目を逸らす。
「ワイはそこまでベッタベタとちゃうわー」
 誰も聞いていないのに言い訳するのは白々しいと自覚してはいる。それでも言わないと落ち着かないと思ったのだ。結果は、言っても落ち着かなかった。恥ずかしさも物足りなさもそのままだ。
 どうすればこの呪いから救われるのかと眉間にシワを寄せていたが、ふと閃いた。物足りなさだけなら補えそうだ。だがその思いつきは妙案と呼ぶにはほど遠く、むしろ自分の愚かさに頭を抱えたくなる。そこまで自分は馬鹿ではない。だが手っ取り早い解決方法ではあるし、今なら誰にも目撃されることはない、絶対に。
 ウルフウッドは口に手を当て、無言で熟考したのち立ち上がった。ヴァッシュが毎朝使うヘアスタイリング剤が並べてある棚へ向かう。ワックスだのスプレーだのの間に、ぽつんと小瓶が置かれてある。最近ヴァッシュが使い始めた香水だ。
 なにに感化されたのか、少し前に香水を買ってきて嬉しそうに報告をしてきた。見て見て、と手の平サイズの小箱を親指と人差し指で掲げる。新しいおもちゃを自慢するちびっ子のような笑顔だった。
 それがなんなのか、ウルフウッドには判らなかった。赤いパッケージは彼らしいと思っただけだ。ヴァッシュは細い指で封を開け、中身を取り出す。小ぶりな瓶が手の平に飛び出してきた。ヴァッシュの笑顔は最高潮に達した。
「香水買ったんだ!」
「ンなモン買うてどないすんねん」
 ウルフウッドの日常には存在しない代物であった。匂いに金を出すとはどういう心境なのか。同じ嗜好品でも酒や煙草の方がずっとシンプルだ。
 ヴァッシュは香水を買ったことがよほど嬉しかったのか、気を悪くした風でもなくにこにことしている。
「女の子にそそのかされたとかじゃないから、心配しなくても大丈夫だよ」
「誰がンな心配したっちぅねん!」
「適度につけるのは、身だしなみの一つだよ」
 ヴァッシュは蓋を取ると、予告もせずにウルフウッドの腰のあたりに一吹きした。メンズ物らしいすっきりとした香りが立ち上る。これに金を出そうとは思わないが悪くはない。
「僕の匂いになるんだから覚えといてね」
「覚えるかいな!」
 そう反論したのはまだ記憶に新しい。それが今ではすっかりヴァッシュの思惑通りになってしまっている。忌々しい。
 ウルフウッドは香水を持ってソファへ戻った。自分が捨てたクッションを睨めつける。
 蓋を取るだけなら抵抗はなかった。だがその先が進まない。やっぱり戻そうかと弱気になるが、誰も見ていないのだからと自分を奮いたたせる。そもそもこれからやろうとしていることは、どうあがいても滑稽なのだ、と自覚しながらも、後戻りするという選択肢を消し去った。
 躊躇いがちに香水をクッションへ向けた。それだけで羞恥心で体温が上がり、汗ばむのが判る。大きく深呼吸をしたのち、息を止めた。
 隠れて淫らなことをしているような背徳感を押し込め、ノズルを押した。逡巡していた時間に比べ、香水が吹き出たのは一瞬だった。呆気ないほど容易かったが、スプレーの音は大きく聞こえた。
 クッションから目を離さぬまま、慎重に香水瓶をテーブルに置いた。クッションの端をつまみ、警戒しいしい引き寄せる。なんとなく、右を見て、左を見て、大きく息を吐くと同時に覚悟を決めた。クッションを顔の近くで抱き締める。覚えた香りが鼻から体の中に入ってくる。
 全身の緊張が緩んで力が抜けた。強張っていた筋肉に潤滑油が差され、スムーズに動く感覚。
 機嫌が回復したと自覚したのは、数時間経ってからだった。


 正気に戻ってからは自己嫌悪と敗北感に打ちのめされた。仕事でミスをしたときでもここまでの後悔はない。二度と同じことを繰り返すかと固く誓う。その誓いは禁酒禁煙と同じぐらいの強度だった。
 クッションの匂いが薄れると、またぞろ落ち着きがなくなった。二度とあの屈辱を味わいたくないという怒りが真っ先に出てきたが、飢えというのは存外強く、少しぐらい使ってもバレやしないという事実もチクチクと自分を苛んだ。
 自分を戒める鬼と誘惑する悪魔。普通は天使と悪魔だろうと思うのだが、この状況で天使の出番などあるはずもない。
 カレンダーを見れば、同居人が帰ってくるのは明日だ。一日ぐらいなら待てる。そもそも自分は焦がれてなどいない。
 そう結論づけて風呂に入り、上がるといい気分で缶ビールを開けた。いつもより飲みすぎたのは、家には自分しかいないという解放感からか、それとも奥底でわだかまっていたストレスによるヤケ酒だったのか。
 手足の指先から脳髄までアルコールによる支配が完了すると、つまみを取りにいく要領で香水瓶を持ってきていた。鼻歌を奏でながらクッションの一吹きする。陽気に鼻を押し当てた。肺を空気で満たす。
 香水の匂いは取り込めたが、いくら肺が膨らんでも期待していたような満足感は得られなかった。首を傾げる。酒で鼻が鈍っているのだろうか。もう一吹きしてみたがやはり足りず、面倒になって追加で三回吹いたら香りが強烈すぎて悪臭と化した。鼻をつまんでクッションをほっぽる。今日は運が悪いらしい。
 その日は散らかしたままベッドに倒れ込んだ。
 アルコールの抜けた翌朝はもちろん後悔のし通しで、窓を開けて空気の入れ替えをし、クッションもよく日光に晒した。それでも香水の匂いが停滞している気がして、コーヒーを多めに沸かして追い払うことにした。どの程度効果があったのかは定かではないが、やらないよりは増しであったろう。
 日が傾き始めるとクッションを取り込んだ。なぜ干しているのか質問されたら答えようがない。
 部屋を整え、愚行などなに一つなかったと自分を納得させた頃、ヴァッシュは帰ってきた。ドアを隔てた玄関先で、ただいまと怠そうに告げる声が聞こえる。ウルフウッドは狼狽して左右を見渡し、ソファに腰を落ち着けた。いつものように肘掛けで頬杖をついて、テレビもつけて、興味なさそうに装う。
 ドアを開けて部屋に入ってきたヴァッシュはまともに歩くつもりはないようで、ふらふらとゾンビみたいな足取りでウルフウッドに近づき、災害のようにのしかかった。肺が潰れたウルフウッドは呻き声を洩らした。
「疲れたぁー。一週間は長いよねぇ」
「重いっちぅねん!」
 外気がまだへばりついているコートは冷たい。肩を押して剥がそうとしたが、ヴァッシュに離れる意思はなさそうだったので諦めた。こういうときは梃子どころか重機を使っても動かない。飯の時間になれば自然と退くだろう。
「……僕の香水使った?」
 不意打ちどころか死角からの襲撃だった。
 油断していたところで心臓を冷たい指が撫でてきて、つい硬直してしまったが認めるわけにはいかない。ふいと顔を背ける。
「ンなわけあるかい! 気のせいや」
「でも匂いするよ?」
 首筋に鼻をうずめると大きく蠢かせた。服の上から体をなぞるように下っていき、セーターの裾にたどり着く。遠慮なく裾をたくし上げると、肌に鼻を寄せた。
「ちょぉ、嗅ぐな。気色悪い」
「脱がしてるのはいいの?」
 まだ温まっていない指先が腹筋を撫でた。へそのくぼみに到達する。
 ウルフウッドは視線を彷徨わせ、小さく身じろぎをした。顔を逸らしたまま小さく呟く。
「それはええよ、別に」
 空気が一瞬にして変わった。
 むせ返るほどの獰猛な匂いが体中を覆う。香水よりももっとずっと先に覚えた匂い。この肌に一番馴染んだ体臭。
 視線だけをヴァッシュに向ければ、痛みを堪えたように笑っていた。この男はこんなときだけ凶暴な顔をする。
 首に噛み付いてくるのを好きにさせた。この体臭を自分のものにする方が先だ。
 香水では騙しきれなかった。この身体はちゃんと覚えていた。
 ずっと足りなかったものは、この匂いなのだ。

 私とニンゲンとの間に邪魔者が増えるようになった。私の平穏を脅かす、甘くも鬱陶しい存在だ。
 真っ先に察知した違和感は匂いだった。自分のでもニンゲンのでもない、柔らかく溌剌としたエネルギーを放っている香り。どこか懐かしくもある。
 次は物音だ。狭い場所を駆け回ったり、砂を掘ったりする音。母親に甘えるような声。私の耳は、閉ざされた扉の奥から隠しきれぬ気配をしっかりと捉えていた。ニンゲンは私のことを気にしながらも、たびたび扉の奥へと消えた。ニンゲンが私のために膝と手を供する時間が減ったのは由々しき事態ではあったが、ニンゲンとは我々に仕えるために存在しているのだ、もう一匹猫がいるのならば、そちらの世話をするのも彼の役目だ。
 私がもう一匹と面会したのは、それから数日後のことだった。扉の奥へと導かれると、背の高いゲージの中に、小さくて、貧相で、しかし生命力だけは溢れた幼子がちんまりと座っていた。好奇心に目を輝かせ、無遠慮に鼻を蠢かす。
 ニンゲンよ、お前は本当にこの生き物を迎えるつもりなのか。ニンゲンに抗議の視線を送るが微笑みを返された。
——妹だ。仲良くするんだよ。
 未来を案じ、長い嘆息をつくしかあるまい。
 ゲージの戸は放たれ、小さき生き物は私の王宮を自由に闊歩することとなった。


 新しい猫にテリトリーを汚されるのは心配だった。特に子供というのは礼儀を知らない。私の通り道に物を落として塞いでも、悪びれるどころか気づきもしない。甚だ邪魔であったが私は寛容だ。ニンゲンに片付けを命じ、元通りに開かれた道を悠々と歩いた。
 今日はよく晴れている、日光浴びよりだ。部屋は充分暖めさせているが日向で寝るのはいつだって心地よい。陽がよく当たる定位置で丸まった直後、走り回っていた子猫は容赦なく私にぶつかった。これには流石に牙を剥く。子供は一瞬だけ耳を伏せたが、すぐにあどけない瞳を大きく開き、顔を寄せた。
「お姉ちゃん、一緒にあそぼ」
「いやよ」
「かけっこ楽しいよ」
「私はもう子供じゃないの。美しいレディなのよ」
 片手で頭を押さえつけると子猫は小さく鳴いた。捨て置いてもいいのだが、指導してやるのは年長者の務めだ。小さく丸めた背中を舐めてやる。
「あなたは毛が短くみすぼらしいのだから、少しは大人しくしていなさい」
「みすぼらってなぁに」
 無視をして毛づくろいを続けると単純なもので、すぐにうとうとし始めた。添い寝ぐらいならしてやってもいい。体温は好きだ。
——面倒見ててえらいな、ポット。
 やっと静かに眠れると思ったのに、ニンゲンがおもちゃを持ってやってきた。棒の先端に羽根がついているものだ。昔はよく私が遊んだおもちゃだけれど今は私を誘っているわけではないようだ。小さくなっていた子猫が顔を上げ、大きな目に細かいきらめきを浮かべた。熱心に羽根を見つめている。ニンゲンは床に座ると、おいでカップと呼びかけて羽根を中に舞わせた。単純な子供はぴょんぴょん跳ねる。
 子猫が来る前は私が一番だった。ニンゲンは私のために食事と水を用意し、室温を調整し、退屈を凌がせた。それが今では新入りに時間を割いている。私のために尽くさねばならぬという義務を忘れたか。
 ニンゲンの膝に両手を置き、キッと見上げた。あなたの役目はなんであったかを思い出しなさい。
——お前は本当に撫でられるのが好きだな。
 羽根を振り回すのを中断すると、私を抱き上げ膝に乗せた。大きな手が頭を撫でる。
 認めよう、私はこの手が好きだ。大きな手は、私も子猫であった頃には無骨なだけで、撫でられてもちっとも心地よくなかったのだが、時と共に猫の尊い体の扱い方を覚え、今では温かく私に安らぎをもたらしてくれる。ずっとずっと、私を撫で続ければいい。
 このニンゲンは、私のために働けばいいのだ。


 ニンゲンの膝と腹の次に好きな寝床は、ふわふわと柔らかい布で作られた円いベッドだ。特に今の季節はたいへん重宝する。ニンゲンの体では明らかに小さすぎる、私のために用意されたのだ。
 しかしここも今では新入りが勝手に使うようになった。小さな体をさらに小さく丸め、憂いも罪悪感もなくすやすやと眠っている。
 呆れるしかない。子供だからと言って、私が遠慮する道理もありはしない。
 幸いなことに子供の体が小さい分、私が入るスペースはたっぷりとある。私もベッドに脚を乗せ、半ば子供にのしかかるようにして体を落ち着けた。子供はころころと寝返りを打って抵抗を示したが、両腕で押さえつけると大人しくなった。なんとかゆっくりと眠れそうだ。
 こうして身を寄せ合っていると、一匹で寝るよりも暖かいことに気づく。よく働くニンゲンでも、このベッド自体を温めることはできなかった。王宮に私とニンゲンしかいなかったときには知ることはできなかった熱だ。役に立つのならば、たまには私のテリトリーに立ち入ることを許そう。寒い日ならば一匹でいるよりもよく眠れそうだ。
——二匹そろってるともっと可愛いね。
 馴染みの薄い鳴き声に起こされた。いや、足音は聞こえていた。このメスに振りまく愛想なぞ持ち合わせていなかっただけだ。のっそりと細く瞼を開ける。たまにこの家にやってくるメスは笑顔を浮かべると、おはよう、と私の頭を撫でる。私は立ち上がり、窓辺へと逃れた。あのメスに触られるのは承知できない。
 子猫もやがて目を覚ました。警戒心よりも好奇心の方が強い子供は、初めて見る存在に目を瞬かせ、あまつさえ甘えた声を出した。呆れて物も言えない。ニンゲンのメスが振り回すねずみのおもちゃに子猫はじゃれつきだす。私を巻き込まなそうだと確認し、円いベッドに戻った。私に必要なのはメスではない、安らぎだ。
 子供は体力も集中力もない。飽きてすぐに戻ってきた。メスが我々の狩猟本能を刺激するのが下手だというのも理由の一つだろう。
 薄く目を開けてニンゲン達の様子を探る。二匹はテーブルを挟んで座り、会話をしている。私達のニンゲンは興奮気味に私と子猫の違いを語っていようだ。関心の湧かない内容だ。それは子猫も同じだったようで、ぴったりと私に寄り添い、頭を乗せてくる。
「あのメスはいい猫だね!」
「馬鹿ね。あれは猫ではなくてニンゲンよ。私達のオスもニンゲン」
「ニンゲンってなぁに?」
 子供はどうしてなんでもかんでも質問をするのか。辟易とするが、なぁになぁにと私の背を叩くのだから答えないわけにはいかない。暴れる両腕を押さえ込む。
「ニンゲンというのは私達に仕える生き物よ。私達に寝床と、食事と、娯楽をもたらすもの。 私達の従僕」
「ふぅん?」
 理解できなかったのか、子猫は大きくあくびをした。私を煩わせておいて大した度胸だ。そのくせ遊んでと首に鼻を突っ込んでくる。大人しくしていなさいと頭を舐めて諌める。
——おやつだよー。
 メスの鳴き声に、私も子猫も顔を上げた。私達はニンゲンの鳴き声の一つである、おやつ、の意味を理解している。子猫はベッドから飛び降りると、後ろ足だけで立って、メスが持っている皿の中を覗こうとした。当然高さが足りず、中を伺うことはできない。
 私もベッドから降りたが、まずは私達のニンゲンの方を見遣った。あれが止めないということは、食べても害はないのだろう。私もメスの前に並ぶ。
——はい、どうぞ。
 床に置かれた平皿の中には、いつものとは違う食事が入っていた。私達のニンゲンが捧げるおやつはペースト状のものだ。皿に置いて出されることもない。今目の前にあるものとはだいぶ違う。毎日の食事として献上されるカリカリに似ているが、厚みはあまりなく、楕円に三角がついた得体の知れない形状をしている。鼻を近づけ匂いを確認した。食べ物であることは間違いなにようだ。
——お魚さんのビスケットだよ。今日ぐらいはって手作りしたんだ。
 メスの鳴き声の意味は理解できなかったが、大した内容ではないのだろう。子猫は恐る恐る一つかじってみると、美味かったのか勢いをつけて食べ始めた。私もそれに続く。メスが用意した食事にしてはいい出来だ。今までの非礼も少しぐらい許してやらないことはない。
「あのメスはいいニンゲンだね」
「私は嫌いよ。初めてこの家に来たときは、挨拶するより先に撫でてきた。礼儀ってものを知らないのだわ。それになにより、私達のニンゲンを横取りしようとしてるんだもの」
「なんで?」
 質問を受けている間に私はすべてのおやつを食べきった。子猫は小さくて短い悲鳴を上げたがもう遅い。滓を少しでも摂取しようと皿を丁寧に舐め回す。私は汚れた自分の手を丁寧に舐める。
——はい、ユウタにはこれ。バレンタインスイーツ今年も手作りしたんだ。
 メスが箱を開けると甘い匂いが広がった。未練がましく皿を舐めていた子猫が、舌を出したままそちらへ顔を向けた。ソワソワとした気配が伝わる。
 私が動くよりも先に子猫は走った。テーブルに飛び乗る。女が置いた箱の中へ顔を突っ込もうとして、私達のニンゲンの手に阻まれた。
——コラ! これはダメだ。
 それでも諦めようとしないものだから、私もテーブルに飛び乗って子猫の頭を叩いた。萎縮した首根っこをくわえて床へ降りる。そのままベッドへと連れて行った。
——ポットちゃんは賢いね。
——二年も前のことなのに覚えてるみたいだな。
 しょげている子猫は何が悪かったのか判らないのだ。私は怒っていないことを示すために頭を舐めた。子猫は伏せていた耳をほんの少しだけ持ち上げて、こわごわと私を覗き見る。
「馬鹿ね。あれはニンゲンの食べ物だから私達には毒なのよ」
「ニンゲンは食べられるけど、猫は食べられないってこと?」
「そうよ。食べてしまうと体の中が痛くって、熱くって、苦しくって、とてもとてもツライのよ。だからあれを食べようとするのはおよしなさい」
「なんで食べられないんだろ」
 子猫はまだ拗ねているのか、小さくなったまま動かない。私は溜め息をつき、子猫にぴったりと寄り添って丸くなった。小さな塊が温かいのが私の救いだ。耳を澄ませるまでもなく、ニンゲン達は談笑し、私達にとっての毒を賞味している。
 私は以前、毒だと知らずに食べてしまった。あの甘そうな匂いにつられたのはもちろんだが、それ以上に私のニンゲンが美味しそうに食べていたことに興味が湧いたのだ。食べて後悔したのは、全身を苛んだ痛みだけが理由ではない。
 私と、私が認めているあのニンゲンが、まったく違う生き物だと突きつけられた事実が、なによりも私を落ち込ませた。私と彼には大きな隔たりがある。
 それ以来私は、ニンゲン達が話すバレンタインという単語を、意味は判らないながらも大っ嫌いになった。
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